「とある方からの質問への答え」として、こんなような返事をしたのだよと、10日ほど前に書いた。
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こちらのはたらきかけに相手が応じてくれない様を、「笛吹けど踊らず」と表現しますが、踊れない笛をいくら吹こうと踊れるはずがありません。
問題は育てようとする相手にあって自分には(さほど)ない、という「思い」に執着してしまうと、ついつい批判の矛先は相手に向かうようになります。
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とはいえこれはあくまでも、「笛を吹く」側の反省と自戒としてある「答え」であって、「踊る」側に立ってみれば、同じことは当てはまらない。
なんてことを、今朝出勤途中のクルマのなかで唐突に思った。
なぜならば、人というものは、「踊ろう」という思い込みひとつ、また「踊ろう」という意思ひとつがあれば、たとえそれが「踊れない笛」であったとしても、なんとか踊ってしまうものだからだ。
そして、その「踊れない笛であったとしても、なんとか踊ってしまえた」人というのは、その「踊り」から何かを感じ取り、次のステップへと進むことができることを、体験的にわたしは知っている。
そう考えると、「同じことは当てはまらない」と断定した上の文章は、すべてがそうではなく、その後半は、そっくりそのまま当てはまるということがわかる。
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問題は育てようとする相手にあって自分には(さほど)ない、という「思い」に執着してしまうと、ついつい批判の矛先は相手に向かうようになります。
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「育てようとする相手」を「教えようとする相手」に置き換えればよいだけだ。
心の持ちようとしてもっとも避けなければならないのは、「他責の念」だろう。
そして、それに執着してしまう心だろう。
なんてことを考えながらクルマを運転していると、ほどなくして会社に着いた朝。
こんな日は、概して調子がよいものだ。
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