【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

大峰奧駈2:  柏木~前鬼・奧駈核心部を行く

2021-01-12 21:29:06 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)
 二〇〇五年八月、仕事の夏期休暇を利用して、いよいよ大峰奥駈の道2を目指す。今回は、大峰山東側の柏木の集落から入山し、「阿弥陀が森」「小普賢岳」「大普賢岳」「行者還岳」「弥山」「八経ヶ岳」「仏生ヶ岳」「釈迦ヶ岳」「太古の辻」を経由して、前鬼にいたるコースを三泊四日(うちテント一泊)で辿ることとした。このコースは、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)を越え、行場を越えるいわば大峰奥駈道の核心部といえるコースとなる。本格的な縦走コースだが営業している山小屋は弥山小屋だけであり、荷物もテント、シュラフ、コッフェル、バーナーなど、それに真夏の尾根の縦走でさらに今年は雨が少なく、水を二リットルに食料、それらの共通装備・荷物は全部私が担ぎ、荷物は二十五キログラムを優に超え(三十キロ越えか)「久しぶり」に「気合の入った」山行となった。参加メンバーは、私と連れ合いそれに今回は次女の、Aも参加した。七月には三人で比良釈迦ヶ岳へのトレーニング山行を行い、その後それぞれ体慣らし、ダイエットを心がけ、大峰奥駈に備えたのである。

二〇〇五年八月十一日出発 柏木から登山。小普賢岳と大普賢岳の鞍部でテント設営。

 朝三時三十分に起床、本日の朝食・昼食用におにぎりを作る。やがて連れ合い、Aも起きだして出発準備をはじめ、四時五十分に我が家を車で出発。近畿道ではにわか雨が降り出し、天候が心配。西名阪も渋滞することもなく天理インターから国道百六十九号線を南下。県道を経由し吉野に至り再び国道百六十九号線を辿り、七時二十五分に柏木に到着。柏木の集落に駐在所があり、玄関のブザーを鳴らすとやがて駐在さんが起きだしてきた。早朝で申し訳ないと思いつつ登山届けを出し、自動車を十四日まで置かせてもらえる場所を聞くと、近所のOさんを紹介してくれた。但しまだ寝ているとのこと。起きるまで待つ間に朝食のおにぎりを食べ、ストレッチ準備運動。あらためて荷物の重さに多少の不安を抱く。
  八時半にOさん宅の木戸をノックし、出
    今回の柏木からの登山口     てきた奥さんにお願いし自動車を近所の空
き地に置かせてもらう。八時五十五分に柏木の石の標識のある大峰登山口から登山開始、最初は階段状の道を登る。天候は早朝は心配したがここに来て快晴である。
 九時三十五分に「大迫分岐」で少し立ち止まるまる程度の休止。準備運動をこなした感じだが、まだ荷物がしっくりとこない。十時二十分に「上谷分岐」に到着し小休止。小さな地蔵さんがある「上谷分岐」は標高約七百メートル強で、柏木が三百メートル程度なので四百メートルほどを一時間二十分で登ったことになる。コースタイムでは一時間半となっているので(後でわかったが、持参の山地図のコースタイムはあまり正確でなく、参考にならなかった)、今のところ順調なペースだ。但し、空き缶やガラス瓶の残骸が数箇所に捨てられているのには不快な思いがする。
 ここからは、尾根上の道や踏跡を辿り高度を上げていく。途中千百六十六メートルのピークは西側を巻いていくが、大体は尾根を忠実に辿る。途中二回小休止をとり、十三時十分に尾根から少し外れた谷で昼食休憩。途中、地図上に水場の記号が付けられている場所では、今にも枯れそうな水がチョロチョロと出ている。水は少なく、持参してきて正解である。家から持参のおにぎりをぱくついていると、単独の登山者が軽快に通り過ぎて行った。おにぎりを食べたあと、食料係り(連れ合い)から配給のお菓子を少し食べ、十三時四十分に出発。十五分ほど行くと再び尾根上に出たが、そこが「伯母谷覗」で断崖絶壁上のすばらしい展望所。谷を超えた対岸の「大台ケ原」「台高山脈」が一望である。先ほどの軽快な単独登山者が弁当を
食べており、『われわれもここで食べれ         叔母谷覗きの絶壁
ばよかった』と後悔。ここで十五分ほど写真休憩。ここから再び尾根を伝う。地図ではルートは点線になっているが、道の踏跡はしっかりついているし、少し気をつけて歩けばそんなに危険でもない。
 十四時二十五分「阿弥陀が森分岐」に到着。標高は約千六百メートル。柏木からは約千三百メートル登ったことになる。ここには「女人結界門」があり、「山上ヶ岳」方面には女性は入れない。宗教文化か伝統か、日本の自然や山の恵み特に生き物の命に対する感謝と尊敬の念などを起源とする古代宗教の伝承なのだろうと思う。民俗の原始や思いを尊びながらも、新しい価値観が共存できるような空間ができないものだろうかとも思う。
 「上谷分岐」から「阿弥陀が森分岐」までコースタイムでは二時間半となっているが、われわれは休憩を加算せずに正味二時間四十五分かかっている(小休止、昼食休憩も含めると三時間五十五分)。荷物が多いとはいえ、時間がかかりすぎか、コースタイムがおかしいか。「女人結界門」で写真を撮って、十四時四十分に「阿弥陀が森分岐」を出発。
 しばらく行くと「脇宿ノ跡」とその脇に靡(なびき・神が宿っているところ)があり、お札などが並べてある。この先「明王ヶ岳」(千五百六十九メートル)付近に地図ではキャンプ場の記号があり、今日はそこでテントを設営する予定であるが、そんな平地が見つからない。さらに歩いていくと縦走路から少しはなれて「営管の行場」があり、連れ合いが一人で経箱石を見に行った。彼女は元気いっぱいだが私とAはトレース上で休憩。十分ほどで連れ合いが戻ってきて、再び縦走路を歩き、やがて「小普賢岳」のピークを超えた。ピークから少し降がったところが「大普賢岳」との鞍部で、ちょうどそのあたりの山道が少し広くなっており、十五時四十分にここのトレース上にかぶさってテントを設営しようと決めた(もう少し良いところがないか、荷物を置いて五分ほど先まで見に行ったが、平地がなかった)。 
 テントを設営後、「熊よけ」のためにラジ      本日のテント場はトレースの上
オを鳴らしながら、水場がないので担ぎ上げた水で夕食準備や明日のお茶つくり。さすがに千六百メートル地点で、天気は晴れているが大変涼しくて快適。沸かしたお茶もすぐに冷えて、ペットボトルに移し変えた。十七時五十分夕食のボンカレーといわしの缶詰をおいしく食べる。ここはトレース上だから、明日は夜も空けきらないうちから修験道の山伏が枕元を通り過ぎていくだろうなと思いつつ、夕食後早い就寝。深夜になると、涼しいどころか、鞍部のため風の通り道となり、テントをたたく風の音や、風に鳴く笹の葉の音でバタバタ・ザワザワとうるさいこと。それでも心地よい疲れで結構熟睡した。

二〇〇五年八月十二日 大峰奥駈の修行の道を「弥山」を目指す。途中に熊のフン発見。
 風の音で早くから目は覚めていたが、明るくなってきた五時に起床。ガスがかかっている。修行の行者は誰も通らなかった。修行場の真髄ともいえるこのコースに、しかもお盆休みにもなっていようかというこの時期に、行者にまったく会わないというのも少し肩すかしの感じではある。とにかく朝食準備、といってもパンを手早く食べるだけである。肌寒いぐらいで、熱いお茶を沸かし回し飲みをした。
 朝食後、テントを撤収し、六時十分に出発。リュックの荷物の重さにも(水が無くなったが)だいぶ馴染んできた。六時二十分、「和佐又分岐」を過ぎ、六時二十五分に「大普賢岳」(千七百八十メートル)頂上着。写真撮影をしたが、ガスがかかっており景色のほうは残念ながらほとんど見えない。
 ちょっとした鎖場などを通過し七時三十五分に「稚児泊り」という少し広くなった鞍部に到着。子供はここまでで、これ以上はだめですよという意味の地名かなと思いつつ、ここで小休止。八時に「国見岳」(千六百五十五メートル)を越え、「七ツ池」という水はないが大きな窪地の横を通過し、八時十五分に「七曜岳」(千五百八十四メートル)を越える。それからずっと尾根上を歩き、八時四十五分に十五分間の小休止。あちこちに靡があった。
 小休止の後、「行者還岳」を目指す。稜線上を歩き、縦走路と山頂への稜線の分岐にかかり、そのまま稜線を辿り、九時三十五分に頂上に錫杖の立てられている「行者還岳」(千五百四十六メートル)に登頂。十分間ほど記念撮影。まだガスが晴れず、視界はあまりよくない。
     頂上からもとの縦走路に戻る。
     行者還岳の頂上       しばく行くと鎖場や梯子が連続し、ガレ
場も続き、まさに修験道場そのものである。途中の梯子の横に、水場があり二
本のホースで水を引いているが、そのうち一本は枯れ、もう一本からチョロチ
ョロと水が流れ出ている。ここでペットボトルに水を補充。なかなか水がたまらず、汗にぬれたタオルを流したりもして二十分間の休憩となってしまった。少し休みすぎか。しばらく行くと無人小屋の「行者還小屋」の下部に出た。「行者還小屋」は最近改築されたようで立派なログハウスで、中には毛布も置かれてありきれいに使われている。三十人くらい泊まれそうで、柏木で駐在さんが「行者還小屋」まで行って泊まればよいといっていたのもなるほどだが、柏木から一日の行程としてはちょっと無理かと思う。山地図によるとこの辺りに関電鉄塔と送電線があるように書かれているが、見当たらない。調べなおす必要がある。「大普賢岳」から「行者還小屋」まで、地図のコースタイムでは二時間四十五分になっているが、我々は休憩込みで三時間三十分。少しかかりすぎなのか、コースタイムが早すぎるのか。この尾根歩きの間に天候は晴れだしてきて、昨日に引き続き快適な山行となってきた。
 小屋を過ぎると、「天川辻(北山越)」という、昔の天川村と北山側を結ぶ要衝がある。小さなピークをいくつか越えるが尾根伝いに比較的緩やかな道で、やがてきれいなブナ林の中を歩いていく。連れ合いとAは、「きれいねー、ロマンチックやねー」などといっている。そこに、突然(人間のより)大きな、真っ黒い、しかもまだ比較的新しい獣の糞が出てきた。「きゃー、これ何」とAの声。「さー、ひょっとして熊の糞かも知れんね」(いのししかも知らんが)と私。そこからしばらくは、連れ合いは熊よけの鈴を鳴らしっぱなしで、「ラジオもつけて」とのこと。せっかくのブナ林もそさくさと駈け抜けた。尾根上のところどころで、これから目指す「弥山」「八経ヶ岳」の雄姿が望まれる。
 途中、「行者還トンネル西口」からの尾根の登山道との合流を過ぎ、十一時四十五分に「一ノ垰」(いちのたわ)の避難小屋に到着。避難小屋は倒壊寸前で使用不可能。小屋の横の平地で昼食とする。昼食も行動食で朝と同じくパンにバターを付けて、おかずにソーセージとチーズ。昼食を食べていると、がさがさという笹を掻き分けて何かが近づいてくる。先ほどの糞のことがあり一瞬ドキッとしたが、単独行の登山者が軽快に通り過ぎて行った。十二時十五分出発。トンネル西口からの谷側の登山道の合流点を過ぎる。トンネル西口に駐車し、この登山道から「弥山」に登山する人が結構おり、この行程で数組のパーティに出会った。やがて十二時四十五分に「弁天の森」(千六百メートル)のピークを過ぎる。「弁天の森」は広葉樹林帯で静寂であり、印象に残るきれいな森だ。
 十三時五十五分に「聖宝ノ宿跡」着。ここから「弥山」頂上までが標高差約3百メートルのいよいよ胸突き八丁だ。コースタイムでは五十分、看板には一時間と書いてある。呼吸を整えて出発。連れ合いとAには、『先に登っていいよ』といってある。重荷を担いでいるので、あまり無理せず確実に登っていく。今日登ってきた山々が時々一望に見え、景色を眺めつつ急坂を登る。途中から長い階段となり、一歩ずつ登ってゆくと、やがて「弥山小屋」が見え出した。十五時十分に「弥山小屋」到着。連れ合いとAは十分前に到着していて、私をお出迎え。「はい、皆さんご苦労様でした。」
 まず、小屋に荷物を置いて「弥山神社」 
に行き、よく冷えた缶コーヒーを一気に飲      弥山頂上の立派な看板、本日宿泊地
んで、チョコレートを食べた。「弥山神社」には立派な祠があり、そこが「弥山」(千八百九十五メートル)の頂上である。先客がおり、写真を撮っておられた。祠の裏手は大峰山脈の一大展望所であり、「大普賢岳」「国見岳」「七曜岳」「行者還岳」の登ってきた山々、「大普賢岳」の奥には「阿弥陀が森」から「山上ヶ岳」「稲村ヶ岳」、などが一大パノラマであり、南を見れば明日登る「八経ヶ岳」「明星ヶ岳」が間近に望まれる。
 「弥山小屋」は、きれいな小屋で、庭に丸太で作ったテーブル・ベンチが置かれ、清潔で雰囲気がいい。夕食までの間、連れ合いとAは体を拭いたり着替えたりしている。一息ついて外のベンチで明日用のお茶を沸かす。さすがに千九百メートルに近い標高であり、涼しいを通り越して寒いくらい(もっとも私はあまり寒さはこたえないが)。おかげで沸かしたお茶がすぐに冷えてペットボトルに移し変えることができ段取りが良い。十七時には少し早めの小屋の夕食。おかずは、焼き魚とオムレツとあと煮物。ご飯は固めだがおいしかった。きっと水がおいしいからだろう。食後、再びお茶沸かし。薄暗くなると、少しガスがかかってきた。今日の同宿者は男性が単独行の河内長野からの僧侶の人(弥山神社での先客で写真を撮っていた人)、予約なしで来た人で夕食を何とかしてくれと頼んでいた人、天川川合の役場に自動車を止めて登ってきた二人連れの中高年登山者、女性の若い二人連れと連れ合いとA。僧侶の人と若い女性二人連れは明日、前鬼へ行くわれわれと同じコースとのこと。女性二人連れは、一人は大学時代にワンダーフォーゲルをしていたとのことで、もう一人は現役のクラブチームの自転車レーサーで、今回も大峰登山前に紀伊半島の山を自転車で登ってきたとのことで、バリバリの現役。十九時ごろすっかり暗くなってから留学生の外国人が二人、テントを設営したいといって小屋に来た。小屋主さんがポンプの点検に出かけており、私が対応。小屋主さんが戻ってきてから報告したら『よくありますよ』とのこと。彼らもやはり前鬼まで行くとのこと。ここでもやはり修験道の行者はいなかった。なにやら肩透かし。明日に備え、早々に睡眠。

二〇〇五年八月十三日 ガス。近畿最高峰の「八経ヶ岳」を越え、前鬼へ日没との競争
 八月十三日は五時に起床。女性の二人連れは早々に出発していった。荷造を整え、われわれは六時に小屋の朝食。おかずはふりかけや佃煮等々。それでも腹いっぱい食べて、出発準備を終え小屋の前でストレッチ。今日は濃いガスの中で、どうも一日中こんな感じがする。小屋周辺で記念撮影のあと六時三十五分出発。「八経ヶ岳・前鬼」と書かれた石標のある道を進む。いったん道は降り、鞍部から再び登りだす。あちこちにフェンスで囲いをしてあり、フェンスに開き戸がついている。「熊よけのため開放禁止」などと書かれてある。七時三分に「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)に登頂。ここは近畿地方の最高峰である。近畿地方以西には二千メートル以上の山はないので、西日本で第2の
  高峰の山である。日本百名山の一つ。ここ
 近畿地方最高峰の八経ヶ岳(1,915m)  で少し写真撮影だが、あいにくの濃いガスのた
め景色はまったく見えない。この先ルートファインディングにも少し苦労をするかもしない。
 「八経ヶ岳」から先のルートはやはり尾根筋を辿る。「明星ヶ岳」を過ぎ、「禅師の森」といわれる原生林を越え、ひたすら歩き続ける。道は細く、ところどころは踏み跡を辿ったり、倒木が道をふさいでいたり、崖の途中をトラバースしたり、道が崩れていたりして必ずしも楽な道ではない。また、ガスのせいもあり、ルート探しには気をつかう。
 九時に「舟ノ垰」(ふねのたわ)といわれる鞍部というか、窪地に到着し五分の休止。再び歩き出し九時四十分に無人小屋の「楊子ヶ宿小屋」着。「弥山小屋」で同宿の僧侶の人が先着してここで休憩しており、挨拶を交わす。僧侶はしばらくすると先に出発した。ここで十五分間のおやつ休憩。この小屋もログハウスで十五人程度が泊まれそうな、比較的きれいな小屋であった。
 再び、稜線上の道を辿る。このルートの基本は尾根筋であることを徹底し、谷へ降りる道や踏み跡は辿らないことが鉄則である。「仏生ヶ岳」(千八百五メートル)、「孔雀岳」(千七百七十九メートル)のピークだけは西側を巻きやがて再び尾根に戻る。十一時四十分に「孔雀覗」の崖上に出るが、濃いガスのため何も見えず。本来なら前鬼川の渓谷の展望が望めるところであろう。しばらく行くと、「両部分け」の岩場があり、金剛界、胎蔵界と呼ばれている岩崖が望まれる。
 その後道は細い稜線上に出る。道がT字状になっていて、自然と右の岩場のほうへと行った。道はすぐに大きな岩壁を右手に見ながら谷へと下っていく。踏み跡がそれも新しいのが結構ついてあり、辿っていくとやがて岩壁の下部に出た。これ以上行くとどんどんと谷のほうへと降りて行く。『これは道をはずしたな』と思い、連れ合いとAをその場に留まらせ、降りてきた道をT字状のところまで戻った。逆方向の道を見ると目印の赤テープが木に巻きつけてあった。大声で連れ合いとAを呼び、ルートに戻す。もっとすばやく鉄則に戻らなければならないのに、少し行き過ぎた。この道をはずしたために三十~四十分時間のロスをした。少し時間が気になりだした。
 岩場を過ぎて十三時十五分に鞍部になったところの道端で昼食。このあたりが「橡の鼻」といわれるあたりかと思う。「弥山小屋」で作ってもらった弁当で、梅干に佃煮ふりかけ等。ご飯ばかりという感じで結構ボリュームがあったが、三人とも全部平らげた。十三時四十五分出発。ここから岩壁の上を辿り、鎖場やへつるところもあり、「行者還岳」付近と並んで行場らしいところだ。結構スリルがあるだろうなと思うが、濃いガスのため何も見えず、高度感もスリルもほとんど感じないのだが、かなり強い風が吹いており、時々突風とな
   
            釈迦岳直下の鎖場           釈迦岳頂上の釈迦像(当時はだいぶ傾いていた)
り、飛ばされれば危ないので、緊張が走る。鎖場を過ぎ、急坂を上りきり、十四時十分に、大きな釈迦の像が置かれた「釈迦ヶ岳」(千八百メートル)の頂上に立つ。ここは視界がよければ「弥山」「八経ヶ岳」が一望で、北は大峰山脈、南は熊野にいたる山々、東は大台ケ原と絶景だそうだが、本日は残念ながら何も見えず。釈迦像は前に傾き、像自体にも亀裂が入って痛んでいる。修理しなければならないなと思う。時間も気になり頂上では簡単な記念撮影をして十四時十五分出発。
 そこから先は鎖場もなく普通の尾根道で、それでも滑って転んだりしながら十五時丁度に「潅頂堂」と呼ばれるお堂と並んで、無人小屋の「深仙山小屋」の有る広場に到着。山小屋には人影が見えるが、先行の僧侶であった。

僧侶「ご苦労様です。」
私 「道を間違いまして、時間がかかりました。今からだと前鬼には遅くなりますね。」
 僧侶「私は今日はこの小屋に泊まります。明日「大日岳」に登って、前鬼まで降りて、昼のバスで帰
ります。」
私 「それはどうも。ところで水場は大丈夫ですか。」
僧侶「少しボウフラがわいていますが、大丈夫でしょう。」

 そんなやり取りの後、お互いのカメラで写真を撮りあう。僧侶は「家で『どこ行ってるの』といわれるので、証拠の一枚です。」とのこと。十五分ほどゆっくりしたのだが、実は内心前鬼への道を考え、あせっていた。前鬼への降り道は山の東斜面で日没が早い。しかも谷沿いになっている。「これは日没との競争になりそうだ。」そう思いながら、「太古の辻」へと急いだ。十五時四十分に「太古の辻」に到着。ここは写真ポイントなので手早く写真撮影を済ませ、四十五分に前鬼へと急いで出発した。コースタイムでは前鬼まで一時間半(連れ合いの本では一時間五十五分と書かれてあり、順調に行っても十七時十五分(四十分)着だ。これまでのペースを考えると十七時五十分ごろになるかもしれない。ここは思い切り引っ張る必要がある。
 「太古の辻」からの道はしばらくは尾根上を降る。地図によると道が迷いやすいとの記号が記されている。長い階段があちらこちらにありルートの目安になる。それに目印の赤や黄色のテープが木に巻きつけてあり、それを忠実に辿るようにした。やがて「両童子岩(二つ岩)」と呼ばれる大きな岩のある場所に着く。そこから階段を降りると、だんだんと「白谷」といわれる谷へと降りていく。時間は十六時十五分を過ぎ、谷へ降りるにつれてだんだんと薄暗くなってくる。どんどんと道を稼ぐ。連れ合いは靴が小さくて足の親指の爪の痛みを言う。Aも「膝に来ている」という。それでもごまかしごまかし、どんどんと降りていく。十六時四十分過ぎになるとかなり暗くなってきて、だんだんと目印のテープを探すのに苦労をする。ルートもはっきりしない。Aと連れ合いが少し遅れて列が伸びる。それでもどんどん引っ張るが、なかなか目的地が見えない。
  『これは、とりあえず二人をこの場所から動かさないで、私だけ先に降りて、荷物を置いて、迎え
にこなければならないかも』とちょっと考えがよぎる。
暗くなってきている中で、慎重にかつ急いで目印や踏み跡を探しながら、降り続けた。時間は十七時をまわり、森の外の木漏れ日が頼りで下り続けていると、やがて小さな祠が二つ並んでいるところへ来た。祠と祠の間には、しっかりとした道というか踏み跡がある。
『よし、やった。ここからは懐中電灯をつければ、迷うことなく前鬼に着くだろう。』
内心ほっとした。連れ合いとAに「もうすぐ着くよ」と声をかける。今までと違って「普通の道」を安心して歩き続けていると、やがて森が開け前方が明るくなってきて、前鬼の「小仲坊」が見えてきた。少し歩いていくと前鬼の全体(といっても、母屋とお堂と宿坊の「小仲坊」とトイレなどの設備だけ)が見えてきた。十七時二十分に「小仲坊」の前へ到着。先行していた若い女性二人連れがおり、
「わー、ごくろうさまです。今お風呂を頂いたんですよ。」
といって迎えてくれた。ご主人の息子さんがいて
「お疲れ様でした。ゆっくりしてください。」
とねぎらってくれる。
「遅くなりましてすみません。宜しくお願いします。」とあいさつ。
森を出るとまだまだ明るいのだが、やはり 
前鬼のご主人の五鬼助さんは、心配してお  前鬼、母屋、本堂、小仲坊(宿泊所)、トイレなど
られたとのこと。ご心配をかけましてすみません。
「お風呂にどうぞ」といわれ、連れ合いとA、そのあと私も入る。三日ぶりの入浴に本当にくつろぐ(ついでに着替えを余分に用意していなかったので、簡単に洗濯もさせていただいた)。入浴後に夕食。本日の宿泊客は宿坊に泊まるわれわれ三名と女性二人連れ、それと母屋に泊まるご主人の知人が三名。夕食は宿坊泊まりの五名が一緒に、奥さんの心のこもった焼き魚やゴマ豆腐などの手作りの料理を頂いた。ご主人の五鬼助さんは七月に朝日新聞で大きく紹介されていて、その話などに話題が弾んだ。「釈迦ヶ岳」のお釈迦さんが傾いていて、亀裂が入っていることや、熊の糞があったこと、奥さんは熊に出会ったことがあることなど、また女性二人組みとは自転車レースのことやら、山行きのことなどにも話題が弾んだ。そのうち、庭で息子さんが花火を始め、にぎやかな中での夕食となった。心和む時間であった。夕食後宿坊の前で、明日のお茶を沸かす。
 女性二人連れは、明日朝七時台のバスに乗り吉野の「青根ヶ峰」を登山し、吉野を見物してその日のうちに東京、横浜に帰る、そのために朝四時に宿坊を出発するとのこと。
夜九時過ぎに一同就寝。

2005年8月14日 前鬼裏行場を廻る。「山よさよなら ご機嫌よろしゅ。またくるよ」
 前鬼は私も良く知らなかったのだが、集落の呼称ではない。五鬼助さんの母屋と五鬼を祀るお堂と宿坊である「小仲坊」それにトイレなどの付属施設、一戸だけのバンガローがあるだけで、ご主人の五鬼助さんの名前の由来は、昔開かれた前鬼の村の守護代の御子孫である。普段は大阪の寝屋川にお住まいで土日などに当地にこられて、前鬼の管理や運営を行われている。ほかには人家も何もない。普段は「小仲坊」も無人であり、無人宿泊所として修験道の行者や登山者の憩いの場となっている(有料)。今回は丁度土曜日であり、盆休みも重なり、「小仲坊」も営業をしており、後を継ぐ予定の息子さんも一緒にお見えであった。
 朝は五時に起床、付近を散歩する。少し森の中へ入ったり、キャンプ地の芝生の感触を楽しんだりして朝の清々しい空気を満喫した。これらの管理は大変だなと思う。六時に朝食を頂く。母屋でご主人と、奥さんと語らいながらの温かい朝食であった。本日行動予定の「前鬼裏行場」の様子を伺う。台風等の影響で少し荒れていることや、「垢離取場」(こりとりば)は渡渉しなければならないこと、谷を渡るときに道を間違えないことなどをうかがった。
 朝食のあとリュックを「小仲坊」に置き、飲み物だけを持って、六時五十分に出発。母屋の裏から山の中へと入っていった。道はしっかりと踏み跡があり、目印の杭やテープも巻かれ、迷うことはない。しばらくはずっと登りの道で、山の麓らしく、トカゲやら蛇などがうろちょろしている。道を登りきると峠に小さな祠が有る。そこからは今度は谷への降り。しばらく歩いているうちに川の音が聞こえてくる。道はだんだんと荒れてきて、所々崩れていて斜面をまいたり、橋が落下していて谷へ下りて対岸へ渡ったりしなければならない。
 そのような繰り返しで、やがて七時五十分に「垢離取場」についた。北股川の清流の小さな滝の下に、深さ五十~六十センチメートルぐらいで白い石が敷き詰められているようになっている。そのようなところが十畳分ぐらいある。行者はここで水垢離をし、身を清める。河原の巨岩と「垢離取場」の白い石とコバルトブルーの川の水のコントラストがなんともいえない神聖さを漂わせている。
 「垢離取場」でタオルを絞ったりして、小休止のあと靴を脱いで渡渉。さらに奥の行場「三重滝」(みかさねたき)を目指した。すぐに標識が出てきて「三重滝」まで四百メートルと書いてある。そこから階段があり、登っていく。階段やら架橋やら道は作られているのだが荒れている。しばらく行くと階段や梯子を下りる道となる。「三重滝」の音がだんだんと聞こえてくる。やがて木の間から、立派な「三重滝」が見え出した。もう少し先まで行くと、滝が良く見えた。時間が現在八時二十五分で、どうも滝壺まで行くと時間がぎりぎりになりそう。今回は、ここで「三重滝」を眺めて、戻ることとした。
来た道を戻る。「垢離取場」ではまた靴を脱いで渡渉。迷いやすい谷へ降りる道には気をつけて渡った。峠の小さな祠では、今回の山行の無事を感謝して合掌。十時十分に前鬼に帰着。「三重滝」まで行ったことをご主人に告げると、時間が速かったのか少し驚いた様子であった。朝食の時には四時間かかると言っておられた。
 下山の支度をしているうちに、昨日「深仙山小屋」で分かれた僧侶さんが山から降りてきた。十四時四十七分のバスに乗るとのことで、先に出発された。私たちはご主人に見送られて前鬼を十時五十分に出発。息子さんは釣に行っているとのこと。ここからは林道をひたすら約三時間歩き続けるだけ。しばらく歩いて行くと二十メートルぐらいにわたって林道が大きく谷底へ崩れ、一メートルほどしか残っておらず、とても車の通れない場所があった。崩落場所の前鬼側には、軽トラックがあり、崩落場所の向こう側には多分五鬼助さんの自動車と思うが、大阪ナンバーの四WD車が駐車してあった。ここまで荷物を運んできて、車の通れないところを歩いて運び、反対側の軽トラックに積み替えて、前鬼まで運んでいるのだろうと思う。私たちに少しも不便や不自由さを感じさせない前鬼の管理運営に腐心されている五鬼助さんのご苦労に、本当に頭の下がる思いがした。
 林道の車止めを過ぎ、三ヶ所の前鬼トンネルを過ぎて十一時五十分に、滝見台に着いた。ここから見る「不動七重滝」は実に壮大で立派な滝である。ここで記念撮影。本来はここから滝まで遊歩道があり、さらに進むと前鬼まで続いているのだが、台風で道が荒れていて通行不可能の掲示が出ている。春に大峰山行をしたときも「みたらい渓谷」で同じように通行不能になっていた。なかなか修復が追いつかない現状のようだ。このあたりまで来ると、自動車がかなり入ってきている。撮影後再び林道を歩き始める。途中、谷から湧水をくみ上げ、ホースで引いている場所があり、そこにちょっとしたベンチが置いてあり、「本州製紙前鬼温泉」と看板が出ていたと思うが、十二時三十五分にそこで昼食とした。本日の昼食は持参のもので、連れ合いとAはシーフードヌードル、私はカップチャンポンメン。前鬼から持参の水を沸かし、おいしく食べた。
 昼食後再び林道歩き。延々と歩いている。前鬼川はすでに池原ダムとなっており、ダムで水没した集落の「成瀬跡」の記念碑などを見ながら通り過ぎていく。やがていくつかの峰を隔てて池原ダムに架かる前鬼橋が見え出した。「もうすぐ前鬼口のバス停だよ」と連れ合いとAに声をかける。十四時十五分ようやく前鬼口バス停に到着した。昼食時間を除いて、二時間四十分の林道歩きであった。前鬼のご主人は三時間かかるといっておられた。バス停前の自動販売機で、久しぶりの缶コーヒーを飲む。バス停前の閉まっている売店の前にあるベンチにリュックを下ろし、ストレッチをしていると、心地よくも充実感のある疲労感に全身が浸ってくる感じがする。ストレッチを終え、登山靴の紐を緩めベンチに座り、対岸の稜線をぼんやりとみているうちに、スローテンポで「山男の歌」の最終節が自然と出てきた。

 『山よさよなら ご機嫌よろしゅ また来るときにも 笑っておくれ』

 連れ合いは、ガレ場、岩場(カニの横ばいのような、鎖場や梯子がたくさんあり)、ブナの原生林やササの多い茂った尾根歩きなど、とても面白い山行だったとのこと。Aは、これからは「趣味は登山とする」とのこと。十分ほどすると、先行の僧侶さんがバス停にやってきた。林道をはずれ、山道を歩いてきたとのことである。
 十四時四十七分発の「湯盛温泉杉の湯」行きのバスが五分ほど遅れてやってきた。旧バス停(?)で座っていた連れ合いとAも降りてきて、バスに乗る。国道百六十九号線の谷あいを縫って走るバスの、それと同じ行程の稜線をわれわれは縦走してきたことになる。思えばよく歩いたものだ。バスの中では僧侶さんとひとしきり、山談議。
 一時間強でバスは柏木の集落に入っていく。柏木のバス停でわれわれはバスを降り、僧侶さんを見送った。駐在所に行きブザーを鳴らしたが不在の様子。下山届けを手帳の紙に書いてポストに投函。その後Oさん宅にいき、駐車の御礼と三泊分の支払い。車のところで靴を履き替え、帰る準備。帰りに「杉の湯」で温泉に入っていく計画であった。十六時三十五分「杉の湯」着。ところが「ホテル杉の湯」では「日帰り入浴は午後二時間まで」とのこと。交渉したが入れてもらえず、どこかにないかと聞くと、五分ほど吉野のほうへ行くと「中荘温泉」があるとのこと。「ホテル杉の湯」で「陀羅尼助」を買い、「道の駅杉の湯」で土産を買い込み、再び車に乗って「中荘温泉」を目指す。十七時に「中荘温泉」到着。吉野川の川底七十メートルからくみ上げている温泉とのこと。早速入浴。前鬼では湯をかけ流していただけなので、湯船につかると、生き返る思いがする。たっぷり洗って、たっぷり浸かった。十八時十分、「中荘温泉」を出て、帰路に着く。国道百六十九号線、橿原から国道二十四号線、西名阪自動車道から近畿道に乗り継ぎ、たいした渋滞に巻き込まれることもなく、二十時四十分、孫たちの待つ我が家へと帰着した。

 二〇〇五年夏の、大峰奥駈道の山行報告は以上です。この続きは、二〇〇六年夏~秋にかけて「南奥駈」を目指し、最終は、熊野本宮大社まで行き、その記録を報告する予定です。
 
                                       (この項終わり)


大峰奧駈➀

2020-08-31 23:24:42 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)
 二〇〇三年八月に四国霊場八十八カ所を、八回に分けて自転車と歩きで結願した。四国曼荼羅の未来を信じそして凛とした世界に溶け込み、心地よい達成感と充実感に浸りつつ「さて、次は何をしようかな」と考えていた。
 二〇〇四年八月には屋久島に行き、西日本最高峰の宮之浦岳(一九三五メートル)に登り、翌日白谷雲水峡から縄文杉まで登山した。次は、「熊野古道」の踏破を考えていた。登山としての魅力もたっぷりだが、『日本の原始宗教』『役行者などが開祖の修験道』『女人禁制と民俗学・文化人類学』等々の関心もあったので、どうせチャレンジするならなら大峰奥駈道をという思いがだんだんと『確信』となってきて、二〇〇五年になってから連れ合いとの話でいよいよ大峰奥駈を決行することを決めた。大峰山は「山上ヶ岳」周辺が女人禁制となっており、要所に女人結界門が設けられている。連れ合いは、女人結界門まで行き、そこを横目に見て(記念写真撮影を写して)奥駈道を辿ることにこだわっている。そんなことで二〇〇五年三月には、吉野から青根ヶ峰、四寸岩山、大天井ケ岳他を縦走し、五番関の女人結界門を横目に見て洞川温泉までを踏破しようと計画を立てた。


 二〇〇五年三月二十一日出発 阪急電車の始発に乗って、吉野へと

 二〇〇五年三月二十一日朝三時四十分に起床、本日の山行の朝・昼食のおにぎりやおかずを作り出す。ばたばたとしているうちに連れ合いも起きだして、準備を整えた。
 朝、始発の梅田行き阪急電車に五時二十分に南茨木駅から乗車した。車内は結構多くの人が乗っている。休日であり、仕事や商売で「ご苦労様」の人々、遊びや趣味で「お楽しみの人」それぞれだ。西中島南方で阪急電車を降りて、地下鉄御堂筋線に乗り換え、天王寺下車。近鉄阿部野橋駅から六時十八分発の吉野線の朝一番の準急に乗り、一路「吉野」を目指した。
 近鉄もはじめのうちは結構混んでいたが、藤井寺あたりからは徐々に空いてきて、ぼちぼちと連れ合いと朝食のおにぎりを食べ出した。車窓の風景を眺めているうちに、やがて橿原神宮や飛鳥地方を通り抜け、吉野川沿いを走り出す。「上市」を過ぎて、電車は吉野山に向かい、八時一分に「吉野」に到着。
 観光地独特の雰囲気の「吉野」駅だが、まだ早朝のため、土産物の売店などはすべて閉まっている。駅舎を出るとすぐに吉野ケーブルがある。これは、ケーブルとはいうものの、実際はロープウェイ、というよりむしろ距離も短く、定員も八~十名程度で、遊園地にあるゴンドラのよう。今回は、距離も長く歩き、夕方も時間との競争になりそうなので、とにもかくにも時間を稼ぐために吉野ケーブルに跳び乗った。八時十分発で、一人の地元のおばさん乗り合いとなった。吉野を超えて大峰山、洞川温泉まで行くといったら、感心していた。
二〇〇三年八月に四国霊場八十八カ所を、八回に分けて自転車と歩きで結願した。四国曼荼羅の未来を信じそして凛とした世界に溶け込み、心地よい達成感と充実感に浸りつつ「さて、次は何をしようかな」と考えていた。
 二〇〇四年八月には屋久島に行き、西日本最高峰の宮之浦岳(一九三五メートル)に登り、翌日白谷雲水峡から縄文杉まで登山した。次は、「熊野古道」の踏破を考えていた。登山としての魅力もたっぷりだが、『日本の原始宗教』『役行者などが開祖の修験道』『女人禁制と民俗学・文化人類学』等々の関心もあったので、どうせチャレンジするならなら大峰奥駈道をという思いがだんだんと『確信』となってきて、二〇〇五年になってから連れ合いとの話でいよいよ大峰奥駈を決行することを決めた。大峰山は「山上ヶ岳」周辺が女人禁制となっており、要所に女人結界門が設けられている。連れ合いは、女人結界門まで行き、そこを横目に見て(記念写真撮影を写して)奥駈道を辿ることにこだわっている。そんなことで二〇〇五年三月には、吉野から青根ヶ峰、四寸岩山、大天井ケ岳他を縦走し、五番関の女人結界門を横目に見て洞川温泉までを踏破しようと計画を立てた。


 二〇〇五年三月二十一日出発 阪急電車の始発に乗って、吉野へと

 二〇〇五年三月二十一日朝三時四十分に起床、本日の山行の朝・昼食のおにぎりやおかずを作り出す。ばたばたとしているうちに連れ合いも起きだして、準備を整えた。
 朝、始発の梅田行き阪急電車に五時二十分に南茨木駅から乗車した。車内は結構多くの人が乗っている。休日であり、仕事や商売で「ご苦労様」の人々、遊びや趣味で「お楽しみの人」それぞれだ。西中島南方で阪急電車を降りて、地下鉄御堂筋線に乗り換え、天王寺下車。近鉄阿部野橋駅から六時十八分発の吉野線の朝一番の準急に乗り、一路「吉野」を目指した。
 近鉄もはじめのうちは結構混んでいたが、藤井寺あたりからは徐々に空いてきて、ぼちぼちと連れ合いと朝食のおにぎりを食べ出した。車窓の風景を眺めているうちに、やがて橿原神宮や飛鳥地方を通り抜け、吉野川沿いを走り出す。「上市」を過ぎて、電車は吉野山に向かい、八時一分に「吉野」に到着。
 観光地独特の雰囲気の「吉野」駅だが、まだ早朝のため、土産物の売店などはすべて閉まっている。駅舎を出るとすぐに吉野ケーブルがある。これは、ケーブルとはいうものの、実際はロープウェイ、というよりむしろ距離も短く、定員も八~十名程度で、遊園地にあるゴンドラのよう。今回は、距離も長く歩き、夕方も時間との競争になりそうなので、とにもかくにも時間を稼ぐために吉野ケーブルに跳び乗った。八時十分発で、一人の地元のおばさん乗り合いとなった。吉野を超えて大峰山、洞川温泉まで行くといったら、感心していた。
 ものの三~四分でロープウェイ「山上」駅に到着。奥の千本までバスで行こうかと思ったが、始発のバスが五十分後まで出発しないので、早速歩きだした。私も連れ合いも快調だ。宿坊や旅館・民宿、土産物屋などが軒を並べる、歴史のたたずまいのある吉野の街道を暫く行くとやがて仁王門があり、立派な伽藍を構える「蔵王堂」に到着。そこで記念撮影。「蔵王堂」を出て中千本の坂道を登っていくと、「勝手神社」や「竹林院」があり、この辺は記念撮影をしながら、ぶらぶらと通り過ぎた。有数の桜の名所であるのだが、開花にはまだまだ暇がかかりそうだ。まだ蕾が色づいてもいない。
 上千本に入り、九時十五分に「水分神社」(みくまりじんじゃ)を過ぎ、奥千本に至り九時四十五分に「金峯神社」(こんぷじんじゃ)に到着。神社の横手の道から、いよいよ山道となってくる。小休憩とした。
 「金峯神社」を出て、尾根伝いの山道に入っていくと、「旧女人結界」の石碑がある。時代を感じさせる碑を横目に見て、どんどんと山道に入っていくと、やがて作業用のモノレールが敷設されている。吉野側つまりピークの北面は結構雪が残っており、『これはひょっとすると、難儀するかも』と思いつつ登る。暫く登り十時十五に「青根ヶ峰」(標高八百五十八メートル)の山頂に到着。ここまで来ると回りの山々の展望が開けてくる。「青根ヶ峰」を超えて十五分ほど行くとやがて山道は舗装された林道に合流する。舗装道ではあるが、まだ冬季通行止めのようで、車は通っていない。日差しも良くのんびりと歩きたいところだが、長い行程であり山道は余り良くなさそうなので、林道を跳ばして行く。 
 十分ほど行くと、道は舗装道から再び山道へと入っていき、すぐに尾根筋となる。この尾根は「助四郎尾根」といい、これから目指す「四寸岩山」(しすんいわやま)のピークへと続いている。昔、修験道として多くの修行者が大峰山を目指したときに休憩したのだろう五十丁茶屋跡は、わずかな平坦地がその名残となっている。さて、山道は残雪が多くなってくる。地図では尾根を忠実に辿っていくのが正解だが、尾根上はところどころ雪に埋もれた作業用のモノレールと交錯している。道は雪に埋もれており、とにかく尾根のピークを辿るようにしているが、時々モノレールに浮いた雪を踏み抜いてしまう。本日の山行は、スパッツもアイゼンも冬装備は何も用意していない。少し難儀しそうだが、とにかく「せっせと」歩き続ける。
 やがて、十一時三十五分「四寸岩山」(標高千二百三十六メートル)に到着。山頂は「日当たり」が良く、雪は積もっていない。山頂で連れ合いと記念撮影。
 四寸岩山を越えると尾根は南斜面の下り坂となり、雪はまったくない。それでも前方にはこれから目指す大天井ケ岳、小天井ケ岳の北斜面が望まれ、どうやら雪はかなり残っていそうだ。登山地図では「アシズリ宿小屋」のしるしがあるが、それらしきものは山道ではわからなかった。

 アイスバーンの大天井岳北斜面に大苦戦。大天井を超え、五番関の女人結界門を横目に洞川へ。

 暫く行くと舗装された林道に出、林道を斜めに横切って再び山の尾根道を辿っていく。やがて十二時四十五分に百丁茶屋跡の広場があり、そこに二蔵宿小屋がある。この小屋は現在も使用されていて、整備されており、時々は行者さんなどが使っている形跡がある。ここの小屋の前の広場で、昼食とした。昼食は家で作ってきたおにぎりと目刺しとウィンナーソーセージとゆで卵。
 昼食を食べて十三時二十分に出発。ここの広場から道は二つに分かれる。稜線を登り大天井岳を超える道と、大天井岳の東側の巻き道だ。私は、早く洞川温泉に浸かりたいので『巻き道を行こう』と連れ合いに言ったら、彼女は『だめ。登る。』とのこと。ああ、えらいことやと思いつつ、渋々尾根へ続く山道へと歩き出した。
 道は尾根を忠実に辿っていくが、残雪がだんだんと多くなり、そのうちに完全に積雪の状態になってきた。踏み跡はまったく無く、モノレールの上に積もった雪を踏み抜いたりで悪戦苦闘。高度がどんどんと上るにつれて雪が硬いアイスバーン状態になってきて、蹴り込んでもステップが切れなくなってくる。斜面も急になってきて、滑落しないように慎重に登り続ける。尾根上の五~六メートルの岩に張り付いたアイスバーンを、連れ合いは直登している。たいしたもんだと感心する。私のほうは、左のほうをまいて登るが、やはりアイスバーンで悪戦苦闘する。アイゼンを持って来ればよかったと、事前の情報収集と準備を怠ったことをつくづく後悔するが、いずれにしても滑落して怪我したり事故を起こさないように慎重に上り続けた。大苦戦の挙句、急斜面を這うように登っていくと、傾斜がやがて緩やかになってきて大天井ケ岳(標高千四百三十九メートル)頂上へ十四時四十五分に到着。普通なら一時間弱のコースと思われるが一時間二十五分かかった。頂上で、苦労の挙句の記念撮影後十分ほど休憩。
 休憩後、南斜面を今度は五番関を目指して下ってゆく。南斜面になると、先ほどの苦労がうそのように雪が消えている。快適に行くうちに前方の山上ケ岳(標高千七百十九メートル)、稲村ケ岳(標高千七百二十六メートル)の山並みが一望に見えてくる。連れ合いと同行で、今回は女人禁制の山上ヶ岳には登らずちょうど鞍部にある五番関から洞川温泉に向かう予定である。
 やがて、十五時四十分に五番関に到着。五番関には女人結界門があり、その横には女人禁制の説明の看板があり、身の丈以上の大きな置物の錫杖が置いてある。早速記念撮影。女人結界門から入って直登していくと山上ケ岳にいたるが、わが一行は女人結界門を横目に見て、洞川方面へと向かった。
 十五時五十五分に林道との出合いに下りてきた。林道との出合いはトンネルの出口近くにあり、ちょっとした休憩所がある。本日の山行も殆ど終りに近づき、あとは舗装された林道を洞川温泉まで歩いていくだけ。この休憩所で十五分ほど休憩しお菓子を食べる。
 林道は冬季通行止めで自動車は通らない。このあたりはまだ標高も高く道路の上にはシャーベット状や、日陰のところではアイスバーンの状態で、雪が残っている。早く温泉に浸かりたいので、どんどんと急いで歩くが、時々雪に足を滑らせる。毛又谷という谷道を歩くため、少し早い目に薄暗くなってきた十六時四十分にケマタ橋を渡る。このあたりはまだまだ雪が残っている。暫く歩いて本日宿泊予定の『旅館紀伊国屋甚八』に電話を入れて、「現在ケマタ橋を過ぎてそちらに向かっているので、到着はあと四十分くらいかかる」というと、自動車で迎えに来てくれるという。これはありがたいとお願いした。十分ぐらいすると、やがてワンボックスカーで青年が迎えに来てくれた。
 合流地点から、「大峰山(山上ケ岳)の登山口へ行って見ましょう」と、今来た道を引き返し、ケマタ橋を渡らずに、二股になったもう一方の林道を直進し大峰登山口の駐車場、大峰大橋と女人結界門のあるところへ連れてくれた。開山の時期には山伏装束の行者さんでさぞかしにぎやかになるのだろうと思う。売店などが並んでいるが、今は一面に雪が残り、店は戸締りをしてひっそりしている。雪が多く大峰大橋まで行けなかった。自動車はUターンし、再びケマタ橋を過ぎ林道を走った。途中青年から大峰山の登山道の補修作業の苦労話や、昨年弥山への登山道で熊が出たとか山の話をいろいろ聞かせてもらったり、途中にある名水『ゴロゴロ水』の話を聞き、楽しい道中を過ごし十七時十五分に『旅館紀伊国屋甚八』に到着。おかみさんらのお出迎えを受け、まずは何より、早速温泉にゆっくりと浸かった。
 温泉の後、山の幸をメーンとしたおいしいご馳走を頂き、連れ合いと本日一日の反省などを話し、就寝。


 二〇〇五年三月二十二日(火) 洞川温泉の朝の散策から御手洗渓谷へ。

 三月二十二日は曇り空で、雨が降り出しそうな空模様。六時三十分に起床し朝風呂に浸かる。露天風呂に入ると山の冷気が心地よい。昨日の疲れが露天風呂の中に溶け込んでいきそうだ。
 八時においしい朝食を頂く。朝食後、宿で作っている揚げせんべいをお土産に注文し、その後連れ合いと二人で洞川温泉の町を散策することとした。洞川は水がおいしい。きっとコーヒもおいしいだろうと「洞川マップ」などで喫茶店を探したが、二軒ほどあるようだ。早速行ってみたが一軒目は閉店しており、どうも待っても開店する様子が無い。一軒目のコーヒをあきらめて、洞川の町並みを散策し、龍泉寺に立ち寄った。霧のような雨がしとしとと舞っている。護摩壇などもあり、修験道の歴史のある寺のようだ。
 龍泉寺を出て、里山を登り、上のほうに架かっている吊り橋を目指した。十分ほどの登りで吊り橋の袂についた。吊り橋を渡りだすと結構高度があり、洞川小学校や、町並みが一望に見える。ここで連れ合いと記念撮影をする。
 吊り橋を渡り、里山の展望台を超えて山をぐるっと周り、「踏み跡」のような道を辿って下へ降りることとした。滑りそうな道の途中に地蔵さんが祀ってあり、地元の人たちの信仰の場なのだろう。やがて里山を降り、民家の裏に出て、犬に吠えられながら一般の道に出た。洞川小学校の角を曲がり、門に続く道をとると二軒目の喫茶店があるのだが、こちらのほうも閉店していて、コーヒを賞味できなかった。
 宿に戻り、土産を詰めたりして準備を整え、十時に宿を出発。本日は御手洗渓谷を歩き、約九キロメーター先の天川川合まで行き、そこからバスに乗り、近鉄下市口から帰路をとる予定。
 宿から暫く行くとやがて橋があり、そこは、昨日登ってきた大天井ケ岳から沢を集める小泉川と、毛又谷、大峰登山口からの川瀬谷が一緒になる山上川が合流する場所で、その袂が御手洗渓谷の入り口だ。合流地点から先は山上川となって、山上川に沿った谷が御手洗渓谷で十時十五分に出発。


 御手洗渓谷を歩き、天川川合へ。そこからバスで下市口駅へ。楽しい山行でした。

 御手洗渓谷は、洞川から白倉出合が上流部分で、白倉出合から天川川合までが下流部分になる。白倉出合は、洞川からの山上川、白倉山・稲村ケ岳の沢を集める白倉谷、そして行者還岳・弥山・八経ケ岳の大峰連峰の真髄からの沢を集める川迫川、弥山川の合流点で、大峰山の西斜面の水を一気に集めている。白倉出合から先が天ノ川となる。
 二〇〇四年の台風で、御手洗渓谷の特に下流部分が斜面の土砂崩れなどでかなり傷んでしまい、復旧が追いつかず、通行できないとの案内掲示が出ている。白倉出合までは何とか行けそうなので、遊歩道を歩いていくこととした。天候は、小雨がしとしとと降っている。山上川は、大小の岩や滝、深い淵や滑滝があり変化に富んだ渓谷を創っている。遊歩道は、最初のうちは整備され、ぶな林の中の散策路などを通るが、やがて岩場やはしご場なども随所に出てくる。暫く行くと舗装路に合流し、アスファルトの道を歩く。稲村ケ岳への登山路のバス停も過ぎ、やがて再び山道へと入っていくが、山道への入り口には、やはり白倉出合より下流は昨年の台風で道が崩落していて通行できない場所があるとの掲示が出ている。山道に入ると、かなり急な岩場の下り斜面や木橋、吊り橋なども出てきて、遊歩道とはいえ、逆の登りなら結構厳しいルートになる部分が随所にある。三組ぐらいのパーティとすれ違ったが、それぞれ結構なアルバイトの様子であった。やがてミタライの滝、ミタライ渕にかかる吊り橋を渡り、十一時二十分に白倉出合に到着した。
 白倉出合は、大峰連峰へのアプローチの交通の要所でもあり、駐車スペースと建物がありちょっとした広場である。白倉出合から下流部分は、いくつかの川を集めて天ノ川となる。ここから下流は掲示板にあったように御手洗渓谷の川沿いの遊歩道は通行止めとなっている。見ればかなりひどい崩落が放置されたままであったりして、残念である。
 私たちは、対岸の舗装されたバス通りをひたすら天川川合を目指して歩いた。かなり空腹になってきており、宿で聞いた天川川合に一軒だけある食堂で、バスに間に合うように何とか昼食を食べようと、かなりのハイピッチで歩き続けた。約四キロメーターの距離である。途中変電所があったぐらいで、ただひたすら歩き続けていくうちに、ようやく人家が点在して、天川川合に近づいてきた。それからも暫く歩き、十二時十分に天川川合の三叉路に到着し、その「付け根」に食堂があったが、満員のようなので、立ち寄らず。すぐに天川川合のバス停があり、バスを待つこととした。
 十二時三十九分発の「大淀バスセンター」行きのバスに乗り込んだ。バスは十三時四十分頃「下市口駅」に到着し、昼食を食べていないので近くのスーパーで弁当などを買い込み、駅で食べる。
 十五時四十分発の「あべの橋」行き急行に乗り込み、帰宅の途についた。楽しい山行であった。
                                                                         (➀完)
                   

2008年8月8日 羅臼岳ファミリー登山

2020-04-02 23:55:35 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)
二〇〇八年八月八日
羅臼岳山行
二〇〇八年八月八日、私と連れ合いと次女のいつものメンバーで、知床半島羅臼岳登山にチャレンジした。今回は定年前の最後の夏休みであること、結婚して釧路に在住している三女と合流して道東の旅行を楽しむことなどいくつかの目的を持った旅行で、その一環としての登山である。
八月七日から十一日までの四泊五日のフリープランのツアー旅行で、七日は関空から女満別空港へ、空港からレンタカーで沿線を観光しながら網走、小清水原生花園等経由JR知床斜里駅で三女と合流。その後知床ウトロの『ホテル知床』へ。その日は『ホテル知床』に泊まり、八日の登山に向けて英気を養った。三女は八日は一人でレンタカーを駆って知床散策後知床横断道路を通り、わが一行の到着地点である羅臼の民宿までレンタカーと荷物の移動係りである。
五時に行動開始、多少の雨は降ったけれど快調なペースで羅臼平まで
今回の登山はガイドさんをお願いした。ガイドさんはIさん。結果的にガイドさんについてもらって正解だった。登路はなんということはないが、降路の羅臼側は道もルートもかなり厳しく技術もルートファインディングも上級、ベテラン向きで、ガイドさん抜きでは相当難儀したであろうと思う。
八月八日午前五時、Iさんがホテルに迎えに来る。前日ホテルが朝四時に朝食の用意をすると言っていたのに、連絡ミスで何もできていない。「お待たせしました」とあたふたしながらホテルの係員が持ってきたのは、何とコンビニのおにぎり一人二個とお茶一本ずつ。ばたばたしながらIさんの車に同乗し五時に出発。途中コンビニに寄ってもらい、行動食の副食を仕入れ、五時二十五分に羅臼岳登山口の岩尾別温泉『ホテル地の涯』に到着。ホテルの横を通り抜け、無人の木下小屋まで行き、そこでストレッチ等準備運動。木下小屋には宿泊の登山者が四~五名おり、それぞれが朝食の支度や登山準備をしていた。
五時四十分出発。天候は曇りだが登山には快適。最初のうちは林の中の登山道を辿り、徐々に高度を上げていく。天気予報のとおり途中から雨が少し強く振り出し、ザックカバーを被せレインコートの上着のみを着る。六時二十分に少し木立が途切れ、後方に視界が広がる「オホーツク展望台」着。一時オホーツクの展望を楽しむ。しかしこの場所には真新しい看板が据付けられ、その内容は「ヒグマ遭遇地」とのこと。何でも二週間ほど前にこの地で登山者がヒグマと出会ったとか。そういえば本日の到着予定地の羅臼町のキャンプ場でもヒグマが出没し、キャンプ中の家族のテントをまさぐったとのこと。そうなんだ、知床はクマさんの住処なんだと改めて実感。『クマさんごめんね。ちょっとの間登山させてね。その間出てこないでね。』と心の中でお願いしつつ、小休止。
小休止のあと再び林の中の登山道を辿る。しばらく行くとIさんが、右手の木の上を指差し、
「あそこに蝦夷リスがいますよ。なかなか見ることができないのですが、今日は運がよかったですね。」
とのこと。見れば普通のリスよりかなり大きめで、色も黒っぽい蝦夷リスが木の枝を悠然と渡り歩き、なんだかこちらの様子を覗っているよう。写真を撮ろうとあわててデジカメを取り出し構えるがズームにしたりしているうちにどこかへ移動してしまった。そのうち熊除けの鈴を谷側に落としてしまった。長く使った愛用の鈴だったので少し残念。弱り目に祟り目で、なにやら先行き不安。
やがて七時二十五分に『弥三吉水(やさきちみず)』の水場着。ここは湧水を樋で引いており飲める水。一口飲んでみたが湧水独特の‘甘味’があまりなく、単純なミネラルウォーターの感じであった。『弥三吉水』で十五分間の中休止。ここまで下りの難路を考えゆっくりしたペースだが、全員快調に登山を続ける。登山者も多く休憩中にやがて下のほうから十名以上の高校生のワンゲルか山岳部かのグループが三名の先生に引率されて上ってきた。引率の女性教師は
「私はここで待っているから、みんなで登っておいで。」
と息を切らしながら話している。『弥三吉水』の広場は登山者でいっぱいになってきたので、わが一行はお菓子を食べてから出発。
林間の道から、時々は山頂方面への見晴らしのある、森林限界に近くなってきた道を登り続け、八時二十五分に『銀冷水(ぎんれいすい)』の水場着。ここの水は飲用には適さないとのこと。湧水ではなく雨水のよう。ここでは五分間の休憩。
『銀冷水』を発って、中高年のグループと抜きつ抜かれつの本当にゆっくりしたペースで登り続ける。やがて山頂部の展望が開け、木々も低木となってきて森林限界となってきたところで、視界も大きく広がったところが『大沢』の谷の基部。『大沢』は枯れ谷で岩場。途中鎖場もあったりする。沢の頂上部は鞍部になっており、左の山は『三ツ峰』で右の山がわが一行の目指す『羅臼岳』、鞍部が『羅臼平』である。大沢の岩場を登っているとIさんが、
「今度はシマリスがいますよ。知床には先ほどの蝦夷リスとシマリスの二種類のリスがいますが、
今日は両方とも見られて、本当によかったですね。」
右手の大きな岩の上にかわいいシマリスが座っている。人を恐れる様子もなく周りをキョロキョロと見ている。今度はデジカメを取り出し、焦点を合わせズームアップし、きっちりと写真撮影に成功した。下からは高校生のパーティが登ってきて、シマリスを教えるとワーワーキャーキャー。それでもシマリスは逃げる様子もなく岩の上に座っていた。
『大沢』を登り続け、やがて鞍部の平坦地『羅臼平』に九時二十五分に到着。東は『三ツ峰』そして西は何やらルートの厳しそうな『羅臼岳』。時折雲に覆われるが、くっきりと聳え立っている。『羅臼平』にはテントが一張り。長逗留の様子である。Iさんが、
「このテントはたぶん先輩のガイドさんのものだと思います。山の雑誌の取材で記者の方たちと一週間ほど山に入ったきりです。」
わが一行は、生活の臭いがたっぷりと漂うテントの横で、簡単な行動食を採ることとした。
強い風の中、羅臼岳に登頂。そして羅臼に向けて下山開始
 『羅臼平』で行動食後九時四十五分に頂上目指して出発。十五分ほど行くと最後の水場である『岩清水』着。ここの水は湧水で飲用可。ここでIさんが、
 「皆さん大丈夫ですか。ここで疲れていたり、膝が痛かったりしたら羅臼側への下山は無理です。今日のコースは登り五時間、降り六時間のコースで、ルートの厳しさも登りの道とは比較になりません。ここまではゆっくりしたペースできましたが、これで疲れているようなら羅臼側ルートは無理です。大丈夫ですか。」
の念押し。ここまではペースもゆっくりでほとんど疲れもなく、わがファミリーはノー・プロブレムの返事をする。そのようなやりとりの後山頂目指して行動再開。
『岩清水』を左に捲くと道は急峻な岩場になってくる。岩場といっても一枚岩ではなく大小の岩が山頂に向かって積み重なっている大中の石のガレ場状態である。ところによっては三点支持で慎重に登らねばならなかったり、落石に注意をしたり少し緊張する場所もある。山頂直下の最後のアルバイトで、これが結構な仕事であった。とはいえ、多くの中高年のパーティや小学校高学年くらいの子供、その引率のかなりのご年配のご夫婦などいろんな登山者が登っている。
山頂から降りてくる人たちとのすれ違いで待機したりしながら、やがて十時五十分に、羅臼岳山頂(千六百二十一メートル)に到着。岩かげから十五人ほどが座れそうな山頂に出たとたん、かなりの風にあおられ、思わず身が締まった。羅臼平でもそうであったが、オホーツク海側から太平洋へ、ここは風の通り道である。眺望は北にオホーツク海、南には羅臼の町から国後島、東には三ツ峰、硫黄岳と連なっていく知床連山が、雲が時々吹き飛ばされる瞬間に、壮大で美しい景色を見せてくれる。山頂では、Iさんと、羅臼平でテントを張っていたIさんの先輩のガイドさんとのご対面。山岳の記者さんの取材のガイドで同行し、五日間キャンプしていたけれどシャッターチャンスがなかった、食料も無くなったので本日これから下山するとのこと。山頂で連れ合い、次女、そしてガイドのIさんと記念写真を何枚も写し、名残惜しい思いをしながら、十一時十五分下山開始。
                               (続く)
(羅臼岳登山口にて)       (羅臼平から三峰)


2008年8月8日 羅臼岳ファミリー登山②

2020-04-02 23:53:18 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)
山頂直下の岩場を慎重にくだり、十二時丁度に岩清水まで下山。小休止を取っていると三人連れの外国人が登ってきた。
 “This water is good for drink””Thank you”
 などといい、続けて「どこから来ましたか」「昨日はどこにステイしていましたか」と尋ねると、スウェーデンから来て昨日は岩尾別のユースホステルに泊まっていたとのこと。一番最後から登ってきた青年と話すと、その青年は北海道大学に留学中とのことで、実は日本語堪能。お父さんと兄さんがスウェーデンからバカンスでやってきて北海道を楽しんでいるとのことであった。お父さんは若かりし頃のクリント・イーストウッドに少し似た雰囲気の人であった。

 さて、いよいよ羅臼側に向けて下山の開始である。なるほど、たくさんのパーティや登山者がいるが、羅臼側に下山するのは、わが一行のみで、ほかには誰もいないではないか。それほど人が通らないのか。自然と静寂に対する期待とともに、Iさんがいるとはいえ少しの緊張を覚える。

いきなり急斜面のガレ場・ザレ場に緊張。遥かなる厳しい羅臼への道
 十二時三十分、直進すれば羅臼平、右にルートを取れば羅臼町側の分岐を右に取り、しばらく行くとザレ場ともいえる細かいガレ場がルートとなる。このガレ場が難所で、下りの斜度は三十度近くはありそう。三十五度以上かもしれない。斜面の感覚で言うと「崖」である。石が小さいのだが、「ステップを切って」など優雅なことを言っておれない。とにかく滑落しないように、慎重に、慎重に下っていく。ルートのめどとしてロープが張ってあるが、バランス確保や滑落防止などには使えない。
 
      (羅臼岳山頂)          (羅臼平から三峰を望む)  
  (ガレ場を慎重に降りる)      (ガレ場の下部にやっと到着)               
 やっと普通の地道となったところで振り返れば、やはりいつ崩落するかわからないような‘崖’であった。ガレ場の下部からは、地道ではあるが笹に覆われた道が続く。
 十三時二十五分、左側は高さ三十メートル~五十メートルぐらいの岩壁が約五
百メートル続いている『屏風岩』の始点から、小さい沢を挟んだ迷い込みやすそうな道を進む、一三時四十五分『屏風岩』の終点に着いた。
 ここから沢を渡渉し、笹に覆われたふみ跡程度の細い道を辿り、先が崩落している本来の道を離れ、急斜面に急遽付けた様な微妙なふみ跡を慎重にトラバースし、やがて十四時五分に『泊場(とまりば)』に到着。ここでのルートはガイドさんがいなければ、まず迷っていただろう。
 『泊場』は二本の沢が合流するY字状の交点の小高い丘状の場所だ。合流してから下流のほうへの流れは、羅臼町へと流れていく。右の沢も左の沢も強烈に硫黄が沈殿しており、下流に向かって左の沢には飲用可能な湧水があるのだが、周りの硫黄臭が強く漂い、さすがにあまり飲みに行く気にはならなかった。『泊場』で十四時三十分まで大休止とし、わが一行は行動食のパン、チーズを賞味した。
 十四時三十分、「泊場」発。「泊場」まではおおむね尾根筋の道をずっと辿ってきたが、ここから先は、谷筋に入っていく。谷筋といっても底部ではなく、急な斜面に取り付けられたトラバース道を辿っていく。樹木は茂ってはいるが、斜面が急なので結構緊張しながらトラバースを続けた。時々は視界が拡がり、周りの山を見渡すと、かなり標高も下がってきているようで、大体三百~四百メートルぐらいだろうかと思われる。
 時々、熊除けのためにガイドのIさんが「ヒュー」という喉笛のような声を出し、手を
パンパンとたたいている。先に書いたようにこの夏羅臼町のキャンプ場に熊が出没し、女子中学生が寝ているテントを外から叩き、妹のいたずらと間違えた女子中学生が蹴り返しているうちに、熊が退散してしまった、という事件が起こっている。ここは、熊の生息地域なのだ。熊さんの領域なのだと再認識。
 そのうち熊ではなく蝦夷鹿がトラバース道の少し上方に現れ、鹿のほうがびっくりして一瞬立ちすくんでしまうようなことにも遭遇した。Iさんの「ヒュー」もますます頻繁になってきた。
 少し緊張したトラバース道も過ぎ、また尾根沿いの緩やかな道となり、這松帯を過ぎてしばらく行き、やがて十六時二十五分に休憩用の木製のベンチ・テーブルのある『里見台』に到着。ここで十分間の小休止とした。『里見台』からは羅臼町側の展望が開けている。標高は二百メートルはなさそう百五十メートル前後かと思う。「ビジターセンター」の建物が遠望できる。いよいよ羅臼岳山行も終わりに近づいた。ここでIさんも交えてしばし「ご苦労さま」の記念撮影。
『里見台』からは樹林帯の中を歩いていく。途中温泉の湧水地などを経て、そして熊出没のため現在は閉鎖している例のキャンプ場の横をとおり、十七時二十分にビジターセンターに到着した。十二時間にわたる登山はここで終了した。わが一行が到着すると同時に、センター横にある間欠泉からお湯が噴水のように吹き上がってき
た。
(間欠泉がWell Come噴射)
 『羅臼岳登山ご苦労さんでした。そしてようこそ羅臼町へ。』
 とでも言っているかのように。
 センターでIさんと、
「また是非ともご一緒したいですね」
などと、別れを惜しんだ。今回の山行は、Iさんというすばらしいガイドさんについて貰って本当によかったと思う。はじめは「熊対策」などと思っている部分もあったが、結果、厳しい登山を十分サポートして頂いただけでなく、知床横断羅臼岳登山という懐の深い山行と、特に羅臼町に降りて行く道など、大自然を十分に堪能させていただいたし、本当に心に残る登山となった。
  センターには本日別行動の三女も迎えに来ていたが、わが一行はIさんの車に乗せていただき、本日の宿泊地である、『民宿いしばし』へと向かった。
(終わり)  



ファミリーと仲間たちとの山行記録(2009年以降)

2018-12-29 15:34:24 | 山(剣・大峰奧駈・羅臼その他・・・)

                                    2009年8月21日
五十川 進
剱岳山行
 
2009年8月16日から、山中4泊5日の日程でいつもの気心知れたメンバー、連れ合い、次女との3人で、剱岳登頂と剱沢、裏剱、黒部への山行を「楽しん」だ。
今回の山行を計画した理由は、第1に私自身の体力が近年「着実に」落ちてきていること、そして体力・気力充実期の次女と、ちょうど上昇線と下降線の接点を過ぎてきていること、そういった状況で残された後僅かの機会であろう厳しい「本番登山」を彼女(達)といつまで出来るか分からないが、時間と機会を惜しんでやっておこう、ということ。少なくとも、「大峰奥駈」を始めた2005年夏には、テントや水や団体装備を全て担いで(おそらく25Kg以上)稜線縦走をリードした私のほうが、圧倒的に体力・気力が充実していたのだが最近では次女に付いていくのもなかなか大変な状態になってしまっている。
第2の理由は、山を愛し自分の人生観としての登山を思いつつあり、そして自分自身でいくつかの経験を踏みつつある次女に、今回はリーダーとして頑張ってもらおうと思ったこと。これは結果的には良かったと思っている。私が殿(しんがり)で連れ合いをカバーしながら歩くつもりであったが、二人でさっさと歩いて行って私を置き去りにするという「冷酷無比」なリーダーの面もあったが、全体としてはルートファインディングが的確で、なかなかのものであった。
第3の理由は、このコースは私が26歳のときに4人パーティーのリーダーとして35Kgのキスリングを担いで登った縦走コースで、自分の心の中で深く思いに残っている山行であること、そして自分がこういった「本番登山」に行けなくなる前に、もう一度足跡を辿ってみたいと常々思っていたことである。
そのようなことで、昨年来から計画し、いよいよ本番となった。本年6月に映画「剱岳点の記」が公開されて、剱岳が全国的にブームになっている。私のようにかつてこの山に挑戦した人たち、特に時間的経済的に多少ゆとりができて、メモリアル登山を目指す団塊の世代の登山者が多いだろうなと思いつつ、盆明けの8月16日いよいよ出発した。


2009年8月16日(日)(第1日目)
【行程】7:38 JR京都発(サンダーバード1号)→10:40電鉄富山発(富山地鉄)→11:40電鉄立山発(立山黒部アルペンルート)→13:00室堂(昼食・登山届提出)13:50→地獄谷・雷鳥沢→16:40別山乗越・剱御前小屋(泊)
 
 朝、次女とは京都駅で待ち合わせ。京都駅近くで朝飯用の手作りパンを仕入れ、ホームへ戻ると次女が待っていた。まもなくやってきたサンダーバード1号に乗り込む。3人でパンなどを食べ、これからの山行に思いを馳せているうちに、やがて富山に到着。電鉄富山駅に移動し、ここからはいわゆる「立山黒部アルペンルート」となる。富山地鉄、ケーブルカー、高原バスと乗り継いで13:00ちょうどに、立山室堂に到着。
室堂で山岳警備隊事務所に登山届けを出した後、次女の用意した昼食のおにぎりを食べる。室堂界隈は観光客で喧騒としている。天候のほうは、数日前までぐずついてすっきりしなかったが、本日は多少の薄雲は出ているが、好天である。雄山頂上の雄山神社や、大汝山のピラミッドもくっきりと見えている。天気予報ではここしばらく晴天が続くとのことで、幸先が良い。
おにぎりを食べた後、13時50分出発。観光客の間を縫って、みくりが池、地獄谷を経て雷鳥沢の下部キャンプ場。ここから見上げる約400メートルの登りの頂部が別山乗越で、そこまで行くと久しぶりの剱岳とのご対面となる。わが一行はいよいよ雷鳥沢の登りに取り掛かった。登山者は、当初思っていたほど多くもなかったが、しばらく天候不順だったのと、本日が「お盆休み」の最終日ということもあるのだろうか。
ゆっくりと時間をかけて雷鳥沢を登り、16時30分やっと剱御前小屋が見えてきた。そこからひと登りで小屋の前に出て、そこが別山乗越。目の前に雄大な剱岳が拡がった。
「こんにちは剱岳。お久しぶり。これからご機嫌よろしくおねがいします。」
そう祈りつつ、写真を撮り、その後剱御前小屋に宿泊手続き。夕食後この日は大日岳方面、雲海の富山平野へのサンセットを眺め、明日からの剱岳への英気を養った。
夜は、気が昂ぶっているのかあまり熟睡できなかった。


2009年8月17日(月)(第2日目)
【行程】6:25剱御前小屋発→7:25剱山荘8:00→8:40一服剱→9:40前剱→11:45カニのタテバイ→12:20剱岳頂上(昼御飯)13:15→17:25剱山荘(泊)

 本日はいよいよ剱岳の登頂を目指す。今回の山行は全体として『無理なく、事故無く、楽しんで』を至上としており、バリバリの元気者の次女には物足りないかもしれないけれど、ゆっくりの出発とした。
 剱御前小屋を出発して、剱沢最上部の右岸を辿り、やがて剱山荘に到着。剱山荘で本日の宿泊手続きを済ませ、大きい荷物は小屋に置いてもらいそれぞれ弁当、飲み物、雨具、ヘッドランプ、お菓子類のみを小さなザックに移し変え、いよいよ出発。天候は最高級の快晴。
 最初は一服剱を目指しての登り。早々と鎖場が出てきたり、途中からはガレ場・ザレ場となってくるが、難なく一服剱の頂上に辿り着く。ここで前剱が行く手に聳え立つが、剱岳本峰は前剱の後ろに控え見えない。しばし小休止と写真撮影。振り返れば剱山荘が小さく見える。
 前方は、わずかに雪が残る谷を挟んで東尾根を従えるように前剱が聳える。本峰と見間違うような立派なピークだ。行動再開。鎖場が頻繁に出てきて慎重にアップダウンを繰り返す。
やがて1時間弱で前剱のピークに到着。ピークに出れば、はっきりと雪渓の残る平蔵谷を挟んで雄大な剱岳本峰が、大きな2つのピークを持つ源次郎尾根を右手に従えて聳え立っている。28年振りの感激の再会だ。自分の青春をタイムマシーンに乗ってもう一度確かめることが現実となったようだ。34年前は自分がリーダーで、28年前は山岳会メンバーとして、自分にとって最高の思いをプレゼントしてくれた山だ。
 さて現実に戻る。前剱ピークで「大休止」と写真撮影。『無理なく、事故無く、楽しんで』をもう一度心に刻み込んで、気持ちの準備をしていると、単独行の青年が軽やかに登ってきた。
 「こんにちは。ちょっと座らせてもらっていいですか。」
 「どうぞ、どうぞ。今日はどこから来たの?」
 「みくりが池山荘です。アルバイトをしているのですが、今日は休みなのでちょっと剱岳を登っておこうと思って。」
 聞けば、福井県の大学生でワンダーフォーゲルをしていて、シーズン中みくりが池山荘でアルバイトをしているとのこと。みくりが池山荘から剱岳往復なら『ちょっと剱岳』というレベルで無いと思うが、自分もかってそうだったように、若さというのはこういうものだと、羨ましく思う。
 「お先に失礼します。」
 と言って、彼は再び軽やかに平蔵のコルを目指して降りて行った。
ピークから平蔵のコルを見ると、カニのタテバイで行列ができている。わが一行も出発。前剱のピークから平蔵のコルまでが結構厳しく微妙な鎖場も多く時間を費やした。普通のコースタイムの時間の倍以上かかり平蔵のコルに到着し、小休止。その後いよいよ往路の最後の難所カニのタテバイだ。しかし、ここは確かに場所によっては垂直、あるいはオーバーハング感覚のところもあるが、実際に登るとホールド・スタンスが取りやすいようにルートが付けられ鎖が整備されており、よほど高所に弱くない限りさほど困難ではないように思えた。確か28年前頃は梯子だったように思うので、今のほうがバリエーションはあるかとも思う。
さて、カニのタテバイを超えて、いよいよ剱岳ピークだ。尾根を歩き、早月尾根からの登山道と合流し、しばらく行くと剱岳頂上の祠の裏へと出た。次女は先行していたが、遅れて私と連れ合いは祠を回り込み、ついに剱岳・2999Mの頂上を踏んだ。

  

 頂上では360度の展望を楽しむ。北の方を見れば雄大な八ツ峰の尾根が北方稜線につながり、その右には映画「剱岳点の記」で宇治長次郎や柴崎らが登ってきた長次郎谷が雪渓を残し、長次郎谷を挟んで源次郎尾根が剱岳ピークへと迫ってくる。遠方に不帰の剣、唐松、鹿島槍などの後立山を見、さらに右南方方面を見ると、雄山、大汝山のピーク、富士の折立の立山連山が見え、なんと連山の左端はるか奥に、槍ヶ岳とそれに連なる穂高連峰までもが遠望できる。ただその右平蔵谷、前剱から大日岳より先、富山平野方面は少しガスっていて、残念ながら眺望は無かった。しかし標高2000メートル以上は至上の快晴であった。
 次々と登頂してくる人たちと話していると、中高年夫婦がガイドさんとともに北方稜線を歩いてきたといいながらザイルを解いていたり、源次郎尾根を登ってきたという若手のパーティと写真を撮りあったり、中高年の男性とご婦人二人が、早朝馬場島を出発して、早月尾根を登り(標高差2000メートル以上で普通は途中の早月小屋に1泊するのだが)日帰りでまた馬場島へ戻るとか、いろんな登山をそれぞれが「楽しんで」おられる。わが一行は『無理なく、事故なく、楽しんで』である。頂上で昼食、写真撮影をゆっくりと楽しんだあと、下山開始。

 

 下山路はしばらく行くと最初の難路カニのヨコバイに来る。ここも鎖や梯子は付けられているが、ホールドやスタンスの取り方が少し厳しく、そして高度感がありそれなりに緊張はする。下山路で追い抜いて行った軽装の青年が鎖場で「降りられないんですよ」と言って立ち往生し、次女に弱音を言っている。スタンスが遠くて見えないのだ。しかも崖の上なので高所に弱い人には多少つらいかもしれない。まあ何とか彼もカニのヨコバイを超えて降りて行って、続いてわが一行もまとまって下山を続けた。
 前剱のピークを捲いて少し平地で休んでいると、ヘリコプターが低空を何回も旋回している。しばらくすると一服剱の向こう側に降下して見えなくなった。やがて上昇し、再び何回か旋回し降下して行きまた見えなくなった。一服剱の向こうで見えないけれど、かなりの時間ホバリングし、やがて上昇し富山方面へと飛んでいった。

 剱山荘への荷物のデポかな、それとも病人でも出たのかなと話していたが、あと一息で本日の予定行程も終了なので、慎重に下山を続けた。一服剱を越え、いよいよ本日ゴールの剱山荘が見えた。頂上から抜きつ抜かれつしている「ばてています」という、チンネ登攀断念クライマー2人パーティとも談笑しながらも慎重に下山を続け、剱山荘にゴール。

 わが一行は本日の労をねぎらいながら、剱山荘のスタッフに先ほどのヘリコプターのことを聞くと、一服剱の下降路で女性が滑落して意識不明のまま滑落現場から救出されたとのこと(翌日亡くなられたとの連絡が入った。30台の女性とのこと。)。ゴール間近でふと緊張が解けたのか。剱岳では一昨日もチンネを登攀していたクライマーが転落して亡くなられている。剱岳とはそういう山なのだとつくづく思い入る。・・・合掌・・・


2009年8月18日(火)(第3日目)
【行程】6:30剱山荘出発→剱沢→10:10真砂沢ロッジ10:30→12:05二股吊橋(昼休憩・昼食)12:55→仙人新道→14:00ベンチ14:20→15:30仙人峠→15:45仙人池ヒュッテ(泊)

 朝5時過ぎから、剱山荘から後立山連峰方面に向かいご来迎を見る。白馬岳方面になるのだろうか、少し雲があり、完全な球形のお日様にはならなかったが、十分に剱岳をモルゲンロートに染める朝日が昇ってきて、ひとしきり写真撮影。
 本日の行程は、予定では剱沢を下り仙人新道を登り仙人池を経由し仙人温泉小屋までのルートだ。剱山荘は、以前もそうだったが、水が豊富でトイレも水洗でシャワーまであり、また数年前に現在地に新築したこともあり、料理も含めて現代風で非常に快適な山小屋であった。わが一行は朝食を済ませ、出発準備を整え山荘前でストレッチを済ませいよいよ出発。
 34年前に来たときは、剱沢は7月中旬でもあったのだが残雪が多く、雪の状態もよくキックステップを効かしながら難なく真砂沢まで降りていった。しかし今回は雪が少ない。まず雪渓の取り付きに行くまでが、大小緩急のガレ・ザレで一苦労。雪渓の取り付きに来ると、殆ど踏み後が無く仕方なく慎重に雪渓に降り立ち歩き始める。アイゼンは無くキックステップを切ろうとするが雪が締まっていて殆ど切れない。最初の頃は慎重に踏み後を探して辿るようリーダーの次女に伝える。

 

 剱岳側からの谷との出会いになると斜面が急角度にはなるが、だんだんと慣れてきてペースも上がる。平蔵谷出会いは源次郎尾根などの撮影後左岸に捲いてガレ道を歩く。再び雪渓に下りて歩き、長次郎谷出会い付近では『尻セード』をして、谷の出会いで再び源次郎尾根、八ツ峰を存分に撮影し、ここから宇治長次郎や柴崎らが上って行って剱岳を登頂した、映画の撮影場所もここなどと連れ合い・次女に説明する。今度は右岸に渡りガレ道を歩く。道はフィックスロープなどが張られているが、雪渓歩きの倍以上の時間がかかる。結構時間がかかったが、10時過ぎに真砂沢ロッジ着。ポカリスエットを飲み、ロッジのご主人と談笑し小休止。

 ロッジからは雪渓が解けて川となっている剱沢沿いに下る。途中中高年のご夫婦に追い越されながらも12時過ぎに近藤岩のある二股の吊橋に到着。吊橋がまたいでいる沢は剱沢の右岸に注ぎ込む三ノ窓雪渓からの流れか。とにかくこの沢の水は飲用可で、美味しい。二股で昼食大休止とする。
 昼食後いよいよ仙人新道の急登。これが大変だった。今まで剱沢を降りてきた分を再び登り返すようなものだ。散々の悪戦苦闘の末、約1時間後、ようやくベンチに辿り着く。目の前に裏剱、八ツ峰の勇姿がバーッと拡がるのだが、景色を眺めるのもそこそこにとりあえず立派なベンチで小休止。ベンチで小休止中、中高年ご夫婦と、単独行の中高年登山者に追い越されていく。いずれも私よりご年配のご様子だが、本日の行程を聞くと早月小屋から剱岳を越えてきたとか、剱山荘発で早朝に剱岳を登頂して来たとか、みなさん我が一行の2日分に近い行程ではないか。その人たち、しかもご年配の中高年の皆さんが追い抜いていく。日頃の我が怠惰と言うか鍛錬の無さに、深く反省。
 しかしベンチが本日のゴールではない。「深い反省」もそこそこに出発。約1時間のさらなる急登を耐え忍ぶと次女リーダーが「仙人池ヒュッテが見えるよ」と叫んでいる。見ると右手のほうに赤い屋根の仙人池ヒュッテが見えた。標高差約800メートルを登りなおして、2200メートルの仙人峠に着いたのだ。15時30分。実は、本日はこの先仙人谷を下がって仙人池温泉小屋まで行く予定で予約も入れてあったが、バテバテで本日はここで打ち止めと決めた。
 
仙人池ヒュッテのオーナーは有名な80歳の静代おばさんがオーナー。シーズン中はヒュッテにずっと泊り込み、登山者を迎え、送り出している。他の登山客とともにいろんな話を聞かせていただいた。頭の回転が速くてインテリで、ご本人は芦峅寺出身で亡くなられたご主人とともに立山・剱を生活の基礎とし、その中での体験や薀蓄に富んだ逸話をたっぷりと聞かせていただいた。これだけで本日の宿泊の大いなる思い出となった。本日宿泊客は16名。次女以外全て中高年。しかも多分次女と連れ合い以外は私より年長者ばかり。
 仙人温泉小屋には迷惑をかけるので、ここからオーナーに無線電話で連絡を入れていただいた。

 
2009年8月19日(水)(第4日目)
【行程】7:00仙人池ヒュッテ発→9:15仙人温泉小屋9:45→雲切新道→12:45雲切新道終点(大休止・昼食)13:40→15:10阿曾原温泉小屋(泊)

  

 朝5時から仙人池畔で裏剱モルゲンロートを撮影するために待機。すでに同宿の登山者の皆様もカメラをセットして待機中。徐々に明るくなってきたが、朝日に薄雲がかかっているのかいまいち「燃えるようなロート」にならない。まあしかしそれなりに赤くなった八ツ峰、チンネ、ジャンダルム、少し見えにくいがクレオパトラニードル、そして僅かに見える剱岳本峰の裏剱のヨーロッパアルプスを思わせるような見事な山並みを写真に収めた。
 朝食を済ませ、静代オーナーと別れを惜しみ朝7時のゆっくりした出発。仙人谷を降りていくが、道は崩落があったりしてはっきりいって余り良くない。多少難渋して歩いていくとやがて雪渓のトラバース。雪渓を慎重に渡りさらに行くとやがて対岸の中腹に仙人温泉の源泉の湯気がもうもうと立ち上るのが見える。湯気を見ながら少し行くと道端の大岩にペンキで「お疲れさま 仙人温泉小屋」と書いてあり、その先に昨日宿泊予定だった仙人温泉小屋があった。ここまで2時間15分。コースタイムでは1時間15分~30分とあるが、それは登山道が良くて軽い荷物の条件の時だろうと思う。
 仙人温泉小屋でポカリスエットを飲み小休止後出発。従来は仙人谷をそのまま降り阿曾原温泉小屋まで直接行ったのだが、現在は仙人谷が崩落やらで通行不可能となっており、対岸に渡り仙人温泉源泉の横を通り、雲切尾根に取り付いていく雲切新道を行くこととなる。
 わが一行は仙人温泉小屋を振り返りつつ、雲切新道のピークを目指して歩く。道は整備されている。1645メートルのピークからは降り。尾根を忠実に降りるが要所要所には鎖やフィックスロープ、梯子が整備されている。新道を作ってこられた皆さんの多大なる労力と努力に感謝感激しつつも、これを逆に登って来るとしたら中途半端な労力ではないなと感嘆するような道であった。途中昨日仙人新道で追い越された2組の中高年のご夫婦が、本日は先行されていたのだが抜きつ抜かれつになっていろいろ話しながら降りてくる。やがて雲切尾根の終点の沢に到着しここで昼食大休止。沢の水で顔を洗いタオルを洗い少し飲んでみたが、甘くは無いが美味しい。軽く体を拭き最後の行動食を食べる。
 昼食後沢にかけられた丸太橋を渡り阿曾原を目指して更に歩く。ここからはアップダウンという道ではないがところどころにフィックスロープが張られている。しばらく行くと仙人ダムが見えてくる。さらに行くと仙人ダムサイトに降りていく梯子がある。この梯子がちょっと曲者で下に着地点が見えない。それどころか「ストーンと」ダム湖に落ちていく感じ。ダム湖が「おいで、おいで」と言っている。そんな多少ビビる梯子で、とにかく慎重に降りていく。とにかくダムサイトに降り立った。もっともダムサイトと言っても立派な道があるわけではなくダム湖のコンクリート辺にむりやり取り付けられた土道の「へツリ道」だが、ダムに向かって歩いていく。ダムに上り管理事務所の中を通り、熱気の充満する作業トンネルを通り、トンネル内のトロッコ軌道を横断し、「熊の侵入を防止するため必ず閉じてください」旨書かれた鉄柵扉から、やっと外に出る。関西電力の立派な鉄筋の宿泊所や管理棟が立っている。この秘境の山中にダムだけでも違和感があるのに、鉄筋の建物まである。しかしなぜか不思議と大自然の中に溶け込んでしまっている感じもする。これは自然の懐の深さなのか偉大さなのか。
 さて、ここから水平歩道まで再び登り。30分ほどのアルバイトの後、阿曾原までの水平歩道に出る。これは明日の黒部水平歩道の予行演習。40分ほどの水平歩道の後阿曾原温泉小屋への降路となり、15時10分小屋着。
 阿曾原温泉小屋のオーナーは佐々木さんで、長年富山県警山岳救助隊として活躍してこられた。現在「念願の」山小屋オーナーとなられ、毎年黒部下の廊下の登山道の整備を率先して行っておられたり、雲切新道を構想し実際に切り開いてこられたり、登山者には歯に衣を着せない厳しく辛口ではあるが適格なアドバイスをされている。昨日の静代オーナーともども一昨年のNHKスペシャルで大きく紹介されている。

  


 本日は源泉かけ流しの阿曾原温泉の露天風呂に浸かり、わが山行フィナーレ前夜の感慨に浸る。しかしまだまだ。登山は無事ゴールして完了なのだ。明日も気を抜かないように。


 2009年8月20日(木)
【行程】6:00出発→6:40水平歩道→7:40折尾谷(休憩)8:00→9:15志合谷→11:30欅平(ゴール)

 いよいよ今日が最終日。諸計画のため朝6時出発とする。小屋の朝食が6時30分からなので朝弁当を作ってもらい、早めに食べて予定通り6時に出発。キャンプ場を通り水平歩道まで登りのアルバイト。やがて水平歩道に到り歩き始める。
 水平歩道は黒部第四ダム建設のときに作業用「道路」として黒部渓谷の右岸壁を切り込んで作られた歩道とのこと。場所によっては断崖絶壁に幅1メートル足らずで切り込んでいる。それが本当に水平かと思うほど見事に切り込まれている人工の道なのだが、今や歴史がこの道を大自然に同化させてくれているかのようにいわば趣きもある。しかし要所要所にフィックスロープや鎖が取り付けられてるとはいえ気は抜けない。下は何百メートルの断崖絶壁。
 水平歩道をしばらく行くと立派な滝が流れ込んでいる折尾谷。阿曾原温泉小屋の佐々木さんが言っておられたが、この沢の水は飲用可能とのことなのでここの滝壷で小休止と水補給。小休止後再び水平歩道を延々と歩く。やがて断崖絶壁が連なってきて、行く手前方右方対岸の黒部渓谷左岸に雄大、絶大な大岩壁が現れてくる。ここが黒部奥鐘山西壁の大岸壁で日本で最も登攀が難しく、レートの高い壁といわれている。誰かクライミングをしていないかなあと探したが、本日は誰もいないようだ。

   

 わが一行は大岩壁をちらちら見ながら、志合谷を過ぎる。この谷は黒部奥鐘山と立ち向かうかのような厳しい谷で、絶壁のトラバース道も無く、水平歩道は長いトンネルとなる。ヘッドランプを点けて川のような流れを歩いてようやくトンネルを出ると、谷を挟んだ対岸には、岸壁を切り抜いた水平歩道がくっきりと幾何学模様の直線のようだ。
志合谷を越えて、しばらく行くと欅平のトロッコ列車の案内放送のような音が遠くに聞こえてくる。『いよいよ終わりに近づいてきたなあ』と少し寂しい思いをしながらさらに水平歩道を歩き続けると、やがて欅平への降路となる送電鉄塔に着く。ここで途中に追い越されたお元気な中高年単独行登山者が行動食を食べていた。
「最後に怪我をしないように、ゆっくりしています。」
とのこと。
ここからは、ひたすら降りるのみ。時々立ち止まっての休止を挟み慎重に降りる。次女リーダーと連れ合いはとっとと先に降りてしまっている。私は、慎重ではあるが、余韻を十分にかみ締めながら、慎重に降りていった。
11時30分、観光客で喧騒とする欅平に降り立つと次女リーダーと連れ合いは駅屋上広場のベンチから手を振っていた。今回の山行は無事終わった。


この後、欅平温泉(猿飛温泉ともいう)に入り、汗を流して普通の服に着替え、登山靴もカジュアルサンダルに履き替えさっぱりとして、ビールで乾杯後昼食の「冷やし山菜そば」を頂く。その後トロッコ列車に乗り宇奈月温泉駅へ、そこから富山地方鉄道に乗り、途中所要で上市に寄った後、JR富山駅。夕食、土産購入後特急で金沢へ、金沢で雷鳥に乗り換え、京都そして山行の余韻に浸りながら孫たちの待つ大阪の我が家へと列車に揺られていった。
                                       (終わり)