華盛頓 Webライター 11/29(金) 12:01
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サンドクリークの地にて
アメリカ合衆国がその力を西方へと広げる時代、ミシシッピ川を越えた先にはロッキー山脈の壮大な稜線が広がり、そこでの入植地は、さながら新天地への挑戦でした。
しかし、この大地には先住民族インディアンが生活を営んでおり、彼らは白人侵略者にとって「フロンティアの障害」とみなされたのです。
「野蛮なインディアンの絶滅」と掲げられる悲願は、特に金鉱を目指して押し寄せた入植者たちの間で熱狂を伴い、あたかもその地を奪い取ることが正義であるかのように語られました。
コロラド州では、インディアンの頭の皮を買い取るための資金が募られ、耳までついた頭の皮には25ドルもの賞金が付けられるほどです。
この地での衝突は凄惨を極めました。シャイアン族をはじめとする部族と白人たちの間では小競り合いが絶えず、互いに傷つけ合う憎悪が果てしなく渦巻いていたのです。
デンバーの地元新聞『ロッキー山脈ニュース』は1863年より「インディアン絶滅キャンペーン」を煽り、州議会もまたその主張に呼応する形で政策を強硬化させました。
時のジョン・エバンズ知事や新聞社の関連派閥は、政治的支持を得るためにこのキャンペーンを利用したのです。
「インディアンの脅威」や「インディアンの陰謀」といった虚偽の報道が広がり、和平派も交戦派も区別なく一括りにされてしまいました。
そんな中でも、和平を望む者たちはいました。
1864年9月、デンバーで行われた和平会談には、シャイアン族やアラパホー族の酋長たちが出席したのです。
シャイアン族のブラックケトル酋長は、白人たちへの襲撃を止める努力を約束し、自らの部族員を説得して安全な場所へと移動させることに尽力しました。
しかし、それでも「敵」とみなされた彼らは、サンドクリークの静かな流れのそばに野営地を築くこととなります。
彼らが求めたのは、ほんの少しの平穏でした。
しかし、時代の狂気はその願いすらも踏みにじったのです。
和平の象徴として掲げられた星条旗は、降り注ぐ弾丸の前に何の効力も持たなかったのです。
サンドクリークに吹く風が、歴史の皮肉と共に、その場を静かに包んでいました。
黒い薬缶と赤銅色の反逆者たち――
シャイアン族の老賢者、モケタヴァト。
白人たちは彼を「ブラックケトル酋長」と呼び、「部族を統べる指導者」と誤解したものの、実際の彼は「調停者」にすぎません。
シャイアン族の社会は「聖なるパイプ」のもと合議で物事を決め、誰かが命令を下す構造ではなかったのです。
だが、白人たちはこの文化を理解せず、ブラックケトルに過剰な期待を寄せました。
「すべてをまとめて和平を成立させろ」と。
彼は誠意を尽くしたが、その努力は無知な誤解の前では無力だったのです。
さて、対するはジョン・チヴィントン大佐。元牧師でありながら、選挙演説では「インディアンを殺すのは名誉だ」と吠え、卵を潰すように彼らを絶滅させるべきだと説きました。
彼にとってブラックケトルは、シャイアン族を象徴する「シラミの親玉」だったのです。
「平和は反逆者どもの屍の上に成り立つ」という信念に燃えたチヴィントンは、インディアン文化の全貌を知ろうとすることなく、ただ血に飢えていました。
かくして、ブラックケトルの平和への祈りは届かず、偏見と暴力が歴史を染めることとなります。
大いなる神秘のもとに生きたシャイアン族と、無理解な侵略者たちの物語は、何とも痛ましい不協和音を響かせるのでした。
11月29日
寒風が吹き荒ぶ1864年11月29日の早朝、シャイアン族とアラパホー族の小さな野営地は、歴史の不条理の舞台となりました。
チヴィントン大佐が率いる800名もの陸軍騎兵部隊が、平和を望む先住民の集落に向かって静かに近づいたのです。
その光景は、雪に覆われた静謐な大地において、まるで嵐の予兆のようでありました。
野営地にいたのは主に女性たちで、男性の多くは狩猟のために不在でした。
それにもかかわらず、兵士たちは「敵の数」を確認したのち、無差別な攻撃を開始します。
和平派の酋長であるブラックケトルは星条旗と白旗を掲げ、繰り返し平和の意思を示しましたが、その声は砲火と銃声にかき消されてしまいました。
戦士たちはわずか数十人、ほとんどは非武装で、村全体が無防備な状態にあったのです。
兵士たちは命令を受け、「老いも若きも問わず、皆殺しにせよ」とばかりに攻撃を続けました。
女性や子どもたちは必死に逃げ惑い、川辺の砂地に身を隠そうとしましたが、その姿も標的にされたのです。
一人の女性が白旗を掲げた幼い女の子を送り出しましたが、その子もまた無惨に命を奪われました。
男たちの冷酷さは、まるで理性を失った獣のようであったと言われています。
さらに惨状は続きます。
兵士たちは倒れた遺体に暴力的な侮辱を加え、頭皮を剥ぎ取り、指や耳を切り落として装飾品を奪い取りました。
彼らの蛮行は、身体の損壊にとどまらず、女性や子どもたちに対しても言葉に尽くし難い行為が行われたのです。
その証言は、聞く者の心を凍りつかせます。
中には、死者を掘り起こして装飾品を奪う者さえいたと報告されています。
この虐殺で命を落とした先住民の数は、400名から500名に上るとされています。
ほとんどが丸腰の女性と子どもたちでした。
生存者のブラックケトル酋長も、妻とともに命からがら逃げ延びましたが、その心に残る傷跡は計り知れないものだったでしょう。
この悲劇の記録は、後世に向けて深い問いを投げかけます。
文明と称する人間の行いが、どれほど理不尽なものであったのか。
その静かな問いかけは、雪解けの季節を待つかのように、今なお我々の心を揺さぶり続けているのです。
デンバーの歓喜とチヴィントン大佐の栄光
11月末、シャイアン族を襲撃したチヴィントン大佐の隊は、勝利の凱旋をデンバーへ届けました。地元紙『ロッキー山脈ニュース』の見出しはこう踊ります。
「インディアンとの大会戦! 野蛮人どもは追い散らされた!」
紙面には900人を超える「敵」を退けた英雄チヴィントンの姿が、まるで古代の伝説の如く描かれておりました。
「ブラックケトルら三酋長を討ち取り、敵400~500名を倒した」との報告に、デンバー市民は大喝采。
兵士たちの勝利を称えるパレードが12月の寒空に華々しく繰り広げられ、新聞は「コロラドの軍人は再び栄光に包まれた」と書き立てます。
これほどまでに街が沸き立つのは、入植者の長年の不安が一掃されたからにほかなりませんでした。
しかし、この「勝利」の影には、チヴィントンが語らぬ真実がありました。
和平の意を示していたシャイアン族の多くは非戦闘員であり、襲撃の標的となったのは女性や子どもも含む無抵抗な人々だったのです。
戦士を900人とした報告も誇張に過ぎず、実態は無防備な集落への虐殺でした。
やがて、その光輝く栄光に疑念の影が差し始めます。
東部から派遣された調査団が、現場で乳歯の抜けきらない幼子の頭蓋を発見するや、報告は議会を震撼させました。
「和平の使者に手を掛けるなど、正義に反するではないか」という声が広がり、ユリシーズ・グラント将軍はこの事件を「謀殺」と断じました。
デンバーの市民が歓喜する一方で、虐殺を生き延びたシャイアン族らの怒りは頂点に達します。
「犬の戦士」と呼ばれる戦士団は、徹底抗戦の旗を掲げ、白人社会に血で血を洗う復讐を始めました。
皮肉にも、この虐殺が引き起こした混乱は、平和への道をさらに遠ざける結果を招きました。
虐殺の首謀者として糾弾されたチヴィントンは失脚し、歴史の舞台から姿を消しましたが、彼の行いが招いた爪痕は深く残り続けました。
それでもなお、この事件を「正当で有益な行為」と評する声が残り、歴史における人間の業の深さを浮き彫りにしています。
サンドクリークの雪解けを待つ大地は、いまだ凍りついたままです。
参考文献
David Stannard(1992)『American Holocaust: The Conquest of the New World』
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4cae8e8dceb1ed564a4555cd27f313f1fc6a2ba1