かつてパソコン用に使っていた机がテレビ台になった。
わたしがはじめてパーソナルコンピューターというやつを個人で手にしたときに、それを置くために買ったのだから、20年ほど前からわが家に存在しているものだ。文机というのだろうかローデスクというのだろうか、座して使うそれは、右に引き出しが上下に並んでふたつあり、その左にはキーボードを置く台があってスライド式で出し入れするようになっている。当然、そこで使用されるパソコンはデスクトップ型だった。
「いつも机に向かってパソコンばかり」
インターネットを体験しはじめたころ、また、「ブログを書く」という日々をはじめたころ、女房殿に何度かそうなじられたのを覚えている。
ことほど左様に、わたしにとっての必需品だった。
わたしが家のパソコンを使わなくなって久しい。それからこの机は彼女のものになった。そうなるとおかしいもので
「いつも背中を向けてパソコンばかり」
たびたびそう言いたくなってくるのはわたしのほうになった(けっして口には出さなかったが)。
そんな彼女がもっぱらスマホばかりを見るようになり、デスクトップがノートパソコンになりして、いつしか机は机として使われなくなった。つまり、物を乗せる台「のようなもの」になったのだ。
そしてとうとう、台「のようなもの」から台「そのもの」になった。
それをして昇格というのか降格というのか。もともと与えられた機能とは異なる使い方をされるようになったのだから、世間的にみれば降格なのかもしれないが、わたしはそうは思わない。
テレビ台になったそれを見たときわたしは、「ほー」と感心し、「よかったじゃないか」と内心で喜んだ。ただ漫然と何かを置かれ積み重ねられるのではなく、テレビ台という決まった役割を与えられたのだもの、昇格なのか降格なのかはよくわからないが、復活であることだけはまちがいない。
そんなこんなを思いながら文机転じてテレビ台をながめるわたしが、近ごろ好んで読んでいる南直哉師の著作には、しばしば「机の話」が登場する。
たとえばそれはこんなふうにだ。
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たとえば、「机がある」と人は言う。それは、色や形に違いがあれ、誰が見ても「机」に見える。そう見えるのは、目の前のその物体に「机」の「本質」が内在していて、それが特定の場所と時間に出現して、「この机」という現象になったからではない。
ある物体が「机」であるのは、誰かが「机」として使ったからである。誰も使わぬ机は「机」ではない。逆に言えば、誰かがある物体を机として使えば、それは「机」になる。
「使う」という行為が「机」の存在を決める。
さらに使っている人間も、そのとき、彼が彼であるのは、「机を使っている彼」としてであり、それ以外に存在しようがない。そのときの彼の存在の仕方は、机の使用が決める。
(『正法眼蔵を読む』、Kindleの位置No.250あたり)
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またたとえばこんなふうにもだ。
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ある立方体が「机」であるということは、それが「腰掛け」や「踏み台」でありうる可能性を排除することで決まる。つまり、その上でものを書き、その上で食事をするという行為を意志的に続けることが、ある関係の仕方を際立たせ、定型にするのである。すなわち机であることAは、それ以外の可能性である非Aとの違いから対照的、あるいは反照的に規定されて、はじめてAたりうる。(同385)
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かつて「机」であった「テレビ台」を目の前にしながら、今、「机」としてある「炬燵」のなかで、ふむふむなるほどそりゃそうだと深く深くうなずく、辺境の土木屋62歳の朝。
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