二〇〇五年八月十一日出発 柏木から登山。小普賢岳と大普賢岳の鞍部でテント設営。
朝三時三十分に起床、本日の朝食・昼食用におにぎりを作る。やがて連れ合い、Aも起きだして出発準備をはじめ、四時五十分に我が家を車で出発。近畿道ではにわか雨が降り出し、天候が心配。西名阪も渋滞することもなく天理インターから国道百六十九号線を南下。県道を経由し吉野に至り再び国道百六十九号線を辿り、七時二十五分に柏木に到着。柏木の集落に駐在所があり、玄関のブザーを鳴らすとやがて駐在さんが起きだしてきた。早朝で申し訳ないと思いつつ登山届けを出し、自動車を十四日まで置かせてもらえる場所を聞くと、近所のOさんを紹介してくれた。但しまだ寝ているとのこと。起きるまで待つ間に朝食のおにぎりを食べ、ストレッチ準備運動。あらためて荷物の重さに多少の不安を抱く。
八時半にOさん宅の木戸をノックし、出
九時三十五分に「大迫分岐」で少し立ち止まるまる程度の休止。準備運動をこなした感じだが、まだ荷物がしっくりとこない。十時二十分に「上谷分岐」に到着し小休止。小さな地蔵さんがある「上谷分岐」は標高約七百メートル強で、柏木が三百メートル程度なので四百メートルほどを一時間二十分で登ったことになる。コースタイムでは一時間半となっているので(後でわかったが、持参の山地図のコースタイムはあまり正確でなく、参考にならなかった)、今のところ順調なペースだ。但し、空き缶やガラス瓶の残骸が数箇所に捨てられているのには不快な思いがする。
ここからは、尾根上の道や踏跡を辿り高度を上げていく。途中千百六十六メートルのピークは西側を巻いていくが、大体は尾根を忠実に辿る。途中二回小休止をとり、十三時十分に尾根から少し外れた谷で昼食休憩。途中、地図上に水場の記号が付けられている場所では、今にも枯れそうな水がチョロチョロと出ている。水は少なく、持参してきて正解である。家から持参のおにぎりをぱくついていると、単独の登山者が軽快に通り過ぎて行った。おにぎりを食べたあと、食料係り(連れ合い)から配給のお菓子を少し食べ、十三時四十分に出発。十五分ほど行くと再び尾根上に出たが、そこが「伯母谷覗」で断崖絶壁上のすばらしい展望所。谷を超えた対岸の「大台ケ原」「台高山脈」が一望である。先ほどの軽快な単独登山者が弁当を
十四時二十五分「阿弥陀が森分岐」に到着。標高は約千六百メートル。柏木からは約千三百メートル登ったことになる。ここには「女人結界門」があり、「山上ヶ岳」方面には女性は入れない。宗教文化か伝統か、日本の自然や山の恵み特に生き物の命に対する感謝と尊敬の念などを起源とする古代宗教の伝承なのだろうと思う。民俗の原始や思いを尊びながらも、新しい価値観が共存できるような空間ができないものだろうかとも思う。
「上谷分岐」から「阿弥陀が森分岐」までコースタイムでは二時間半となっているが、われわれは休憩を加算せずに正味二時間四十五分かかっている(小休止、昼食休憩も含めると三時間五十五分)。荷物が多いとはいえ、時間がかかりすぎか、コースタイムがおかしいか。「女人結界門」で写真を撮って、十四時四十分に「阿弥陀が森分岐」を出発。
しばらく行くと「脇宿ノ跡」とその脇に靡(なびき・神が宿っているところ)があり、お札などが並べてある。この先「明王ヶ岳」(千五百六十九メートル)付近に地図ではキャンプ場の記号があり、今日はそこでテントを設営する予定であるが、そんな平地が見つからない。さらに歩いていくと縦走路から少しはなれて「営管の行場」があり、連れ合いが一人で経箱石を見に行った。彼女は元気いっぱいだが私とAはトレース上で休憩。十分ほどで連れ合いが戻ってきて、再び縦走路を歩き、やがて「小普賢岳」のピークを超えた。ピークから少し降がったところが「大普賢岳」との鞍部で、ちょうどそのあたりの山道が少し広くなっており、十五時四十分にここのトレース上にかぶさってテントを設営しようと決めた(もう少し良いところがないか、荷物を置いて五分ほど先まで見に行ったが、平地がなかった)。
テントを設営後、「熊よけ」のためにラジ 本日のテント場はトレースの上
二〇〇五年八月十二日 大峰奥駈の修行の道を「弥山」を目指す。途中に熊のフン発見。
風の音で早くから目は覚めていたが、明るくなってきた五時に起床。ガスがかかっている。修行の行者は誰も通らなかった。修行場の真髄ともいえるこのコースに、しかもお盆休みにもなっていようかというこの時期に、行者にまったく会わないというのも少し肩すかしの感じではある。とにかく朝食準備、といってもパンを手早く食べるだけである。肌寒いぐらいで、熱いお茶を沸かし回し飲みをした。
朝食後、テントを撤収し、六時十分に出発。リュックの荷物の重さにも(水が無くなったが)だいぶ馴染んできた。六時二十分、「和佐又分岐」を過ぎ、六時二十五分に「大普賢岳」(千七百八十メートル)頂上着。写真撮影をしたが、ガスがかかっており景色のほうは残念ながらほとんど見えない。
ちょっとした鎖場などを通過し七時三十五分に「稚児泊り」という少し広くなった鞍部に到着。子供はここまでで、これ以上はだめですよという意味の地名かなと思いつつ、ここで小休止。八時に「国見岳」(千六百五十五メートル)を越え、「七ツ池」という水はないが大きな窪地の横を通過し、八時十五分に「七曜岳」(千五百八十四メートル)を越える。それからずっと尾根上を歩き、八時四十五分に十五分間の小休止。あちこちに靡があった。
小休止の後、「行者還岳」を目指す。稜線上を歩き、縦走路と山頂への稜線の分岐にかかり、そのまま稜線を辿り、九時三十五分に頂上に錫杖の立てられている「行者還岳」(千五百四十六メートル)に登頂。十分間ほど記念撮影。まだガスが晴れず、視界はあまりよくない。
頂上からもとの縦走路に戻る。
小屋を過ぎると、「天川辻(北山越)」という、昔の天川村と北山側を結ぶ要衝がある。小さなピークをいくつか越えるが尾根伝いに比較的緩やかな道で、やがてきれいなブナ林の中を歩いていく。連れ合いとAは、「きれいねー、ロマンチックやねー」などといっている。そこに、突然(人間のより)大きな、真っ黒い、しかもまだ比較的新しい獣の糞が出てきた。「きゃー、これ何」とAの声。「さー、ひょっとして熊の糞かも知れんね」(いのししかも知らんが)と私。そこからしばらくは、連れ合いは熊よけの鈴を鳴らしっぱなしで、「ラジオもつけて」とのこと。せっかくのブナ林もそさくさと駈け抜けた。尾根上のところどころで、これから目指す「弥山」「八経ヶ岳」の雄姿が望まれる。
途中、「行者還トンネル西口」からの尾根の登山道との合流を過ぎ、十一時四十五分に「一ノ垰」(いちのたわ)の避難小屋に到着。避難小屋は倒壊寸前で使用不可能。小屋の横の平地で昼食とする。昼食も行動食で朝と同じくパンにバターを付けて、おかずにソーセージとチーズ。昼食を食べていると、がさがさという笹を掻き分けて何かが近づいてくる。先ほどの糞のことがあり一瞬ドキッとしたが、単独行の登山者が軽快に通り過ぎて行った。十二時十五分出発。トンネル西口からの谷側の登山道の合流点を過ぎる。トンネル西口に駐車し、この登山道から「弥山」に登山する人が結構おり、この行程で数組のパーティに出会った。やがて十二時四十五分に「弁天の森」(千六百メートル)のピークを過ぎる。「弁天の森」は広葉樹林帯で静寂であり、印象に残るきれいな森だ。
十三時五十五分に「聖宝ノ宿跡」着。ここから「弥山」頂上までが標高差約3百メートルのいよいよ胸突き八丁だ。コースタイムでは五十分、看板には一時間と書いてある。呼吸を整えて出発。連れ合いとAには、『先に登っていいよ』といってある。重荷を担いでいるので、あまり無理せず確実に登っていく。今日登ってきた山々が時々一望に見え、景色を眺めつつ急坂を登る。途中から長い階段となり、一歩ずつ登ってゆくと、やがて「弥山小屋」が見え出した。十五時十分に「弥山小屋」到着。連れ合いとAは十分前に到着していて、私をお出迎え。「はい、皆さんご苦労様でした。」
まず、小屋に荷物を置いて「弥山神社」
「弥山小屋」は、きれいな小屋で、庭に丸太で作ったテーブル・ベンチが置かれ、清潔で雰囲気がいい。夕食までの間、連れ合いとAは体を拭いたり着替えたりしている。一息ついて外のベンチで明日用のお茶を沸かす。さすがに千九百メートルに近い標高であり、涼しいを通り越して寒いくらい(もっとも私はあまり寒さはこたえないが)。おかげで沸かしたお茶がすぐに冷えてペットボトルに移し変えることができ段取りが良い。十七時には少し早めの小屋の夕食。おかずは、焼き魚とオムレツとあと煮物。ご飯は固めだがおいしかった。きっと水がおいしいからだろう。食後、再びお茶沸かし。薄暗くなると、少しガスがかかってきた。今日の同宿者は男性が単独行の河内長野からの僧侶の人(弥山神社での先客で写真を撮っていた人)、予約なしで来た人で夕食を何とかしてくれと頼んでいた人、天川川合の役場に自動車を止めて登ってきた二人連れの中高年登山者、女性の若い二人連れと連れ合いとA。僧侶の人と若い女性二人連れは明日、前鬼へ行くわれわれと同じコースとのこと。女性二人連れは、一人は大学時代にワンダーフォーゲルをしていたとのことで、もう一人は現役のクラブチームの自転車レーサーで、今回も大峰登山前に紀伊半島の山を自転車で登ってきたとのことで、バリバリの現役。十九時ごろすっかり暗くなってから留学生の外国人が二人、テントを設営したいといって小屋に来た。小屋主さんがポンプの点検に出かけており、私が対応。小屋主さんが戻ってきてから報告したら『よくありますよ』とのこと。彼らもやはり前鬼まで行くとのこと。ここでもやはり修験道の行者はいなかった。なにやら肩透かし。明日に備え、早々に睡眠。
八月十三日は五時に起床。女性の二人連れは早々に出発していった。荷造を整え、われわれは六時に小屋の朝食。おかずはふりかけや佃煮等々。それでも腹いっぱい食べて、出発準備を終え小屋の前でストレッチ。今日は濃いガスの中で、どうも一日中こんな感じがする。小屋周辺で記念撮影のあと六時三十五分出発。「八経ヶ岳・前鬼」と書かれた石標のある道を進む。いったん道は降り、鞍部から再び登りだす。あちこちにフェンスで囲いをしてあり、フェンスに開き戸がついている。「熊よけのため開放禁止」などと書かれてある。七時三分に「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)に登頂。ここは近畿地方の最高峰である。近畿地方以西には二千メートル以上の山はないので、西日本で第2の
「八経ヶ岳」から先のルートはやはり尾根筋を辿る。「明星ヶ岳」を過ぎ、「禅師の森」といわれる原生林を越え、ひたすら歩き続ける。道は細く、ところどころは踏み跡を辿ったり、倒木が道をふさいでいたり、崖の途中をトラバースしたり、道が崩れていたりして必ずしも楽な道ではない。また、ガスのせいもあり、ルート探しには気をつかう。
九時に「舟ノ垰」(ふねのたわ)といわれる鞍部というか、窪地に到着し五分の休止。再び歩き出し九時四十分に無人小屋の「楊子ヶ宿小屋」着。「弥山小屋」で同宿の僧侶の人が先着してここで休憩しており、挨拶を交わす。僧侶はしばらくすると先に出発した。ここで十五分間のおやつ休憩。この小屋もログハウスで十五人程度が泊まれそうな、比較的きれいな小屋であった。
再び、稜線上の道を辿る。このルートの基本は尾根筋であることを徹底し、谷へ降りる道や踏み跡は辿らないことが鉄則である。「仏生ヶ岳」(千八百五メートル)、「孔雀岳」(千七百七十九メートル)のピークだけは西側を巻きやがて再び尾根に戻る。十一時四十分に「孔雀覗」の崖上に出るが、濃いガスのため何も見えず。本来なら前鬼川の渓谷の展望が望めるところであろう。しばらく行くと、「両部分け」の岩場があり、金剛界、胎蔵界と呼ばれている岩崖が望まれる。
その後道は細い稜線上に出る。道がT字状になっていて、自然と右の岩場のほうへと行った。道はすぐに大きな岩壁を右手に見ながら谷へと下っていく。踏み跡がそれも新しいのが結構ついてあり、辿っていくとやがて岩壁の下部に出た。これ以上行くとどんどんと谷のほうへと降りて行く。『これは道をはずしたな』と思い、連れ合いとAをその場に留まらせ、降りてきた道をT字状のところまで戻った。逆方向の道を見ると目印の赤テープが木に巻きつけてあった。大声で連れ合いとAを呼び、ルートに戻す。もっとすばやく鉄則に戻らなければならないのに、少し行き過ぎた。この道をはずしたために三十~四十分時間のロスをした。少し時間が気になりだした。
岩場を過ぎて十三時十五分に鞍部になったところの道端で昼食。このあたりが「橡の鼻」といわれるあたりかと思う。「弥山小屋」で作ってもらった弁当で、梅干に佃煮ふりかけ等。ご飯ばかりという感じで結構ボリュームがあったが、三人とも全部平らげた。十三時四十五分出発。ここから岩壁の上を辿り、鎖場やへつるところもあり、「行者還岳」付近と並んで行場らしいところだ。結構スリルがあるだろうなと思うが、濃いガスのため何も見えず、高度感もスリルもほとんど感じないのだが、かなり強い風が吹いており、時々突風とな
そこから先は鎖場もなく普通の尾根道で、それでも滑って転んだりしながら十五時丁度に「潅頂堂」と呼ばれるお堂と並んで、無人小屋の「深仙山小屋」の有る広場に到着。山小屋には人影が見えるが、先行の僧侶であった。
僧侶「ご苦労様です。」
私 「道を間違いまして、時間がかかりました。今からだと前鬼には遅くなりますね。」
僧侶「私は今日はこの小屋に泊まります。明日「大日岳」に登って、前鬼まで降りて、昼のバスで帰
私 「それはどうも。ところで水場は大丈夫ですか。」
僧侶「少しボウフラがわいていますが、大丈夫でしょう。」
そんなやり取りの後、お互いのカメラで写真を撮りあう。僧侶は「家で『どこ行ってるの』といわれるので、証拠の一枚です。」とのこと。十五分ほどゆっくりしたのだが、実は内心前鬼への道を考え、あせっていた。前鬼への降り道は山の東斜面で日没が早い。しかも谷沿いになっている。「これは日没との競争になりそうだ。」そう思いながら、「太古の辻」へと急いだ。十五時四十分に「太古の辻」に到着。ここは写真ポイントなので手早く写真撮影を済ませ、四十五分に前鬼へと急いで出発した。コースタイムでは前鬼まで一時間半(連れ合いの本では一時間五十五分と書かれてあり、順調に行っても十七時十五分(四十分)着だ。これまでのペースを考えると十七時五十分ごろになるかもしれない。ここは思い切り引っ張る必要がある。
「太古の辻」からの道はしばらくは尾根上を降る。地図によると道が迷いやすいとの記号が記されている。長い階段があちらこちらにありルートの目安になる。それに目印の赤や黄色のテープが木に巻きつけてあり、それを忠実に辿るようにした。やがて「両童子岩(二つ岩)」と呼ばれる大きな岩のある場所に着く。そこから階段を降りると、だんだんと「白谷」といわれる谷へと降りていく。時間は十六時十五分を過ぎ、谷へ降りるにつれてだんだんと薄暗くなってくる。どんどんと道を稼ぐ。連れ合いは靴が小さくて足の親指の爪の痛みを言う。Aも「膝に来ている」という。それでもごまかしごまかし、どんどんと降りていく。十六時四十分過ぎになるとかなり暗くなってきて、だんだんと目印のテープを探すのに苦労をする。ルートもはっきりしない。Aと連れ合いが少し遅れて列が伸びる。それでもどんどん引っ張るが、なかなか目的地が見えない。
『これは、とりあえず二人をこの場所から動かさないで、私だけ先に降りて、荷物を置いて、迎え
暗くなってきている中で、慎重にかつ急いで目印や踏み跡を探しながら、降り続けた。時間は十七時をまわり、森の外の木漏れ日が頼りで下り続けていると、やがて小さな祠が二つ並んでいるところへ来た。祠と祠の間には、しっかりとした道というか踏み跡がある。
『よし、やった。ここからは懐中電灯をつければ、迷うことなく前鬼に着くだろう。』
内心ほっとした。連れ合いとAに「もうすぐ着くよ」と声をかける。今までと違って「普通の道」を安心して歩き続けていると、やがて森が開け前方が明るくなってきて、前鬼の「小仲坊」が見えてきた。少し歩いていくと前鬼の全体(といっても、母屋とお堂と宿坊の「小仲坊」とトイレなどの設備だけ)が見えてきた。十七時二十分に「小仲坊」の前へ到着。先行していた若い女性二人連れがおり、
「わー、ごくろうさまです。今お風呂を頂いたんですよ。」
といって迎えてくれた。ご主人の息子さんがいて
「お疲れ様でした。ゆっくりしてください。」
とねぎらってくれる。
「遅くなりましてすみません。宜しくお願いします。」とあいさつ。
森を出るとまだまだ明るいのだが、やはり
「お風呂にどうぞ」といわれ、連れ合いとA、そのあと私も入る。三日ぶりの入浴に本当にくつろぐ(ついでに着替えを余分に用意していなかったので、簡単に洗濯もさせていただいた)。入浴後に夕食。本日の宿泊客は宿坊に泊まるわれわれ三名と女性二人連れ、それと母屋に泊まるご主人の知人が三名。夕食は宿坊泊まりの五名が一緒に、奥さんの心のこもった焼き魚やゴマ豆腐などの手作りの料理を頂いた。ご主人の五鬼助さんは七月に朝日新聞で大きく紹介されていて、その話などに話題が弾んだ。「釈迦ヶ岳」のお釈迦さんが傾いていて、亀裂が入っていることや、熊の糞があったこと、奥さんは熊に出会ったことがあることなど、また女性二人組みとは自転車レースのことやら、山行きのことなどにも話題が弾んだ。そのうち、庭で息子さんが花火を始め、にぎやかな中での夕食となった。心和む時間であった。夕食後宿坊の前で、明日のお茶を沸かす。
女性二人連れは、明日朝七時台のバスに乗り吉野の「青根ヶ峰」を登山し、吉野を見物してその日のうちに東京、横浜に帰る、そのために朝四時に宿坊を出発するとのこと。
夜九時過ぎに一同就寝。
前鬼は私も良く知らなかったのだが、集落の呼称ではない。五鬼助さんの母屋と五鬼を祀るお堂と宿坊である「小仲坊」それにトイレなどの付属施設、一戸だけのバンガローがあるだけで、ご主人の五鬼助さんの名前の由来は、昔開かれた前鬼の村の守護代の御子孫である。普段は大阪の寝屋川にお住まいで土日などに当地にこられて、前鬼の管理や運営を行われている。ほかには人家も何もない。普段は「小仲坊」も無人であり、無人宿泊所として修験道の行者や登山者の憩いの場となっている(有料)。今回は丁度土曜日であり、盆休みも重なり、「小仲坊」も営業をしており、後を継ぐ予定の息子さんも一緒にお見えであった。
朝は五時に起床、付近を散歩する。少し森の中へ入ったり、キャンプ地の芝生の感触を楽しんだりして朝の清々しい空気を満喫した。これらの管理は大変だなと思う。六時に朝食を頂く。母屋でご主人と、奥さんと語らいながらの温かい朝食であった。本日行動予定の「前鬼裏行場」の様子を伺う。台風等の影響で少し荒れていることや、「垢離取場」(こりとりば)は渡渉しなければならないこと、谷を渡るときに道を間違えないことなどをうかがった。
朝食のあとリュックを「小仲坊」に置き、飲み物だけを持って、六時五十分に出発。母屋の裏から山の中へと入っていった。道はしっかりと踏み跡があり、目印の杭やテープも巻かれ、迷うことはない。しばらくはずっと登りの道で、山の麓らしく、トカゲやら蛇などがうろちょろしている。道を登りきると峠に小さな祠が有る。そこからは今度は谷への降り。しばらく歩いているうちに川の音が聞こえてくる。道はだんだんと荒れてきて、所々崩れていて斜面をまいたり、橋が落下していて谷へ下りて対岸へ渡ったりしなければならない。
そのような繰り返しで、やがて七時五十分に「垢離取場」についた。北股川の清流の小さな滝の下に、深さ五十~六十センチメートルぐらいで白い石が敷き詰められているようになっている。そのようなところが十畳分ぐらいある。行者はここで水垢離をし、身を清める。河原の巨岩と「垢離取場」の白い石とコバルトブルーの川の水のコントラストがなんともいえない神聖さを漂わせている。
「垢離取場」でタオルを絞ったりして、小休止のあと靴を脱いで渡渉。さらに奥の行場「三重滝」(みかさねたき)を目指した。すぐに標識が出てきて「三重滝」まで四百メートルと書いてある。そこから階段があり、登っていく。階段やら架橋やら道は作られているのだが荒れている。しばらく行くと階段や梯子を下りる道となる。「三重滝」の音がだんだんと聞こえてくる。やがて木の間から、立派な「三重滝」が見え出した。もう少し先まで行くと、滝が良く見えた。時間が現在八時二十五分で、どうも滝壺まで行くと時間がぎりぎりになりそう。今回は、ここで「三重滝」を眺めて、戻ることとした。
来た道を戻る。「垢離取場」ではまた靴を脱いで渡渉。迷いやすい谷へ降りる道には気をつけて渡った。峠の小さな祠では、今回の山行の無事を感謝して合掌。十時十分に前鬼に帰着。「三重滝」まで行ったことをご主人に告げると、時間が速かったのか少し驚いた様子であった。朝食の時には四時間かかると言っておられた。
下山の支度をしているうちに、昨日「深仙山小屋」で分かれた僧侶さんが山から降りてきた。十四時四十七分のバスに乗るとのことで、先に出発された。私たちはご主人に見送られて前鬼を十時五十分に出発。息子さんは釣に行っているとのこと。ここからは林道をひたすら約三時間歩き続けるだけ。しばらく歩いて行くと二十メートルぐらいにわたって林道が大きく谷底へ崩れ、一メートルほどしか残っておらず、とても車の通れない場所があった。崩落場所の前鬼側には、軽トラックがあり、崩落場所の向こう側には多分五鬼助さんの自動車と思うが、大阪ナンバーの四WD車が駐車してあった。ここまで荷物を運んできて、車の通れないところを歩いて運び、反対側の軽トラックに積み替えて、前鬼まで運んでいるのだろうと思う。私たちに少しも不便や不自由さを感じさせない前鬼の管理運営に腐心されている五鬼助さんのご苦労に、本当に頭の下がる思いがした。
林道の車止めを過ぎ、三ヶ所の前鬼トンネルを過ぎて十一時五十分に、滝見台に着いた。ここから見る「不動七重滝」は実に壮大で立派な滝である。ここで記念撮影。本来はここから滝まで遊歩道があり、さらに進むと前鬼まで続いているのだが、台風で道が荒れていて通行不可能の掲示が出ている。春に大峰山行をしたときも「みたらい渓谷」で同じように通行不能になっていた。なかなか修復が追いつかない現状のようだ。このあたりまで来ると、自動車がかなり入ってきている。撮影後再び林道を歩き始める。途中、谷から湧水をくみ上げ、ホースで引いている場所があり、そこにちょっとしたベンチが置いてあり、「本州製紙前鬼温泉」と看板が出ていたと思うが、十二時三十五分にそこで昼食とした。本日の昼食は持参のもので、連れ合いとAはシーフードヌードル、私はカップチャンポンメン。前鬼から持参の水を沸かし、おいしく食べた。
昼食後再び林道歩き。延々と歩いている。前鬼川はすでに池原ダムとなっており、ダムで水没した集落の「成瀬跡」の記念碑などを見ながら通り過ぎていく。やがていくつかの峰を隔てて池原ダムに架かる前鬼橋が見え出した。「もうすぐ前鬼口のバス停だよ」と連れ合いとAに声をかける。十四時十五分ようやく前鬼口バス停に到着した。昼食時間を除いて、二時間四十分の林道歩きであった。前鬼のご主人は三時間かかるといっておられた。バス停前の自動販売機で、久しぶりの缶コーヒーを飲む。バス停前の閉まっている売店の前にあるベンチにリュックを下ろし、ストレッチをしていると、心地よくも充実感のある疲労感に全身が浸ってくる感じがする。ストレッチを終え、登山靴の紐を緩めベンチに座り、対岸の稜線をぼんやりとみているうちに、スローテンポで「山男の歌」の最終節が自然と出てきた。
『山よさよなら ご機嫌よろしゅ また来るときにも 笑っておくれ』
連れ合いは、ガレ場、岩場(カニの横ばいのような、鎖場や梯子がたくさんあり)、ブナの原生林やササの多い茂った尾根歩きなど、とても面白い山行だったとのこと。Aは、これからは「趣味は登山とする」とのこと。十分ほどすると、先行の僧侶さんがバス停にやってきた。林道をはずれ、山道を歩いてきたとのことである。
十四時四十七分発の「湯盛温泉杉の湯」行きのバスが五分ほど遅れてやってきた。旧バス停(?)で座っていた連れ合いとAも降りてきて、バスに乗る。国道百六十九号線の谷あいを縫って走るバスの、それと同じ行程の稜線をわれわれは縦走してきたことになる。思えばよく歩いたものだ。バスの中では僧侶さんとひとしきり、山談議。
一時間強でバスは柏木の集落に入っていく。柏木のバス停でわれわれはバスを降り、僧侶さんを見送った。駐在所に行きブザーを鳴らしたが不在の様子。下山届けを手帳の紙に書いてポストに投函。その後Oさん宅にいき、駐車の御礼と三泊分の支払い。車のところで靴を履き替え、帰る準備。帰りに「杉の湯」で温泉に入っていく計画であった。十六時三十五分「杉の湯」着。ところが「ホテル杉の湯」では「日帰り入浴は午後二時間まで」とのこと。交渉したが入れてもらえず、どこかにないかと聞くと、五分ほど吉野のほうへ行くと「中荘温泉」があるとのこと。「ホテル杉の湯」で「陀羅尼助」を買い、「道の駅杉の湯」で土産を買い込み、再び車に乗って「中荘温泉」を目指す。十七時に「中荘温泉」到着。吉野川の川底七十メートルからくみ上げている温泉とのこと。早速入浴。前鬼では湯をかけ流していただけなので、湯船につかると、生き返る思いがする。たっぷり洗って、たっぷり浸かった。十八時十分、「中荘温泉」を出て、帰路に着く。国道百六十九号線、橿原から国道二十四号線、西名阪自動車道から近畿道に乗り継ぎ、たいした渋滞に巻き込まれることもなく、二十時四十分、孫たちの待つ我が家へと帰着した。
二〇〇五年夏の、大峰奥駈道の山行報告は以上です。この続きは、二〇〇六年夏~秋にかけて「南奥駈」を目指し、最終は、熊野本宮大社まで行き、その記録を報告する予定です。
(この項終わり)