コメント
嫌われる勇気
(
おかめ
)
2014-03-25 08:25:17
おはようございます。
「嫌われる勇気」を持てたら、のびのびと自由に
本来の自分を生きられそうですね。
嫌われても、自分をしっかり持っていれば、
「へっちゃら…」ということなのでしょうか。
とても興味があります。
非常識と常識
(
朝田薫
)
2014-03-25 19:39:59
こんばんわ。
いきなり岩井先生の取り上げておいでの主旨に口を挟むような書き込みで恐縮です。以前に野田俊作さんのブログでこんな記事を目にしました。
「故河合隼雄氏が「アドラー心理学て、ただの常識やないですか」と、侮蔑的に言っていたのを思い出す。」野田俊作の補正項/なぜアドラー心理学は流行らないか/2009年12月18日(金)
確かに、縦の関係にしても、承認欲求にしても世の中の常識かも知れません。しかしながら、アドラー派の立ち位置は、世の中の正しい常識を振りかざして主張することではなくて、目の前の困った問題を解決してよりしあわせに近づこうとすることだと信じています。その為には、常識にとらわれているばかりではうまく行かないというときに、少しだけ常識を疑ったり、常識の線を踏み越えたりと、そうした「非常識」なことを、世の中に対して破壊的にならない範囲で実行することの有用性を教えてくれたり、実行する勇気を奮い起こす後押しをしてくれるのが、わたしにとってのアドラー心理学です。これを非常識ということもできるでしょうし、これこそ大人の知恵、常識的な判断ということもできるでしょう。
確かにアドラー派の考え方って、常識的と言えば常識的ですよねえ。たとえばこれはブリーフでよく言うことだと思いますが「うまく行かないなら何か違うことをしろ」。日本語には「押しても駄目なら引いてみな」という言葉があります。うまく行っているかどうかに関わらず、だってこれが常識だから(と言い訳しながら)と無理押しするのと、うまく行かないのなら手を休めて考えてみようよ、というのと、一体どちらが常識的なでしょうか。常識Aを使ってうまく行かないときには常識Bを使ってみたら、と言っているのが、アドラー心理学だと思います。
常識は人がしあわせになるために役立ってこそよい道具。常識の奴隷になるなんてまっぴらご免だなあと考えたひとときでした。
お久しぶりです。
(
岩井俊憲
)
2014-03-25 21:13:01
おかめ様
お久しぶりです。
このところフェイスブックも休眠状態ですね。
私は、「嫌われる勇気」というのは、対人関係を好かれる/嫌われるにこだわらない、他者に自分自身を委ねない勇気と理解しています。
口を挟まれた感じはしませんよ。
(
岩井俊憲
)
2014-03-25 21:18:23
朝田薫様
コメントありがとうございました。
私が理解するアドラー派の立ち位置はどちらが正しい/間違っている、良い/悪いでなく、アドラーが使うユースフル/ユースレスだと思います。
その意味で朝田さんの「常識にとらわれているばかりではうまく行かないというときに、少しだけ常識を疑ったり、常識の線を踏み越えたりと、そうした「非常識」なことを、世の中に対して破壊的にならない範囲で実行することの有用性を教えてくれたり、実行する勇気を奮い起こす後押しをしてくれるのが、わたしにとってのアドラー心理学です」に賛同します。
読者としての注意点?
(
Ishi
)
2014-03-26 12:04:10
インパクトが強い書だけに、読み手にもそれなりのスタンスが必要なのだろうと思いました。
変なことを言っていましたら、お許しください。
本書は100%アドラー心理学とは言えないかも、という感じがしています。解釈にはかなりの注意が必要な気がしていますから。
常識=正しい=他者承認、のように思いました。
人間の行動(心)は現実を生きること→未来へでしょうから、変わりながら進んでしか行けないように思います。
こだわりが強いと苦しいでしょうね。世の中って時間とともに、何もかもがどんどん変わっていくでしょうから。
だから、縁起(周りと関わりながら、変わりながら進む=正しい)なんでしょうか・・・
雨が降ったら傘をさす、様なスタンスになっている自分が居ます。中道=正とは言いません。
変な横槍で、御勘弁下さい。
変な横槍、大歓迎
(
岩井俊憲
)
2014-03-27 07:55:10
Ishi様
コメントありがとうございました。
私は『嫌われる勇気』は、あくまで岸見流アドラー心理学で、ギリシア哲学+アドラー心理学を受け止めています。
同じようにIshiさんにもIshiさん流のアドラー心理学があってもいいとおもいます。ただし、思想・理論上の逸脱がなければ、ですが。
ピンとはずれのコメントですが・・・。
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「嫌われる勇気」を持てたら、のびのびと自由に
本来の自分を生きられそうですね。
嫌われても、自分をしっかり持っていれば、
「へっちゃら…」ということなのでしょうか。
とても興味があります。
いきなり岩井先生の取り上げておいでの主旨に口を挟むような書き込みで恐縮です。以前に野田俊作さんのブログでこんな記事を目にしました。
「故河合隼雄氏が「アドラー心理学て、ただの常識やないですか」と、侮蔑的に言っていたのを思い出す。」野田俊作の補正項/なぜアドラー心理学は流行らないか/2009年12月18日(金)
確かに、縦の関係にしても、承認欲求にしても世の中の常識かも知れません。しかしながら、アドラー派の立ち位置は、世の中の正しい常識を振りかざして主張することではなくて、目の前の困った問題を解決してよりしあわせに近づこうとすることだと信じています。その為には、常識にとらわれているばかりではうまく行かないというときに、少しだけ常識を疑ったり、常識の線を踏み越えたりと、そうした「非常識」なことを、世の中に対して破壊的にならない範囲で実行することの有用性を教えてくれたり、実行する勇気を奮い起こす後押しをしてくれるのが、わたしにとってのアドラー心理学です。これを非常識ということもできるでしょうし、これこそ大人の知恵、常識的な判断ということもできるでしょう。
確かにアドラー派の考え方って、常識的と言えば常識的ですよねえ。たとえばこれはブリーフでよく言うことだと思いますが「うまく行かないなら何か違うことをしろ」。日本語には「押しても駄目なら引いてみな」という言葉があります。うまく行っているかどうかに関わらず、だってこれが常識だから(と言い訳しながら)と無理押しするのと、うまく行かないのなら手を休めて考えてみようよ、というのと、一体どちらが常識的なでしょうか。常識Aを使ってうまく行かないときには常識Bを使ってみたら、と言っているのが、アドラー心理学だと思います。
常識は人がしあわせになるために役立ってこそよい道具。常識の奴隷になるなんてまっぴらご免だなあと考えたひとときでした。
お久しぶりです。
このところフェイスブックも休眠状態ですね。
私は、「嫌われる勇気」というのは、対人関係を好かれる/嫌われるにこだわらない、他者に自分自身を委ねない勇気と理解しています。
コメントありがとうございました。
私が理解するアドラー派の立ち位置はどちらが正しい/間違っている、良い/悪いでなく、アドラーが使うユースフル/ユースレスだと思います。
その意味で朝田さんの「常識にとらわれているばかりではうまく行かないというときに、少しだけ常識を疑ったり、常識の線を踏み越えたりと、そうした「非常識」なことを、世の中に対して破壊的にならない範囲で実行することの有用性を教えてくれたり、実行する勇気を奮い起こす後押しをしてくれるのが、わたしにとってのアドラー心理学です」に賛同します。
変なことを言っていましたら、お許しください。
本書は100%アドラー心理学とは言えないかも、という感じがしています。解釈にはかなりの注意が必要な気がしていますから。
常識=正しい=他者承認、のように思いました。
人間の行動(心)は現実を生きること→未来へでしょうから、変わりながら進んでしか行けないように思います。
こだわりが強いと苦しいでしょうね。世の中って時間とともに、何もかもがどんどん変わっていくでしょうから。
だから、縁起(周りと関わりながら、変わりながら進む=正しい)なんでしょうか・・・
雨が降ったら傘をさす、様なスタンスになっている自分が居ます。中道=正とは言いません。
変な横槍で、御勘弁下さい。
コメントありがとうございました。
私は『嫌われる勇気』は、あくまで岸見流アドラー心理学で、ギリシア哲学+アドラー心理学を受け止めています。
同じようにIshiさんにもIshiさん流のアドラー心理学があってもいいとおもいます。ただし、思想・理論上の逸脱がなければ、ですが。
ピンとはずれのコメントですが・・・。