散日拾遺

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3月16日 ゴダードが世界初の液体燃料ロケットを飛ばす(1926年)

2024-03-16 03:32:50 | 日記
2024年3月16日(土)

> 1926年3月16日、マサチューセッツ州オーバーンの農場において、ロバート・ゴダードは世界初の液体燃料ロケットを打ち上げた。飛行時間2.5秒、最高高度12メートルで、到達水平距離は56メートルだった。この時の燃料は液体酸素とガソリンで、平均時速は100キロであったという。
 1882年生まれのゴダードは、16歳の時にH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を読んで、「宇宙飛行を可能にしたい」という夢を持った。彼が実際に液体燃料でロケットを飛ばしたのは45歳の時である。このロケットは「ネル」と命名され、推進部は先端部分にあり、液体酸素とガソリンのタンクは一番底にあるため、それぞれ導管で推進部に供給される仕組みだった。ネルは長さ約3メートル、重量は約4.8キロだった。
 液体燃料ロケットの理論は、ロシアのツイオルコフスキーによって既に発表されていたが、実際にロケットを飛ばしたのはゴダードが初めてである。
 その後ゴダードは、クラーク大学の教員としてロケットの研究を続け、自動誘導装置ジャイロの開発などを手がけた。彼は「近代ロケットの父」と呼ばれている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.81

Robert Hutchings Goddard
(1882年10月5日 – 1945年8月10日)


 その日のマサチューセッツは雪景色。どこまでが発射台でどこから本体か。
 「推進部は先端部分にあり、液体酸素とガソリンのタンクは一番底にあって、導管で推進部に供給される仕組み」という上述の解説からこの形状はとても描けないが、なるほどこういうことだったのか。
 「ロケットの父」は、しかし彼自身の非社交的な性格もあって、生前に業績が評価されることはなかったという。これには考えさせられる。明らかに彼自身、評価ということに関心が薄かったのだ。「宇宙旅行を可能にしたい」という夢が本物であるなら、志を同じくする人々との連携なり競争なりには想到しても良さそうなものだが、それにすら価値を置かず、ひたすら自分一個のこととしてロケットの設計図を描き続けたのである。そのゴダードが H. G. ウェルズから影響を受けた。ウェルズの方は人間への開けた関心を持ち続ける歴史家であり、そうした型の作家であった。
***
 調べて知ったのだが、ゴダードの初飛行の翌1927年、ヴァイマール共和国で「ドイツ宇宙旅行協会(Verein für Raumschiffahrt)」なるものが結成され、それ以降、液体燃料ロケットの研究を盛んに行なっている。
 ドイツでロケット熱が高まったのは、1923年にヘルマン・オーベルトの『惑星空間へのロケット Die Rakete zu den Planetenraumen』が出版されたのがきっかけだという。そのオーベルトは少年時代にジュール・ベルヌの作品を読んで宇宙に関心をもったのだそうで、これは『月世界旅行 De la Terre à la Lune/Autour de la lune』のことに違いない。そこでもかしこでも、出版物の影響力は大したものである。
 オーベルトはフォン・ブラウンらと共に液体燃料ロケットの設計・製作を進めたが、1929年の実験中に爆発して鼓膜が破れ、右目を失明する惨事となった。しかしその後もロケット開発への熱意を持ち続けている。
 ドイツ宇宙旅行協会の活動は平和的なものだったが、ヴァイマール共和国陸軍がロケットの長距離攻撃兵器としての可能性に注目し、フォン・ブラウンを陸軍兵器局に引き抜く。この人事がやがてナチ時代の報復兵器V2として結実し、戦後アメリカのロケット開発につながっていくという因縁話である。
 日本の降伏の4日前まで存命だった「父」ゴダードは、ドイツの息子たちの動静をどのように見ていただろうか。実はオーベルトは1922年にゴダードに手紙を書き、ロケット研究の論文を取り寄せている。ただし後年、自分の研究はゴダードのそれとは完全に独立のものであると主張した由。
 そのことの真偽はさておき、息子たちは確かに非社交的な「父」とは異なり、資金と活躍の場を与えてくれる「政治」という名の社交を大いに活用したのだった。

   

左:Hermann Oberth, (1894 - 1989)
右:Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, (1912 - 1977)

Ω

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