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東京・多摩エリアの一部がなぜか市外局番「03」を使っている理由

2024年12月14日 20時03分53秒 | 社会のことなど
東京・多摩エリアの一部がなぜか市外局番「03」を使っている理由

歴史の始まりは、1軒の料亭から


7/28/2020


市外局番「03」といえば東京23区。しかし多摩エリアの一部でも「03」が使われている。なぜ?(画像:写真AC)

 東京に住む人にとって「03」という数字は特別な意味を持ちます。そう、東京の市外局番。東京の中でも市外局番が「03」になっている地域は主に23区内。つまり、「03」の番号を持っているイコール“都会”の住民というわけです。    

ところがこの「03」が使われているのは、東京23区だけではありません。狛江市も市外局番が「03」なんです。 【地図】都心じゃないのに「03」、「狛江市」の場所を確認する  狛江市の前身である狛江村に電話が敷かれたのは1921(大正10)年10月のこと。調布郵便局が電話交換業務を開始したことで、「玉翠園」が初めて電話を敷きます。  玉翠園というのは狛江市中和泉4、多摩川沿いにあった料亭です。  

その始まりは1906(明治39)年頃に当時の村会議員、井上半三郎が2000坪ほどの土地を開墾して「井上公園」を造営したことです。  

この公園は老松が茂り、富士山や丹沢の山々を望み、眼下に多摩川が流れるという絶景でした。ここに半三郎の娘である君代が1913(大正2)年につくったのが玉翠園。屋形船を多摩川に浮かべてアユ料理を楽しむことができる自慢の店でした。  

毎年、アユの解禁日である6月1日の前夜祭にはたくさんの花火が打ち上げられて、公園も店も大いににぎわいました。残念ながら戦時中の1943(昭和18)年に廃業し、その歴史は終わりました。  

この玉翠園は単なる料亭ではありません。公園には小学生のための宿泊施設もあって、林間学校や公民館のような役割も果たしていました。こうした事情もあって、最初に電話を敷くことにしたのでしょう。  電話が調布から敷かれたのは、当時の狛江にあった郵便局の管轄が調布郵便局だったからです。

現・世田谷区から敷かれた電話

多摩エリアの一部の市外局番が「03」の理由は、日本における電話の黎明(れいめい)期までさかのぼる(画像:写真AC)

 さて、1929(昭和4)年3月、現在の世田谷区である砧(きぬた)村にも郵便局ができ電話交換業務を始めます。そこで、役所にも電話を敷こうという話になり、狛江村の役所では同じ北多摩郡でもあるし、最も近いということで砧郵便局から電話を敷くことにします。  

その後、次第に狛江村にも電話加入者が増えて調布から敷いていた電話は砧の管轄へ切り替えられます。砧村は1936(同11)年に世田谷区に編入されますが、狛江村の電話はそのまま砧の管轄となります。  

終戦をへて1952(同27)年に日本電信電話公社(現・NTT)が発足しますが、狛江町(1952年町制施行、1970年に狛江市が発足)の電話は引き続き砧局の管轄となります。 

 戦後、狛江を走る小田急沿線にもどんどんと人口は増え、電話加入者も増加していきます。その事情は全国どこでも一緒でした。電話の増加と共に技術も発展し、全国どこでもダイヤルを回せばすぐにつながるシステムの導入が求められます。  

この全国ダイヤル即時自動化のために、1961(同36)年に市外局番が導入されます。今では考えられませんが、この時期までは市外に電話を掛けるときには交換手を呼び出してつないでもらう電話も当たり前でした。  

この時、東京23区には「03」の市外局番が付与されます。  

市外局番は管轄する電話局ごとに割り振られることになりました。そのため砧局の管轄である狛江市は市外局番が「03」になったのです。1968(昭和43)年には狛江市に砧電報電話局狛江別館ができますが、引き続き狛江市の市外局番は「03」となります。  

ところが、この町の成長途上で問題が起こります。  増加する東京都の人口に対処するために多摩地域では住宅団地の建設が進みます。東京都は住宅供給公社を通じて大規模団地の開発を進めるのですが、その第1号として建設されたのが1966年の多摩川住宅です。

同じ団地なのに「市外通話」?

調布市にある桐朋学園仙川キャンパスの電話番号は「03」で始まる(画像:(C)Google)

 この多摩川住宅は調布市染地と狛江市西和泉にまたがる地域に整備されました。このときに電話線は調布電話局から敷かれることになりました。結果、多摩川住宅の一部は同じ狛江市なのに市外局番が042になってしまったのです。  

この1966(昭和41)年10月以降の電話料金は、市内通話が3分7円なのに対して市外通話は80秒で7円に設定されています。つまり、多摩川住宅とほかの地域は同じ狛江市なのに、市外通話料金がかかってしまうという大変不便な地域になっていたのです。  

この狛江市と似たような事例は、ほかの地域でも起きていました。  

調布市にある桐朋学園大学仙川キャンパスは市外局番が「03」。ほか、入間町・国領町8丁目・仙川町・西つつじヶ丘2丁目・東つつじヶ丘・緑ヶ丘・若葉町も市外局番は「03」。三鷹市は中原2丁目だけが「03」。  

つまり、いずれも現在の世田谷区側から電話線を敷いた名残として、同じ市域で市外局番が違っているのです(ちなみに調布市は市外局番が四つあります)。 

 市内に電話しているのに無駄に料金が掛かってしまうことは問題となり、1980年代前半には各市の市長とNTTの話し合いが行われています。さらに、1991(平成3)年の都知事選に立候補した元NHKキャスターの磯村尚徳(いそむら ひさのり)は、公約のひとつに「都内の市外局番をすべて『03』にする」を掲げています。 

 この問題は2000年代初頭まで尾を引きました。2001(同13)年に保谷市と田無市が合併して誕生した西東京市でも「0424」と「0422」に市外局番が別れていることもあり、東京都もNTTに改善を求めました。 


 ところが、NTTは「その地域の契約者全員の合意が条件」と、かなりハードルの高い条件を示しています。  

この当時、NTT東日本の市内通話料金は3分8.5円。市外は3分20~40円と設定されていました。2000(同12)年度の営業収益は市内通話が100億円の赤字なのに対して、市外通話は1億円の黒字でした(『東京新聞』2002年6月3日付朝刊)。  経営サイドにしてみれば、なかなか統一とは言い出せません。



次第に薄れた「03統一」運動
 その後、市外局番「03」化の声は次第に薄れていきました。90年代も後半になると、携帯電話の普及が進み固定電話の価値は見る見る失われていったからです。  90年代前半には、ひとり暮らしする際には電話は必需品。NTTの電話加入権をどうやって安く購入するかも欠かせない知識でした。  

それが90年代後半以降になると激変。携帯電話があれば固定電話を敷く必要はないと考える人が多くなったのです。  


こうして市外局番「03」の価値も今ではすっかり薄れてきています。客商売をしている店では、縁起がよかったりシャレの効いたりした電話番号を選ぶ文化もありましたが、それはだいぶ消えかけているようです。  


それに取って代わったのはインターネットのドメインだと思うのですが、電話番号の価値が消えたことを見ると、それも永遠の価値ではないのかもしれません。


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