コメント
読めるかも…
(
ルルル
)
2008-04-29 12:41:12
以前は「読む」だけの力と知識がなかった。今も決して自信はない。だけど以前より多少は、力が備わったかも。なんか、読めそうな気がしてきたぞ。
私、見事に岩井流マジックにハマったようです。夏までに最低一冊は読みきってやる~!
せめて1冊でも
(
岩井俊憲
)
2008-04-29 13:10:57
ルルル様
またもやコメントありがとうございました。
ルルルさんから「夏までに最低一冊は読みきってやる~!」と書いていただいただけでもアドラーの本を紹介した意義があります。
Unknown
(
未来
)
2008-04-30 00:17:11
先生、こんばんわ☆
この『意識』と『無意識』の捉え方は、私がアドラー心理学に強く惹かれる理由のひとつです。
最近、色々な本を読んでいると、
アドラーは専ら人間の意識について論じているが、無意識についての洞察が浅い
というような趣旨の意見も眼にします。
しかし私は、それこそがアドラーの深い洞察なのではないか、などと考えてしまいます。
まだ入門にも達していない私ですら、アドラーを学びはじめて、
「無意識は気づいている」
というヘンテコリンな言葉を使わずとも、心というものを考えることができるようになれたことは、嬉しい収穫でした。
『ライフタスク』という視点も、
これがなければ、私は自分の問題点をいまだに自覚することができずにいたでしょう。
しかし、アドラー心理学にほとんど馴染みのない方々とお話する際は、私の場合、『無意識』を名詞的に用いたりすることもありますし、『ライフスタイル』や『ニックネーム』、『劣等コンプレックス』などの用語も意識的に封印?し、一般に認知されているであろう用語による共通理解に勤めている面もあります。
ただ怖いのは、私自身の理解や認識が、浅学や私見によってズレていた場合、このようなスタンスは、アドラー心理学に対する無用な誤解を生じさせてしまうのではないか、ということです。
この(ヘンな言い方ですが)アドラー心理学…というか、心理学全般…に接点を持たず、或いは関心もない『普通の方々』と、例えば子育てといった一般的な問題についてお話するとき、私のようなスタンスは果たして妥当なのでしょうか。このことについては、以前から個人的に不安を感じていることでもあります。
(ただ、アドレリアンの方々の雑談を拝聴していると、自分も同じような学徒でありながら、まるで外国人の会話に、ひとりだけポツンとニッポン人がまざっているような気がすることも確か…笑)
なんか、堅い話題になってしまってスミマセン;;
次回のカウンセリング演習は、極力時間を見つけて、また冷や汗をかきに行かせて頂く予定でおりますので、その際は、よろしくお願いします。
日常用語でアドラー心理学を語る
(
岩井俊憲
)
2008-04-30 06:47:18
未来様
貴ブログで拙ブログのご紹介をいただき、また今回はコメントを賜りありがとうございました。
私は、アドラー心理学の初心者レベルは、アドラー用語で子育てや教育問題などを語ることで、達人レベルになると、あえてアドラー用語を使わず、アドラー心理学の真髄を語れることだと思います。
ただ、アドラー心理学を学ぶ仲間同士は、どんどんアドラー用語を使っていいかと思います。
要は、他の心理学をも知ること、場への参加者を知ることだと思います。
カウンセリング演習へのご参加をお待ちしております。
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私、見事に岩井流マジックにハマったようです。夏までに最低一冊は読みきってやる~!
またもやコメントありがとうございました。
ルルルさんから「夏までに最低一冊は読みきってやる~!」と書いていただいただけでもアドラーの本を紹介した意義があります。
この『意識』と『無意識』の捉え方は、私がアドラー心理学に強く惹かれる理由のひとつです。
最近、色々な本を読んでいると、
アドラーは専ら人間の意識について論じているが、無意識についての洞察が浅い
というような趣旨の意見も眼にします。
しかし私は、それこそがアドラーの深い洞察なのではないか、などと考えてしまいます。
まだ入門にも達していない私ですら、アドラーを学びはじめて、
「無意識は気づいている」
というヘンテコリンな言葉を使わずとも、心というものを考えることができるようになれたことは、嬉しい収穫でした。
『ライフタスク』という視点も、
これがなければ、私は自分の問題点をいまだに自覚することができずにいたでしょう。
しかし、アドラー心理学にほとんど馴染みのない方々とお話する際は、私の場合、『無意識』を名詞的に用いたりすることもありますし、『ライフスタイル』や『ニックネーム』、『劣等コンプレックス』などの用語も意識的に封印?し、一般に認知されているであろう用語による共通理解に勤めている面もあります。
ただ怖いのは、私自身の理解や認識が、浅学や私見によってズレていた場合、このようなスタンスは、アドラー心理学に対する無用な誤解を生じさせてしまうのではないか、ということです。
この(ヘンな言い方ですが)アドラー心理学…というか、心理学全般…に接点を持たず、或いは関心もない『普通の方々』と、例えば子育てといった一般的な問題についてお話するとき、私のようなスタンスは果たして妥当なのでしょうか。このことについては、以前から個人的に不安を感じていることでもあります。
(ただ、アドレリアンの方々の雑談を拝聴していると、自分も同じような学徒でありながら、まるで外国人の会話に、ひとりだけポツンとニッポン人がまざっているような気がすることも確か…笑)
なんか、堅い話題になってしまってスミマセン;;
次回のカウンセリング演習は、極力時間を見つけて、また冷や汗をかきに行かせて頂く予定でおりますので、その際は、よろしくお願いします。
貴ブログで拙ブログのご紹介をいただき、また今回はコメントを賜りありがとうございました。
私は、アドラー心理学の初心者レベルは、アドラー用語で子育てや教育問題などを語ることで、達人レベルになると、あえてアドラー用語を使わず、アドラー心理学の真髄を語れることだと思います。
ただ、アドラー心理学を学ぶ仲間同士は、どんどんアドラー用語を使っていいかと思います。
要は、他の心理学をも知ること、場への参加者を知ることだと思います。
カウンセリング演習へのご参加をお待ちしております。