たとえば、何かに悩んだとしよう。その「何か」は、たとえば技術的なことでもよいし、たとえば人間関係であってもよい。些末なことでも重要なことでもどちらでもよい。とにかく「何か」だ。
そして、その問題解決について、ない知恵をしぼってアレやこれやと考え、ある結論を出したとする。この結論もまた、ひとつでもよいし、複数でもよい。結論だ、と断定できなくてもよい。結論めいたもの、ぐらいでよい。
それを持って、交渉もしくは話し合い、はたまた打ち合わせ、などなどに臨んだとしよう。そのとき、その結論(のようなもの)は、いったん心の中に留保する。とめ置いたまま、「アレやこれや」のもとなった問題を開陳する。そして、こう言うのだ。
「なんかいい案はないやろか?」
即座に名案あるいは自分自身が想像もしなかったアプローチからの答えが返ってくるときはそれでよし。
そうでない場合は、自らが思い悩んだプロセスを小出しにオープンにしていき、相手のアイデアが出やすいように仕向けてみる。それでも出なかったときに、自分自身がひねり出した結論をおもむろに披露する。できればそこは、あえて複数の「結論めいたもの」にしたほうが、より効果が出やすい。
どちらにしようかな?
てなもんである。
と、ここまで読めば、ふむふむナルホド、と思われる人も多いだろう。ところが、わたしが採用したいその手法が、容易に瓦解してしまう場合がある。
相手がわたしに何かを押しつけるようなスタイルを採用した場合、また、そういう話法をする人の場合には、生来の天邪鬼と負けず嫌いがむくむくとアタマをもたげてきて、じきにガツンと衝突してしまうのだ。
そうなるともうイケナイ。
理論理屈より感情が先に立ち、相手を言い負かすための議論になってしまうのだ。
もちろん、そのようなものを議論と呼べるはずがないことは百も承知している。そして、「相対する他人は自分を写す鏡である」と考えれば、その相手のその出方は、わたしの態度や話ぶりゆえである可能性がきわめて高いことも、理解していないではない。
しかし、ついつい相手の出方に合わせてしまいがちになるのだ。
そして、そのやり取りがエキサイトしたまま終了したあとには、必ずといってよいほど反省タイムが訪れて、わたしを落ち込ませてしまう。きまってそれは、興奮冷めやらない時間帯にやってくるものだから、いきおいその落ち込み度合いは、感情の高ぶりに反比例して大きくなる。
あゝこんなことでは・・・
とはいえ、自らの言動を検証し、それに対して改善を試みるというアクションをつづけていると、人間というやつはそれはそれでよくしたもので、それなりではあるがナントカなってくるものでもある。
現実に、たとえば10年前のわたしと今のわたしを比べれば、その文脈においてはずいぶんとマシになったと、自分では確信している(他人さまが言ってくれないので自分で言うしかないのが哀しいところなのですが)。上述したようなことも、今ではそれほど数多くあることではない。しかし、根っこのところで相変わらずなのだから、相手の出方次第で、ついついアタマをもたげてしまって、気づいたときにはあとの祭り。結局そうなったのね、ジャンジャン、てなもんである。
「生涯は一片の青山なり」という。
「青山」とは墓場。「死ぬまで生きる」のが人の定めならば、せめてもそっとマトモな人間になるようにいっしょうけんめい足掻いてみなさいよ、というような意味だと、わたしは勝手にそう解釈している。
まことにもって性凝りもないが、そんな言葉が思い浮かんだりする辺境の土木屋62歳。
伸びしろはもうほとんどないかもしれないが、「変わる」ことならまだできる。
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