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直観とは一体なんですか Ⅱ ~聖書

2021年02月11日 | 日記

直観とは一体なんですか Ⅱ

 

産業経営学の助教授であるマイケル・プリトゥラは,ある分野に関する知識を集積すればするほど,「人の思考と推論の方法は徐々に変化する」という理論を立てています。
思考は情報を編成してひとまとまりのブロック,つまり塊にします。そのような情報の大きな型ができると,時々思考はのろのろとして遅い分析段階をう回して,直観的な結論,
つまりひらめきに直接到達することができます。

プリトゥラによると,それらの大きな型を,脳が連結するにつれて,ひらめきは上達してゆきます。

「脳の働き」という本にある日常的な例を考えてみましょう。
「錠前屋がただの曲がった針金の感触を頼りに複雑な錠を開けてしまうのを見よ。あたかも神秘的な直観の力でそうしているかのようだ」。
はたから見ると錠前屋の直観は神秘的に思えるかもしれません。しかし実際には,長年の経験によって生みだされたものなのです。わたしたちのだれもがこの種の直観を用いています。
例えば,自転車に乗るとき,「ハンドルを少し右にきらなければバランスを失ってしまう」などと意識して自分に言いきかせることはありません。
そうしなくても,経験から得た知識に基づいて,脳が直観的にそのように決定してくれます。

同様に,アインシュタインの自然科学の分野での直観もどこからともなく生まれたのではありません。蓄積されたばく大な専門知識から引き出すことができたのです。
しかし,ある分野の専門知識があっても,それによって他の分野でも直観が働くわけではありません。アインシュタインの直観は配管の修理の助けにはならないでしょう。

多くの人は,「女性」と「直観」は切っても切れない関係にあると考えています。女性は本当に男性よりも直観が働くのでしょうか。もしそうだとすれば,専門知識の修得という考え方でこの現象はどのように説明できるでしょうか。

よくある例を考えてみましょう。赤ちゃんが泣くと,別の部屋で忙しくしていた経験豊かな母親は,子供にミルクを与える用意をするのではなく,おむつに手を伸ばします。
なぜでしょうか。その母親は子供の泣き声を聞き分ける直観的な感覚を身につけたのです。母親はどの泣き声が何を要求しているのか,特定の時間にはどんな泣き声を上げることが多いのか分かるのです。
即座に,意識して考えることなく子供の必要を見極め,それに応じて反応できるのです。神秘的な第六感のようなものが働くのでしょうか。
いいえ,母親の直観は,母親としての専門知識,つまり経験によって勝ち得たものに基づいているのです。母親になったばかりの人やベビーシッターはそのような状況では初めのうちはおろおろしてしまうでしょう。

しかし,女性は直観が働くという考えは母親の仕事だけに限りません。多くの人は,女性がしばしば男性よりも速くまた直観的に,人や個性が関係した状況で微妙な点を判断できることを目にしてきました。
科学者たちは,この点で男女に差がある理由をはっきり理解していません。

米国エルパソのテキサス大学の心理学者ウエスタン・アゴーは,この分野での自らの研究に基づいて,女性は平均して男性よりも直観が優れており,その違いは生理学上の違いというより,
文化の違いに起因していると結論しました。ほかの専門家たちも,女性の伝統的な役割のために,女性は性格をじょうずに判断できるように訓練されたと結論し
ています。

人類学者のマーガレット・ミードの言葉どおり,「人間関係の中で長年訓練された ― 女性の直観の本質はそこにあるのだから ― ため,女性はどんなグループ活動にも特別な貢献をする」のです。

女性の直観というのが推測の域を出ないことは確かですが,直観が男性にとっても女性にとってもたいへん有用な手段であるという見方に同意する専門家はますます増えています。
心理学者のジェローム・ブルナーは自著「教育の過程」の中で,「科学者たちが,『直観の働く人』という評判を得ている同僚たちに心からの称賛を惜しみなく送っているのだから,
これは直観が科学の分野で有用で価値あるものだということの有力な証拠であり,我々は学生たちがこれを育めるよう努力を傾けなければならない」と言っています。

とはいえ,直観という能力の価値を認め,それを育てたいと思っているのは,科学の研究者たちばかりではありません。
ただ問題は,それが可能なのだろうかということです。確かに,他の人たちよりも直観に恵まれている人はいます。
しかし,直観が専門知識を修得することと密接に結びついているように見えることからして,

学ぶ方法にもっと注意を向けることにより,生来の直観の才能を伸ばせると考えている専門家もいます。

例えば,本を読むときも,ただ多くの事実を吸収しようとしないことです。質問を提起しましょう。
理解できない点ははっきりさせます。要点をまとめるようにし,結論を予想するよう努めます。数限りない細かな点を把握しようと努めるのではなく,広い範ちゅうあるいは型,根底に流れている基本的な考えを見つけるようにします。心理学の教授ロバート・グレーザーの見解のとおり,「意味深い大きな型をつかむ能力」は,まさに直観の根幹なのです。

もちろん,すべての直観に正当な根拠があるわけではありません。例えば,もしその直観の基礎になっている知識が最初から誤りだったならどうでしょうか。
そのように考えると,わたしたちは学ぶ内容の正確さを注意深く吟味する気にさせられます。2,000年ほど前に,聖書がまさにそのことを述べていたのは賢明なことでした。
フィリピ 1章10節には,「より重要な事柄を見きわめるように」と書かれています。
「ここの人たちはテサロニケの人たちより心が広く,神の言葉を非常に意欲的に受け入れ,聞いたことがその通りかどうかと聖書を毎日注意深く調べた」。
(使徒 17:11)

直観のもう一つの欠点は感情の影響を受けることがあるという点です。直観だけに頼って大事な決定をしたり,人を評価したりすると危険が伴うのはそのためです。
「なにか気になることがある場合,感情のバランスを正しく取らないかぎり,直観の信頼度は低くなる」と,心理学者エブリン・ボーンは警告しています。
怒り,恐れ,しっと,憎しみなどの強い感情は,それ自体は直観ではありませんが,直観に影響を及ぼし,それを損なうことさえあります。例を挙げて考えてみましょう。
長い間互いにひどく憎み合っている二人の人がいます。二人の間に新たな誤解が生じれば,それぞれ相手が悪意を抱いていると直観的に分かるのです。
しかし賢明にも聖書はこのように「うわべの価値によって」裁くことがないよう注意を与えています。
「皆さんは物事のうわべしか見ていません。自分はキリストのものだという自信がある人は,私たちもキリストのものだということを思い返してください」。
(コリント第二 10:7)

誇りという感情があると,まるで他の人の判断や意見に比べて自分の直観には特別の価値があるかのようにみなし,直観を重視しすぎるようになるかもしれません。
影響を被る人のことを考慮しないで,早計な決定を下すかもしれません。また,誇りがあると,人の感情を害そうが,よく考え抜かれた助言を受けようが,直観的な判断に固執してしまうかもしれません。
この場合も,聖書は賢明な助言を与えています。「取るに足りない者であるのに,自分は相当な者であると考える人がいるなら,その人は自分の思いを欺いているのです」(ガラテア 6:3)

最後に,直観に頼りすぎるなら精神的怠惰を招くことになるかもしれません。知識,理解,知恵を得るのに近道はなく,系統立てて勉強するしか方法はありません。
ですから,賢い人は最初に浮かんだ直観的な考えに執着する代わりに知識を蓄積します。そうした知識は理解や洞察力の源となり,多くの場合直観の源ともなるのです。

結局のところ,直観は宇宙の最高の知力,つまり創造者の知力と調和して初めて真の価値を持つのです。この方は正確な知識と真の知恵の源であり,わたしたちがこの価値ある知識を取り入れることを望んでおられます。
ご親切な創造者は,聖書を通してご自分のお考えや感情や活動にわたしたちが接することを許しておられます。そのような知識を生活の中で活用してゆくとき,直観を含むわたしたちの「知覚力」「訓練」されます。
「一方,固い食物は,十分に成長した人のためのものです。そのような人は,使うことによって識別力を訓練したので,正しいことも悪いことも見分けることができます」。
(ヘブライ 5:14)

ですから,創造者とみ子に関する知識の分野での専門知識を修得してください。
「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります」。
(ヨハネ 17:3)

それ以上に努力を傾ける価値あるものをほかに見つけることは決してないでしょう。直観を引き出すのにそれ以上の源はないのです。