『超越と実存』(南直哉)を読んでいる。
あいかわらず、この人の書くものは難解だ。
読みつづけるのは、少なくともわたしにとっては、「苦行だ」と言ってもさしつかえないだろう。
比較的「読みやすい」と思われた『刺さる言葉』
でさえ、随所にちりばめられた難解きわまりない言説に往生し、やっとこさ読み終えることができた。
その前に読もうとした「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」に至っては、
「しかし、おもしろい」
「難しいがおもしろい」
などと、このブログで広言してしまったにもかかわらず、どうにも歯が立たなくて、読み進めることを断念してしまった(またいつかチャレンジするかもしれませんが)。
ではなぜ、性懲りもなく、また、よく理解もできないくせに、読もうとするのか。
それはひとえに、わたしが著者のこういった姿勢に惹かれているからにちがいない。
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私は、仏教に何らかの「真理」を見て、それを獲得するために修行しようと思ったわけではないからだ。
(略)
私には昔から、どうしても解決したい問題があった。そのための道具として、仏教を選択したのだ。釈尊や道元禅師の言動が「真理」かどうかではなく、敢えて言えば、使えるかどうか、だったのである。
(Kindleの位置No.34)
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かくして今日も南直哉を読む。
朝の10分間読書で読む。
ときにはガリゴリとアタマを掻きむしりながら、
またときには虚空をうつろに見つめながら。
「ご苦労なことだ」
と別の自分が揶揄するが、苦笑いをひとつくれてやって読む。
「苦行」
そんな本の読み方もあっていい。
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