星先生の文章の終わりに「そんな自分にI am OKと言えればよかった」とありましたが、職場では価値を認められず、近くに腹を割って話せる友人もおらず、話を聞いてくれる家族や恋人もいない、つまり、外部からは「No, No, No」と言われ続けている孤独とプレッシャーの中で、自分で自分を肯定してあげるというのは至難の業なのではないでしょうか…人間はそんなに強いものでしょうか。
たった一つでも自分の外部から「You are OK」というサインが受け取れればよかったのかもしれませんが、そういうサインに出会えるまで頑張るのにも忍耐が必要です。今日はダメだったけれども明日は大丈夫かもしれない、5年後は、10年後は大丈夫かもしれない…「小さな勇気」が、そんな時間に耐えられるだけの忍耐と希望を可能にしてくれるのかもしれませんが、その勇気すら根こぎにされていたらどうなのでしょうか。
私も、とってもいい子でした。そして、自分が大嫌いでした。自分の家庭も、周りの環境も大嫌いでした。同時に、そんな自分の心のあり様が、とてつもなく悲しかったことを思い出します。
私もこのような犯罪者になる危険性が十分にあったのだと思います。この青年と大差はないのだと・・・。
私は今、岩井先生をはじめ多くの人との出会い、そして「人生には意味がある」ということを学ぶ機会があったことに心から感謝しています。
miyakoさんも過去を振り返って危険性を感じましたか?
私も暗かったので、亀井勝一郎の青春論を書きました。
「紙一重」ですよね。出会いによって、GOになるべきところにSTOPがかかりますよね。
ところで、miyakoさんは、mixiもやってらっしゃるのですね。ブログも拝見しました。
これからは、コメントの際にURLも記してくださいね。時々お邪魔します。
星先生のコメントも読ませていただきました。いまほどアドラー心理学が求められている時代はないと改めて感じました。
という訳で、新たにスマイル(受講者のため)のブログを作ろうかと思案中です。
この事件について、岩井先生なら、なんとおっしゃるのだろうと、待っていました。
星先生とお知り合いだったのですね。
私もいい子を演じている自分、それでも親の望みどうりには成りきれない自分を、知っている子供でした。本当の自分と一致している同級生たちと比べて、自分は嘘つきだと思っていました。
容疑者の書き込みを見て、本当に悲しく思いました。
岩井先生にお会いしただけで、嬉しくなれるのは、決してこんな私でも頭ごなしに否定されないという安心感があるからでしょうね。
容疑者にもそんな出会いがあったならと思えてなりません。
殺人は絶対、絶対いけないことですが、彼の事件前の携帯メールへの書き込みに「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし 難しいね」「ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったり やっぱり人って大事だと思う」
という書き込みがあり、彼の辛さが感じられてちょっと切ない感じがしました。人間関係が希薄だから無差別になるのでしょうか…ね?
共同体感覚が一番必要な時代なんでしょうね!
コメントありがとうございました。
3人のコメントに触発されての私の見解は、次の2つです。
1.犯人は、やはり「勇気をくじかれた野心家」だったということ。
中学校卒業までは、成績もトップクラスで輝いていた。しかし高校以降勇気をくじかれっぱなし。ただ一瞬にして輝くのは、犯行に向かうことと、そして、それに伴う書き込み。
残念なことは、野心が建設的でなく破壊的な側面で発揮されてしまったことです。
2.miyakoさんのコメントに関連して書いたことなのですが、やはり「紙一重」だということ。
犯人と同じような境遇だった人は、私を含めて多数います(ちなみに、私は高校時代、クラスで最下位の成績を取った経験が2回あり)。しかし、出会いが、人と人とのつながり(現実の出会いでなくとも)が犯行に至る道を阻止してくれます(私の場合は、亀井勝一郎や武者小路実篤との出会いから勇気をもらいました)。
以上から共同体感覚が今ほど求められている時代はない、と再認識しております。
自殺者数が10年連続3万人超の報道に接し、なおさらそう思います。
今回の事件については「あんなに普通の場所で、普通の若者によって、あまりにも何気なく起きてしまった取り返しのつかない事件」に心が潰れる思いがしていましたが、今朝、星先生の文章を拝読して合点するところがあり、もう少し文章の続きが読みたいと検索していたところ、このブログに辿り着きました。(星先生の文章についてはあれで完結のようですね。)
加藤青年についてここで敢えて「普通の若者」と称したのは、彼の携帯の書き込みや、彼と短い間ながら友達関係にあったという女性の感想(同産経ニュース)を読んだ限りですが、彼が私たちと共通の言語を持っていたように見受けられたからです。
これは、先日死刑が執行された宮崎勤や、神戸の児童殺傷事件の酒鬼薔薇などとは明らかに違うところから生じた事件のように思えるのです。
星先生の文章の終わりに「そんな自分にI am OKと言えればよかった」とありましたが、職場では価値を認められず、近くに腹を割って話せる友人もおらず、話を聞いてくれる家族や恋人もいない、つまり、外部からは「No, No, No」と言われ続けている孤独とプレッシャーの中で、自分で自分を肯定してあげるというのは至難の業なのではないでしょうか…人間はそんなに強いものでしょうか。
たった一つでも自分の外部から「You are OK」というサインが受け取れればよかったのかもしれませんが、そういうサインに出会えるまで頑張るのにも忍耐が必要です。今日はダメだったけれども明日は大丈夫かもしれない、5年後は、10年後は大丈夫かもしれない…「小さな勇気」が、そんな時間に耐えられるだけの忍耐と希望を可能にしてくれるのかもしれませんが、その勇気すら根こぎにされていたらどうなのでしょうか。
養老孟司先生の『バカの壁』にも確か共同体の崩壊を受けて、しかし「人生には意味がある」とする方向性で共同体を再構築することは可能なのではないか、という問題提起がありました。
日本の知識人たちはこの問題に真剣に取り組んでみてもよいのではないか、そう考えています。
アメリカからのコメントありがとうございました。
昨晩10時からNHKのニューススペシャルで「追跡・秋葉原通り魔事件」を特集していました。
内容は、加藤容疑者の事件に至るプロセスから彼と同じ境遇にいる人たちを追って行ったのですが、「秋葉原の事件は人ごとではなかった」というメッセージが印象に残りました。
「現実でも1人、ネットでも1人」と書き込んでいたほどの加藤容疑者に1人でも「じっくり話そうよ」という人がいれば、事件にまで至らなかったとも思えます。
血縁、地縁でもない電縁(ネットでつながった共同体)から進展した絆ができればそれだけでも、と思う男であります。
ところで、Mappyさん、アメリカに留学して心理学を学んでいるということでしたら、アドラー心理学に触れてくださるよう期待しております。
何かしら糸口が見出せるはずです。