コメント
Unknown
(
あさだかおる
)
2013-01-27 14:12:49
会員の朝田です。
このところの、岩井先生のテー(優しさについて)とは少々ずれますが「チャンネル桜」の「教育再生討論」に大変興味深い動画を見つけました(1/26)。是非、皆様にご覧いただきたいと思いまして、些か長いのですが、投稿させていただきました。
議論のスタートの時点では、「いじめ」について、色々なレベルの話しが錯綜していますが、次第に自然に議論が深まっていく様子が、感動的でさえありました。何れにしろ、三時間、大変示唆に富んだ発言の連続です。
小生気のついた所をいくつか。討論の二時間目、戸塚宏氏が、生徒に体罰を加える学校の先生は、処分されることを承知しているだろうとの発言。小生納得。アドラー的に考えたら、体罰即ち復讐ってことですよね。また、戸塚氏が目的論的な主張を度々主張的にされている所が、印象的でした。
もうひとつ、結果とプロセスの混同というのは、抜きがたく混同されているなと。ここに登場されている、見識を持った方達でさえ、混同が見られるように思いました。我が身を省みて、身の引き締まる思い。
「勇気」って、なんでしょうね。HGに通って8年、小生自身、漸く小学生が中学生くらいになれたかなと。
「教育再生討論」/チャンルル桜
一時間目
http://www.youtube.com/watch?v=vo3GXqDfsO8&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
二時間目
http://www.youtube.com/watch?v=oajVUq8a21Y&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
三時間目
http://www.youtube.com/watch?v=r2GyFDvxTeM&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
「チャンネル桜」を観ました。
(
岩井俊憲
)
2013-01-28 11:12:15
あさだかおる様
ホットの話題に関する書き込みありがとうございました。
「チャンネル桜」(2時間目)を観ました。
私は、確か28年前、戸塚校長が逮捕される数日前の講演会で話を聞いたことを思い出しました。
彼の信念は、あの当時とまったく変わらず、ある意味立派です。
ただし、子どもの生命力をつけるために体罰、とか、生徒に体罰を加える学校の先生は、処分されることを承知しているだろうとの発言には賛同できないところがあります。
生命力は体罰を与えなくてもつきますし、体罰が許されない学校現場で体罰をするつもりで教師になろうとするなら、そもそも教師になるな、と言いたくなります。
ところで、「アドラー的に考えたら、体罰即ち復讐」とのことですが、自殺の目的は復讐ですが、体罰が復讐だとはアドラーの文献にはありません。
ともあれ、貴重な情報をご提供賜り感謝です。
ありがとうございました
(
あさだかおる
)
2013-01-28 18:31:16
岩井先生
このブログ本来の流れから逸脱した勝手な書き込みに、早速に答えて頂き申し訳ないやら、ありがたいやらです。
「体罰が許されない学校現場で体罰をするつもりで教師になろうとするなら、そもそも教師になるな、と言いたくなります」
まったく同感でその通りだと思います。戸塚氏は最初普通の学校を作ろうと思ったのだけれど、体罰禁止のルールに縛られるのが嫌で、結局断念したというような発言もありました。
討論の中で体罰の定義の話しが繰り返し論じられていますが、体罰を蒙ったとされる側が、相手からのそれをどのように体験したか、というところがポイントではないかと思っています。客観的な定義の必要性も承知しているつもりですが、それをやるとどうしても窮屈な感じがしてしまいます。が、それでも公教育の場にあっては、そうした定義なしでは秩序を守っていけないのかなと。とはいえ、生徒と先生がともに十分に納得の上での体罰であったとしても、法律や制度や周囲の声が、何が体罰かについて言及してくることで、生徒と先生の関係に干渉してくるのではかなわんなというのが戸塚氏にあったかもしれません。ただ、体罰の代替案が存在しているのになお、リスクの高い体罰という方法を使うというのは、やはり別に何か目的があるのでは、という疑念が拭いきれません。
それから、体罰が復讐、と書いたところはいささか言葉足らずでしたので、補足します。
生徒との主導権争いに勝てそうもないと思った先生が、さらに腕力をふるって生徒に対して優越しようと思ったとき、しかし、それでは自分自身が生徒に体罰を行使したとして処分・処罰されてしまう・・・ということを承知しているとき、先生自身が処分にあって傷を負うのも省みずに生徒に体罰を加えてしまうというのは、アドラーの言うところの復讐と見なしてもよいのではないかと考えたわけです。小生の理解の至らないところ、誤りがありましたら、ご指摘いただければ幸甚です。
勝手な書き込みに、早速にお応えいただき、どうもありがとうございました。
復讐としての体罰
(
岩井俊憲
)
2013-01-28 22:23:33
あさだかおる様
再びコメントをありがとうございました。
ご指摘の文脈で、復讐豊としての体罰というのは、ありうると思います。こうなると、処分覚悟の上で、となります。
同じように主導権争いとしても体罰もありうると思います。
ただし、桜宮高校の例やつい最近報道されるようになった豊川工業高校の陸上部の監督のケースは、明らかに支配が目的だと思います。
体罰という指導の手段だけが論議され(私は絶対反対ですが)、肉体的・精神的負荷を与える訓練まで罰則のように取られるようになると、日本の最近の風潮としてある「羹に懲りて膾を吹く」類になってしまいますね。
あさださんのコメントで私もいろいろ考えることができました。
改めて感謝です。
指導者はヤッパリ堪え性、かも
(
Ishi
)
2013-01-29 10:45:21
朝田先生、師匠、面白い論議ありがとうございます。
指導者が体罰、=(相手への)怒りとコントロール。恐怖での動機付け、だと思います(アドラー心理学・ベーシック)。
犯罪に至るような荒れた相手でないのなら、徹底して「信」。でもこれが非常に難しい。
どこかで優越感が顔を出し、相手にイラつく自分。
一度信じたら、自分が信でも信じるしかない?、の気持ちで当たるしかないように思ってます。
これが本当に忍耐です。ピーターパンの自分には、です。
頑張るか・・・
忍と信
(
岩井俊憲
)
2013-01-29 22:35:37
Ishi様
忍と信、指導者が絶えず直面する状況を表しています。
安易に暴力に流れないようにしたいですね。
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このところの、岩井先生のテー(優しさについて)とは少々ずれますが「チャンネル桜」の「教育再生討論」に大変興味深い動画を見つけました(1/26)。是非、皆様にご覧いただきたいと思いまして、些か長いのですが、投稿させていただきました。
議論のスタートの時点では、「いじめ」について、色々なレベルの話しが錯綜していますが、次第に自然に議論が深まっていく様子が、感動的でさえありました。何れにしろ、三時間、大変示唆に富んだ発言の連続です。
小生気のついた所をいくつか。討論の二時間目、戸塚宏氏が、生徒に体罰を加える学校の先生は、処分されることを承知しているだろうとの発言。小生納得。アドラー的に考えたら、体罰即ち復讐ってことですよね。また、戸塚氏が目的論的な主張を度々主張的にされている所が、印象的でした。
もうひとつ、結果とプロセスの混同というのは、抜きがたく混同されているなと。ここに登場されている、見識を持った方達でさえ、混同が見られるように思いました。我が身を省みて、身の引き締まる思い。
「勇気」って、なんでしょうね。HGに通って8年、小生自身、漸く小学生が中学生くらいになれたかなと。
「教育再生討論」/チャンルル桜
一時間目
http://www.youtube.com/watch?v=vo3GXqDfsO8&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
二時間目
http://www.youtube.com/watch?v=oajVUq8a21Y&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
三時間目
http://www.youtube.com/watch?v=r2GyFDvxTeM&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
ホットの話題に関する書き込みありがとうございました。
「チャンネル桜」(2時間目)を観ました。
私は、確か28年前、戸塚校長が逮捕される数日前の講演会で話を聞いたことを思い出しました。
彼の信念は、あの当時とまったく変わらず、ある意味立派です。
ただし、子どもの生命力をつけるために体罰、とか、生徒に体罰を加える学校の先生は、処分されることを承知しているだろうとの発言には賛同できないところがあります。
生命力は体罰を与えなくてもつきますし、体罰が許されない学校現場で体罰をするつもりで教師になろうとするなら、そもそも教師になるな、と言いたくなります。
ところで、「アドラー的に考えたら、体罰即ち復讐」とのことですが、自殺の目的は復讐ですが、体罰が復讐だとはアドラーの文献にはありません。
ともあれ、貴重な情報をご提供賜り感謝です。
このブログ本来の流れから逸脱した勝手な書き込みに、早速に答えて頂き申し訳ないやら、ありがたいやらです。
「体罰が許されない学校現場で体罰をするつもりで教師になろうとするなら、そもそも教師になるな、と言いたくなります」
まったく同感でその通りだと思います。戸塚氏は最初普通の学校を作ろうと思ったのだけれど、体罰禁止のルールに縛られるのが嫌で、結局断念したというような発言もありました。
討論の中で体罰の定義の話しが繰り返し論じられていますが、体罰を蒙ったとされる側が、相手からのそれをどのように体験したか、というところがポイントではないかと思っています。客観的な定義の必要性も承知しているつもりですが、それをやるとどうしても窮屈な感じがしてしまいます。が、それでも公教育の場にあっては、そうした定義なしでは秩序を守っていけないのかなと。とはいえ、生徒と先生がともに十分に納得の上での体罰であったとしても、法律や制度や周囲の声が、何が体罰かについて言及してくることで、生徒と先生の関係に干渉してくるのではかなわんなというのが戸塚氏にあったかもしれません。ただ、体罰の代替案が存在しているのになお、リスクの高い体罰という方法を使うというのは、やはり別に何か目的があるのでは、という疑念が拭いきれません。
それから、体罰が復讐、と書いたところはいささか言葉足らずでしたので、補足します。
生徒との主導権争いに勝てそうもないと思った先生が、さらに腕力をふるって生徒に対して優越しようと思ったとき、しかし、それでは自分自身が生徒に体罰を行使したとして処分・処罰されてしまう・・・ということを承知しているとき、先生自身が処分にあって傷を負うのも省みずに生徒に体罰を加えてしまうというのは、アドラーの言うところの復讐と見なしてもよいのではないかと考えたわけです。小生の理解の至らないところ、誤りがありましたら、ご指摘いただければ幸甚です。
勝手な書き込みに、早速にお応えいただき、どうもありがとうございました。
再びコメントをありがとうございました。
ご指摘の文脈で、復讐豊としての体罰というのは、ありうると思います。こうなると、処分覚悟の上で、となります。
同じように主導権争いとしても体罰もありうると思います。
ただし、桜宮高校の例やつい最近報道されるようになった豊川工業高校の陸上部の監督のケースは、明らかに支配が目的だと思います。
体罰という指導の手段だけが論議され(私は絶対反対ですが)、肉体的・精神的負荷を与える訓練まで罰則のように取られるようになると、日本の最近の風潮としてある「羹に懲りて膾を吹く」類になってしまいますね。
あさださんのコメントで私もいろいろ考えることができました。
改めて感謝です。
指導者が体罰、=(相手への)怒りとコントロール。恐怖での動機付け、だと思います(アドラー心理学・ベーシック)。
犯罪に至るような荒れた相手でないのなら、徹底して「信」。でもこれが非常に難しい。
どこかで優越感が顔を出し、相手にイラつく自分。
一度信じたら、自分が信でも信じるしかない?、の気持ちで当たるしかないように思ってます。
これが本当に忍耐です。ピーターパンの自分には、です。
頑張るか・・・
忍と信、指導者が絶えず直面する状況を表しています。
安易に暴力に流れないようにしたいですね。