ブルーインパルス(Blue Impulse )
航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称。
1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地(航空自衛隊入間基地)において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ、このときに初めてスモークが使用された。
なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。
また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで「天竜」という愛称が採用されることになった。
ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上、古臭いという意見もあった。
そこで、これまで使用していたコールサインの「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した。
編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという。彼の妻が「衝撃という意味では、原爆の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという。
⚫ 東京五輪で五輪を描く
1963年(昭和38年)1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック(東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった。
当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であったが、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった。
同年5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった。
この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し、これを叩き台にしてOOC(東京オリンピック組織委員会)が開会式典の構成を策定した結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった。
しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことはできなかったという。また、カラースモークも、1番機が青、2番機が黄、3番機が黒、4番機が緑、5番機が赤の5色で五輪を描くように準備した。
しかし、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前である。
開会式前日の東京は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた。このため、ブルーインパルスのパイロットらは「これは明日はない」と早合点し、深夜1時まで酒を多く飲んでそのまま新橋に宿泊してしまった。しかし、翌朝パイロットらが目を覚ますと東京の空は快晴であり、泡を食ったブルーインパルスのパイロットらは二日酔いのまま入間基地に駆け付け、本番に臨むことになった。
*これ以降、10/10は晴れの特異日と言い伝えられている(私はリアルに存じています)
ブルーインパルスは出発に際し、入間基地の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た。予定通り午後2時半に離陸したブルーインパルスは、神奈川県湘南海岸の上空で待機した。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長の松下治英は機転を利かせて航空無線機器でNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった。
聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に、ブルーインパルスは江の島上空を通過し国立競技場へ向かった。会場で鳩が放たれ君が代斉唱が終わった直後、赤坂見附の上空にたどり着いたブルーインパルスは松下の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた。練習でも経験したことのない会心の出来栄えであり、「成功」の無線を受けたパイロットらはコクピット内で歓喜の声を上げたという。 展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過したり、上野・池袋・新宿・渋谷・品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている。
当時は都内での飛行は厳しく制限されていなかった上、前述の通り航空管制官からは「どの高度で飛んでもよい」という許可を受けていた。
これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった。
ブルーインパルスの隊員らはこの展示飛行の功績で防衛功労賞とOOC(東京オリンピック組織委員会)からの感謝状とトロフィーを10月20日に授与されている。
展示飛行で使用されるスモークは、スモークオイルをエンジン排気で加熱して気化させ、そのまま大気中で冷却することで凝結し白い煙のように見せている。スモークオイルは曲技飛行の分野で主流の切削油を使用している。
スモークオイルをエンジン排気口の後部に噴射するため機体後部に噴射装置を搭載し、スモークオイル用のタンクも確保されている。また操縦席にはスモーク用のスイッチも設置されている。
スモークは課目に応じて発生させるタイミングが決まっており、1番機や5番機からの指示によってスモークを発生させたり停止したりしている。ただし、1機のみで行う「ソロ課目」においては、パイロットの判断により使用する。
1998年まで使用されていたカラースモークは、切削油に専用の染料を混ぜることによって発生させていた。カラースモークを使用しなくなった理由としては、以下の理由が挙げられている。
・ 染料を混合した切削油は十分に攪拌しておく必要があるため、展示飛行直前の給油(実機への搭載)が前提となり、手間がかかる。
・ 機体に染料の飛沫が付着した場合、除去作業の手間がかかる。
・ 染料の沈殿を防ぐため、展示飛行ごとに切削油の抜き取り作業が必要になる。
・ 染料そのものの購入コストがかかる。
・ 1998年の防府市と千歳市での展示飛行で、「車に色がついた」との苦情が寄せられ、調査の結果カラースモークが原因と判明した。
カラースモークの色はポジションによって決まっており、1番機と5番機が白(ホワイト)、2番機が青(ブルー)、3番機が赤(レッド)、4番機が黄(イエロー)、6番機が緑(グリーン)を使用していた。
同時期には各国の曲技飛行隊でも同様の問題を理由にカラースモークの使用が禁止されていったが、攪拌しやすく地上物への影響を抑えた染料の登場もあり、パトルイユ・ド・フランス、フレッチェ・トリコローリ、レッドアローズなどは都市上空でもカラースモークを使用するようになった。
ブルーインパルスでも2020年の東京オリンピック開会式で再び五輪マークを描く構想が空自内で持ち上がったことでカラースモーク再開への気運が高まり、航空開発実験集団がフランスなど海外の展示飛行で使用している染料を取り寄せて、車や洗濯物などの地上物への影響や、機体との適合性など、日本で使えるかどうかの検証を行い、2019年中に実機試験を実施した上で翌年3月20日に松島基地で行われた東京オリンピック聖火到着式において、カラースモークを使用した展示を行った。
~wikipedia~
見えた!15台のカメラで狙ったブルーインパルス五輪飛行【映像まとめ】