一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

156   鶯の声ととのひて窯巡り

2011年02月14日 | 

今年の鶯の初鳴き、いわゆる「初音」はいつだろうか。待遠しいことだ。植物が咲きだすのも勿論嬉しいが、あのたどたどしい初音を聞いたときほど楽しいことはない。早朝の蒲団の中で、大笑いしてしまう。今はまだ笹鳴き中だが、鳴き出すのは時間の問題で、2月中には必ず鳴くはずだ。

 

鶯のテリトリーは、半径せいぜい100mくらいではないか、と思う。何故かというと、家の東西南北どこからでも聞こえるので、家の周りをぐるぐる回っているのではないか、と思われるからだ。

 

鶯は、普通なかなか姿を見るのが難しいが、簡単に見る方法がある。それは、大音量で鶯のテープを聞かせるのだ。自分のテリトリーに余所者が入って来たと思い、追い出す為にたちまち近寄って来る。

 

 

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155   荒波の垣間見えたり梅七分  海人

2011年02月13日 | 

梅は中国原産で、万葉の頃渡来したという。万葉集には、桜を凌ぎ百十九首も梅が詠まれているという。春とはいえまだまだ寒さも厳しい中、凛と咲く梅は、香りも楽しめる。

又、果実も梅干・梅酒など料理にも活躍する。食用になることが、梅の普及に役立った。

 

さて、七分咲きの梅の隙間から、ちらりと荒波が見えたという。唯それだけのことなのだが、梅と荒波という相反する二つの存在の「静と動」そして「遠と近」が、この句の旨さであり、「七分」という咲き具合も「垣間見える」と呼応して言い得て妙である。

更に回りの地形や陽射し、風の強さなども感じられる。

 

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154   春探り坂道上り春日町       鼓夢

2011年02月12日 | 

早春の暖かい日には、「春を探さむ」と戸外を散策する気になる。植物では、万作・夜叉撫子・梅からはじまり、菫・蒲公英・イヌフグリ、雪柳・連翹・辛夷・木蓮・、と次々と咲き出し、見事である。

 

日差しや風・服装など人々の暮らしなど・・・・そうして、散策の坂道を上り詰めたら、そこは「春日町」だった、というわけだ。ユーモアたっぷりの俳句と言えるだろう。熱海にも春日町はある。

 

さて、春日(ハルヒ)をカスガと読むようになったのは、「ハルヒ(春日)がカスム」「春霞がカスム」という枕詞から、しだいに地名のハルヒにもかかるとされ、春日をあてて使うようになったとされている。

 

カスガの意味については、霞処(かすみが)や、神住所(カスカ)など諸説があるようだ。奈良の春日大社が本家で、ここから全国に地名が広がったようである。

 

 

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153   あの時の雪割草が咲きました

2011年02月11日 | 

 今日は、今年2回目の積雪である。只今、1センチ。雪雲が、関西から関東へ掛かり始めた。2,30センチは積もりそうな気配だ。旬菜料理「壷中庵」も、予約キャンセルのため開店休業である。

 

さて、函南から熱海へ抜ける旧道に、雪割草の専門店があった。雪割草の葉の大きさは、4~5センチでクローバーの葉に似ている。それで正式名を「三角草(ミスミソウ)」というらしい。花はせいぜい2~3センチ程度である。マニアも多く、品種改良が進み、高いものは、数万円もするらしい。私は一番安い普及しているものを買った。

 

「雪割草」という名前だから、寒さには強いだろうと思い、鉢から下ろし、直に地面に植えた。案の定、次の年の早春にも咲いた。それから少しずつ株分けして、10株程に増やした。その内の1株を知人に差し上げたところ、次の年の春に写真付きの礼状が届いた、という訳だ。

 

 残念ながら、本家の私のところの雪割草は、新築工事の不手際で失ってしまった。

 

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152   蕗の薹今年は摘まずに咲かせよう

2011年02月10日 | 

庭に植えた蕗には、山の小さなものと知り合いからいただいた大きなものと2種類ある。蕾は固くとも、年の暮には既に立派な蕗の薹を見つけることができる。

 

 てんぷらや蕗味噌、味噌汁やうどんに散らしたりと、食べることばかり考えていた。

 そんな自分を反省して、ある年摘まずにおこうと思ったのである。決して、美しい花とは言えないが、それなりに健気で愛おしく感じるから不思議である。 

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151   冴返るもののひとつに夜の鼻    加藤楸邨

2011年02月09日 | 

 加藤楸邨は、水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、のち「寒雷」を主宰。

 

「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求し、中村草田男・石田波郷と共に、「人間探求派」と呼ばれた。

 

さて、終戦前後の住宅事情では隙間風は当然で、家の中の水が凍ったりしたからこそ、こういう句が生まれたのだろう。

 

文明機器の揃った現代は、俳句不毛の時代に入った、と言えるかもしれない。 

 

鼻の句といえば、芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」を思い出すが、龍之介の句は観念的であるが、楸邨の句の方がリアルである。

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150   恋猫の戻らざる日を数へけり

2011年02月08日 | 

 ある日、我が家の近くの県道を車で通りかかると、ジョバンが歩いているのを見つけた。これはチャンスと思い、何処へ行くのか、車を下りて後を付けることにした。このあたりは、あと2キロは行かないと民家はない。

 

ジョバンは、時々私を振り返って見ているが、逃げるつもりはないらしい。途中から山中のけもの道に入り、ゆっくりと歩いている。すると、自然に別荘地に入って行った。

 

 数軒通り過ごし、ある家の庭に入ると、いつも私のところでやる「ニャオニャオ」をやり出した。庭の真ん中には、野鳥の餌台があった。私と同じことをしている。

 

 しかし、残念ながらその家は留守だった。ジョバンは、しばらく鳴いていたが、留守と分かると又歩き出した。次の家にも興味はあったが、塀を乗り越えねばならず、追いかけるのは諦めた。こんな風にジョバンの生態を調べたら、きっと面白いだろう。

 

 その後、1年ほどしてジョバンは来なくなってしまった。まだ2,3才の感じだったので、病気ではないしきっと誰かに可愛がられていると思う。

 

だから、私は犬を飼う気になったのかもしれない。

 

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149   うかれ猫失せにけり酒醒めにけり

2011年02月07日 | 

 ある冬の日、我が家にオスの猫がやって来た。犬を飼い始める前の話だ。玄関の外で、「ニャオニャオ」鳴くからドアを開けると、馴れ馴れしく入って来た。「なんだ、こいつ」私を全く怖れていない。

 

その時、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでいたので、ジョバンニではなく、ジョバンと名付けた。その後毎日やって来て、仕事場に入り込み、椅子に乗って寝たり、餌をもらったり、自由気ままにしていた。知り合いが「アメリカンショートヘアーの血が入っているみたい。いい猫だ」と言っていた。

 

しかし、何処かに本家があって、誰かに飼われているのかもしれない。いや、本家はないのかもしれないが、あちこちにそういう家を持つ浮気猫なのかもしれない。

 

最近は少なくなったが、この辺りは捨て猫が多く、数匹の生まれたばかりの小猫の入った段ボール箱が、道路端にしばしば置かれていた。ジョバンは、そんな中を生き抜いた逞しい猫なのかもしれない。

 

春になると、夜の屋外では、猫たちの鳴き交わす声が、よく聞こえる。あの声はジョバンかもしれない、などと思いながら酒を飲む。

 

うかれ猫とは、春に発情した猫のこと。春の猫・恋猫・猫の恋・猫の妻・猫の夫(つま)・などと使う。

 

 さて、この句、次の特徴がある。①句またがりであること。つまり、五七五になっていない。十・七である。②切れ字が二つあること。つまり、A主語+動詞、B主語+動詞の併記。

 

この句、元句は「冷めにけり」だったのだが、パソコンには、その他「醒め」「覚め」「褪め」などがあった。

 

冷めは、せいぜい一時間で夜。しかし、「醒め」は、数時間で朝。十数年後の軍配は、当然「醒め」にあがった。

 

 

 

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148   春浅し一つ欠けたる五穀飯     洋子

2011年02月06日 | 

五穀とは、米、麦、粟、(ひえ)(きび)、豆などで、五種には諸説があるそうだ。豆には大豆、小豆など様々あるから、五穀に入るものは、かなりの種類になる。

 

 

最近はその五穀に人気があるという。飽食の時代と言われて久しいが、メタボや成人病を防ぐのにも、五穀は大事な食料として見直されている。

 

さて、そのうちの一つを欠いて、五穀飯を炊いた、というのだ。五穀が揃っていないのは、立春が過ぎたとはいえ、まだまだ寒さも厳しく、ついつい買うのを怠ったからだろう。

五穀が揃ったら、是非ご馳走になりたいものだ。

 

 

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147   ゆるゆると柱時計や春浅し  豊春

2011年02月05日 | 

時計の歴史は古い。木の棒を立てただけの日時計。水時計や砂時計。縄・蝋燭・ランプ・香を燃やした燃焼時計。

そしてゼンマイ時計から振り子時計へ。その振り子時計がなくなって久しいが、チクタクという秒針の音も時計からなくなりつつある。

 

そして、いまや最先端の電波時計へ。十万年に一秒の誤差しか生じないとされている「原子時計」。この原子時計をもとに送信される標準電波を受信し、自動的に時刻や日付を修正する電波時計。

 

科学の進歩を代表する電波時計がゆるゆると回っている。まやかしの進歩によって、人間本来の「生きる喜び」を失いつつある地球人。

 

さて、「春浅し」の季語の斡旋によって、作者のそのような思いや暖かい春を待ち焦がれる憂鬱感が伝わって、感慨深い。 

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146   年内立春鬱金の泥を落しけり    耐子 

2011年02月04日 | 

旧暦の正月以前、つまり年内に立春となるのが、「年内立春」。正月以後になるのが、「新年立春」である。今年は、2月3日が元旦だから、「新年立春」である。この句は、2000年の作だから「年内立春」である。

 

さて、鬱金は、ショウガ科ショウガ属で、この句の場合は『春鬱金』らしい。「春鬱金」は、健康食品として生産流通している。その鬱金を畑から掘り出し、洗っているのであろう。

 

「鬱金」にも「春鬱金・黄鬱金・キョウオウ・wild turmeric」と「秋鬱金・赤鬱金 turmeric、カレーなどの食用」と「紫鬱金・ガジュツ」の3種類があるようだ。

 

 

また、中国では、日本と逆で、「キョウオウをウコン、ウコンをキョウオウと呼ぶから、更にややこしい。

 

 

 

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145   豆好きの犬もをりけり鬼やらひ

2011年02月03日 | 

今日は節分で、冬の最後の日。そして、明日はいよいよ立春である。しかし、寒さはまだまだ続くし、雪もよく降る。

 

更に特筆すべきは、今日は旧暦の元旦である。「旧暦の」と言わねばならないのが、実に残念だ。

 

節分の豆まきは、追儺(ついな)と言って奈良時代に宮中で始まったようである。俳句では、豆撒き・年の豆・鬼やらひ、などと使う。豆は、大豆が一般的だが、落花生を使う地方もあるそうだ。

 

さて、屋外はいいとして、室内に豆を撒くと拾うのが面倒だ。ところが我が家の犬は豆好きなので、拾い残した豆を食べて回収してくれる。実に有難い。

 

 

 

 

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144   日の暮に少し間のある枯木道   章子

2011年02月02日 | 

良い俳句でも、さて解説するとなると難しい句がある。この句もそうである。読んでもらえば分かるように、自然描写そのままで、ほとんど解説がいらない。

 

 強いて言えば、モノクロームの古い写真を見ているようで、下手なカラー写真より芸術性が感じられる、とでも言っておこうか。

 

 「日の暮」と「夕暮」では、どう違うのか?薄暮・黄昏・誰そ彼・・・・・

 

「少し」とは、5分くらい?10分?20分?30分以上ではないだろうなあ。・・・・・

 

枯木道は、田舎の林のようなところか?それとも都会の街路樹か?有名な桜並木ならば春を待つ感じがあっていいなあ・・・・・

 

帰りを急いでいるが、十分間に合っているんだよなあ・・・・・

 

暗くなる前に、もうすぐ目的地に着く「安心感」・・・・・が作者のこころか?・・・・・

  

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143   シクラメンオール電化のショールーム 炎火

2011年02月01日 | 

欧米から遅れること50年。日本にもようやくオール電化時代がやって来た。石油もガスも無い日本で、である。しかし時代は、石油・ガスなどの有限エネルギーから、太陽光・風力などの無限エネルギーなどへの転換が、すぐそこまで来ている。

 

 さて、そんな無機質なオール電化のショールームにシクラメンがある。ただそれだけのことだ。最近のシクラメンには、様々な色があって、配置や数量なども,私達読者に任されている。ある意味では、名詞を並べただけのこの俳句そのものが、無機質である。

 

 しかし、よく考えてみれば、ショールームに展示されている工業製品は、長く見積もっても230年後には唯の「ゴミ」である。経済大国は、ゴミ大国でもある。使われている化学薬品などは、回収されることなく捨てられ、地球を汚染し続けている。

 

 シクラメンにしても、園芸業者のしのぎを削る品種改良競争があって・・・・などと様々な思いが、作者の心の中を錯綜しているはずだ。

 

 

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