「自然」とは一つの神殿で
立ち並ぶ柱も生きており
聞き取り難い言葉をときより洩らす
これは、フランスの詩人ボードレールの「万物照応」という有名な詩の冒頭の部分です。なぜ有名かというと、ボードレールをはじめとする象徴派と呼ばれる詩人たちの詩作の秘密が述べられているからです。つまり詩作を語る詩というジャンルの詩で、詩の世界ではしばしば行われていることです。しかしながら俳句の場合、五七五という字数の制限もあって、詩作について語る俳句は極めて少ないといえます。こうした俳句の創作について語る俳句を作ること、実は前からやってみたくて、今回挑戦してみることにしました。
声ひびき言葉なき淵に沈む海女 鯨児
この「声ひびき」は、先ほどのボードレールの「聞き取りにくい言葉」にあたります。それは、詩の始まりある単なる震動・リズムといった類いのもの、あるいはそうしたものを伴った単なる言葉の端切れということもあります。そしてこうしたものは、多くの場合「声」という言葉で呼ばれています。はじめにあるこの「声」を、詩人は聴くというより体感し、最終的に詩としてつくり上げることになります。私の専門としてきた詩学は、こうした「声」とは何か、そしてそこから詩へと向かう行程を追うもので、私自身詩あるいは俳句に見え隠れする「声」に人一倍関心があります。
ぶつぶつと呟き聴こゆ紅葉川 薪
十一月の句会のこの句も、そうした「声」を扱ったもので以下の雲水師の句報での評も、「声」を的確にとらえています。
《川面に映った紅葉(こうよう)した紅葉(もみじ)。作者の耳には、何かぶつぶつと呟きが聞こえるという。
呟いている者(物)は、文法的には紅葉川の川音かもしれない。しかし、そうとは限らないのだ。
紅葉(もみじ)かもしれないし、森のざわめきかもしれない。森の精霊や神様かもしれない。
近くにいる知り合い(人間)かもしれないし、他人かもしれない。
勿論、作者の意識下の声かもしれないのだ。
主人公が何か(誰か)解らないし、「ぶつぶつ」の中身も分らない。
兎に角どうにでも考えられるし、この句は、実に曖昧なのだ。
そこで私は考える。
作者は、紅葉(もみじ)や川や森、作者の過去や現在や未来、そして己の無意識界に耳を傾け声を聴こうとしているのではないのか。
そんな鎮静した作者の心理状態を想像するのは、考え過ぎだろうか。(雲水)》
私の場合は、この「紅葉川」を読んで、井筒俊彦がその著『意味の深みへ』で述べていた『荘子』の「天籟」の比喩を思い出しました。井筒俊彦というのは、よくNHKにもでている若松英輔のお師匠さんにあたる人です。
《無限に広がる宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡る。天籟。この天の風が、しかし、ひとたび地上の深い森に吹きつけると、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起こる。
この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、愛ではす。岩を噛む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴の大きさと形によって、発する音はさまざまだが、それらすべての音が、みな、それ自体では全く音のない天の風によって喚び起こされたものである、という。》
そしてボードレールをはじめ、多くの詩人そして俳人がこうしたさまざまな「声」を体感し、作品を作ることになります。「紅葉川」の薪さんもそうなのでしょう。多くの作品は、こうした森とか川とかいわゆる地上のものに題材を求めています。ですから今回はすこし趣向を変え、水中に題材を求めることにしました。海の中は、潜ったことがあるとわかると思いますが、神秘に満ちた沈黙の世界です。その世界に、何かしらの「声」が響き、それに魅せられ、潜るという自発的な行為ではなく、その響きに身を任せ沈み行くしかない詩人の状態を、海女を用いながら句にして「作句の句」に挑戦してみました。
そして句の作成の段階で、さまざまな語の取捨選択が行われ、最終的に決定されるのですが、この句の「淵」という語、なかなか素敵です。辞書を引くと意味では「①水の深くたまった場所②深いさま③奥深く静まりかえる④ものが多く集まるところ」、そして文字の成り立ちでは「淵」の右側はまわりを囲み、ものを閉じ込めていることを示しているとのことです。深いところで、何かが多く集まり蠢きながらも閉じ込めることで沈黙を保っている、そして何かの拍子にその囲いから洩れ出でてしまう聴き難き「声」、なにやらボードレールの「立ち並ぶ柱の神殿」ぽくて、とても気に入りました。俳句は、こうした素敵な語と出遭いとあらためて感じました。
ヒメジョオン(姫女苑)