ち く ま ホーム Ⅲ (いわみ学)

  岩 美 町 の 先 人、文 化、史 跡 を尋 ね て!
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2013-06-05 20:36:03 | Weblog
                    さーあちゃんの日記
                    ちくまホームⅡ
                   
 
                    

屋台ばやし保存会

2013-01-26 20:08:32 | Weblog
ちくまホームより転載しました。

 浦富屋台囃し保存会は平成7年6月に結成しました。趣旨は浦富屋台祭りの継承、とくに屋台囃しの伝承を目的としています。 昭和40年代まで囃子方が屋台に乗り囃していましたが、しだいに囃す人も少なくなり、今のうちに継承しなければと有志が集まり結成いたしました。 また屋台も平成7年の祭りより各町内で曳き出さなくなり、新に有志を募り屋台を曳き出す会を結成してその屋台に乗り囃す。以後、屋台囃し及び屋台の伝承に力を入れて現在に至っています。(画像はフォトアルバム> 屋台囃し&浦富小唄保存会・浦富祭り) 屋台ばやし保存会 竹間徳治
     
屋台囃しについて
 江戸時代、享保年間(1716~)鳥取藩家老 鵜殿長春公が駟馳山以東の知行地、特に浦富の町屋の活性化、五穀豊饒、無病息災を祈念し御幸祭礼を創設されました。
 榊、屋台、獅子、神輿の御幸行列で賑い、屋台を曳き出す時に囃していた屋台囃し、一番は「諸国諸大名のお上りみれば」で始まる大名行列を唄ったもので、歌詞は鵜殿家中の者が作詞、曲は①貝殻節のように海から伝わった②追分のように陸づたいで伝わった③京都に寺参りをした人達が遊んで覚えた④鵜殿家中の者が、京都伏見に赴任した時覚えた⑤鵜殿長春が京都から芸人を呼んで覚えた、いろいろ説があるが文章としては残っていません。
2番は正月の風景を唄ったものです。

屋台ばやし
 諸国諸大名の お上り見れば
 弓矢鉄砲や 槍なぎなた ワイワイ
 お駕篭六尺 八枚肩 ワイワイ
 奴は鳥毛の お葛籠お馬 ワイワイ
 台笠立て笠 お先にふれる ワイワイ
 だんだん 警護をめしつれ行くなら
 先を急ぐな ひそかに行け ワイワイ
 宿所と見えたら お手ふりあげ ワイワイ
 行列そろえて 本陣に行くなら
 サアサ めでたい千秋楽 ワイワイ

2番 
 初春祝うて 門に 門松
 内にや 三味ひく 小唄の声 ワイワイ
 琴の調べは 太平楽 ワイワイ
 羽根つく 毬つく ひいふうみいよ
 三保も変わらぬ 二葉の松 ワイワイ
 表にや 倭の子の 鼓や太鼓に
 拍子そろえて 笛吹きます ワイワイ
 謡は高砂 尾上の松 ワイワイ
 歳旧る男の子が 太鼓の役
 サアサ めでたい千秋楽 ワイワイ


プロフィール (浦富まつり 屋台囃子 浦富小唄 挿入写真を中心にして)

平成7年 7月  町浦富全体の有志で屋台囃子保存会 & 屋台を出す会を組織して中新町の屋台を借りて曳く
   8年 6月  NHK「ネットワークとっとり」 録画撮りBS2で全国放送
       7月  屋台囃子同好会が20何年ぶりに宵宮に屋台に乗って、屋台囃しを演奏する
       8月  町浦富公民館主催の納涼祭に公民館運営委員が屋台を公民館前に飾り屋台囃を演奏する
   9年 4月  浦富地区敬老会で屋台囃しを披露。
       7月  岩美町農協祭りに参加。
  10年 5月  渚交流館こけら落としで「屋台囃し」「浦富小唄」を初披露。
           渚交流館のこけら落としをきっかけに、浦富小唄保存会のみなさんと行動を共にして
           町浦富の子供達、浦富小唄保存会、屋台囃し保存会とお互いの会が連携をとりあい
           ながら、さまざまなイベントに積極的に参加をして、浦富の文化を多くの人々に知って
           戴こうと努めています。(新聞のコメント)
       7月  鳥取いなば農協まつり(湖山)で「屋台ばやし」「浦富小唄」を披露。
       9月  岩美町老人福祉大会で「屋台ばやし」「浦富小唄」を披露。
      10月  いわみの日 澤田昭夫講演会で「浦富小唄」を披露。
  11年 5月  三洋エクセルで「屋台囃し」「浦富小唄」を披露。
       9月  とっとり県民の日 米子コンベンションセンターに屋台を飾り
           「屋台囃し」「浦富小唄」を披露 子供達も参加 総勢35名。
      11月  岩美町文化祭 芸能発表会 子供達も参加。
  12年 9月  岩美町老人福祉大会に参加。
      11月  岩美町文化祭に参加 子供達も参加。
  13年 1月  日本海テレビ「郷土が見える…」子供達も参加 録画撮り。
       4月  浦富地区敬老会 子供達も参加。
      11月  群馬県沼田市国文祭 子供達も参加。
  14年 9月  NHK生放送「岩美町元気組」渚交流館にて中継放送。子供達も参加。
      10月  鳥取市国文祭 屋台を引出す 町浦富の子供達と参加。 総勢44名。
      11月  倉吉市国文祭 子供達も参加
           岩美町ボランティアフェスティバル 子供達も参加。
  15年10月   山形県村山市 国文祭 浦富小唄保存会として参加。
  16年 4月   浦富地区敬老会 参加。

                                 浦富 屋台囃し保存会 (ちくまホームより)

浦富祭り

2013-01-25 20:46:32 | Weblog
ちくまホームより転載しました。
 
平成7年6月号より町浦富公民館だよりへ投稿した文章を載せます。 
(画像はフォトアルバム 浦富まつり・屋台ばやし&浦富小唄保存会)

屋台囃しに思いを寄せて
 屋台にたずさわっていたら、いろいろと屋台にかかわる昔の出来事とか、昔の町浦富のすがたとか、読むにつれ、聞くにつれ、知るにつれて面白く、話としてみんなが知っていたら面白いと思い投稿します。温故知新、古きをたずねて新しきを知る。そこは違うとか、自分達はこのようにしたとか、いろいろ聞かせてもらえたら楽しいのではないかなと思います。 熊野神社の会見宮司、上町 中新町朋友台帳、町浦富のお年寄りの話、岩美町誌を自分なりに咀嚼して書いてみました。これを読まれての意見をお聞かせください。          屋台を出す会 竹間徳治


熊野神社
 創立は承和年間(834~)以前の事でさだかではない。国常立命一神(クニトコノタチノコト)を祀り、社号を若一王子権現と称した。のち南紀熊野宮から伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)、の子供である速玉男命(ハヤタマオノミコト)事詳男命(コトワキオノミコト)の四神を歓請して合祀された。
 寛政12年(1800)坂根屋の大火といわれる火災があった。この火事は牧谷の坂根屋から出火し新町(新道?)横町からかけて浦富の繁華街を総なめにし向山(尊谷から下町、中町の西側)の山麓にあった熊野神社も延焼したという。文化10年(1813)5月に火災。 社殿その他記録等焼失したが同年今の社地(寺山、照山、寺屋敷?)に再建された。
 天保14年(1843)発行の「浦富名所古跡独案内」の中に尊谷(奥行き一丁半余りにして秀の木谷と云う谷合に古き大木有 或る時此の木の上にして燈明見ゆる事いとも尊し。 時の人怪しみて夜な夜な例してみるに9月21日の夜(祭礼の日に関係あるのか?)に村長を初めに老若男女群集して彼の古木乃木に行てよくよく尋ね奉るに尊くも金躰の神像忽然としてあららわれ給う諸人難有思いて神人に御神体を問けば熊野大権現宮の尊体なりと云う。
 人々大いに悦び五穀成就の神なり今の社地清らかなるを以ていよいよ宮柱ふとく建立して崇め奉る所也 (後略)熊野神社の御神体の出現された谷という意味であり、往昔社地があったかも知れぬと思われる。
 文久3年(1863)鵜殿大隅(長道)によって鳥取藩主池田慶徳の学館に祀られていた。武甕槌命(タケミカズチノミコト)を勧請して一緒に祀った。
 明治4年(1871)熊野宮と改めたがその後更に熊野神社と改めた。次いで村社に列せられた。明治40年(1907) 神饌幣帛料供進神社に指定された。 神饌幣帛料供進神社とは例祭日に地方団体(県)から神に対してお供え物が供進される神社。
 熊野神社は、文化10年(1813)に今の社地に再建され現在に至っているが、この地は寺山寺屋敷、もと定善寺。本庄地区高山にあったが、元和元年(1615)西誉助給が今の熊野神社のある丘に移転。創立~処が寛文3年(1663)と寛延年中(1748~1750)と両度の火災で宝暦元年四月(1751)今の中新町に移再建現在に至っている。その名残で岩本寄りの谷を坊谷と言っている。
 神饌幣帛料共進神社に指定されたのは明治40年と岩美町誌に書いてあるが、実際には明治7~8年頃から神饌幣帛料共進神社としての待遇を受けていたようです。


祭礼と町浦富
 鵜殿家は垣屋時代より崇敬されて来た熊野神社を氏神として寛永年中にして鵜殿家の御祈願所となって、享保年間鵜殿長春が神幸祭礼を創設。旧6月13~15日、旧9月20~21日(明治38年頃7月21日に変わった秋祭りは今も同じ日。詳しくは後で)
 祭具及び祭杞料として田地7反歩社領として6石を寄進している。中新町の屋台田1反7畆。今の米代で例えれば一反で8表取れるとして14表24~5万円半分として12~3万円。中新町の若者の総ごととして米を作り屋台を引き出していた。
 鵜殿家の信仰を物語るものとして奉納品に武具が多いいが、とりわけ定紋入りの大鎧、火繩銃、刀剣類、そして社殿の造営など、年とともに浦富の熊野神社の祭礼は充実され、近郷にまれな大祭となった。

 鵜殿家以前の領主、天正9年(1581)垣屋播磨守光成(宗管)以来慶長5年(1600)池田加賀守正虎、元和3年(1617)池田備中守長吉、長幸(1600~1632年頃の事はよくわからない) 寛永9年(1632)池田光仲が鳥取藩主になった時、家老の鵜殿長次を配し垣屋時代の館のあった所に陣屋をおいた。
 垣屋時代の城下町(殿町、上町、下町)と町屋、陣屋を中心にしての町作り地場産業、地域活性化に力をいれ、上町角から中新町、立町を通って今のカドヤの角まで、今でいう産業道路の建設で、商人、職人も集まり順次にぎやかになってきた。
 但馬往来もかあげを通っていたのがこの産業道路に変更。かあげの通りは旧道になってしまった。中新町、立町、境町、三本松はこの頃新しく出来た市街地である。町自体半農半商で、始めの頃は農家の次男、三男がざるふり商売(小商い、ざる一杯いくら)をしていたが農業を奨励して商いは禁止になったが、町浦富の活性化の為には暇な時にはお構いなしになった。(後でいろいろ規制された)さらに伝馬5頭のおかれていた宿場町であったことによって発展したのであろう。

 鵜殿長春が神幸祭礼を創設したのは享保年間(1716~)浦富歳の市もこの時代に出来た。鵜殿長春の町屋作りにかける意気込みが感じられる。しかし、なんと言っても庶民の印象に深いものには京都の祇園祭りを取り入れた屋台祭りがある。これは参勤交代に上る諸大名の行列をうたった歌詞や囃しが有名である。「諸国諸大名の‥‥」独特の笛の音三味線の響きと共に、かっての鵜殿宰邑時代にうまれた祭礼が今日に続き遠い時代をしのばせる(歌詞は鵜殿家中の人が作り出したのではないか、曲は①貝殻節のように外の地から流れ伝わった追い分けとか、しげさ節と同じように民謡のルーツと同じ北前船で ②京都に寺まいりをした庄屋の人達浦富の人達が遊んで覚えて帰って来た ③鵜殿家中の人が京都伏見に役人で赴任していた時遊びで覚え替え歌で屋台囃しにした ④鵜殿長春が京都から芸人を呼んで覚えた)いろいろ説があるが文章としては残っていない。

 鵜殿代々の治所、鵜殿の自分手によって生まれ得たものであると認識したい。 岩美町誌に書いてあるが、自分手になったのは天保14年(1843)自分手というのはこの知行地の政治の一部を領主から委任された政治形態。鳥取藩での統制を受けつつも比較的自由な政治を行うことが出来た。自分手政治としての特筆すべきことは、天保14年鵜殿長発が町全体を無年貢にしたことである。今でいえば産業振興の事実的な助成策でもあったのだろう。
 この時、町浦富と称するようになる。鍵形になった道筋と共に小さいながらも自分手としての経営が行われていた。当時、127軒、人口2170人?(軒数と人数が合わない)天保14年の村落表には町浦富(鵜殿氏、自分手政治の地、同家陣屋、船番所、御札場、享保年間馬次、立市12月26日)とある。このように数々の要地になったので繁盛する要素を備えていた。
 なにはともあれ寛永9年(1632)以来鵜殿家12代。明治維新まで238年浦富における鵜殿の比重は大きすぎて計り知る事が出来ない。日本の歴史の中の徳川時代と同じように浦富における鵜殿時代、まことに大きいと云わなければならない。


御幸行列
今、目をつむって想像してみる。近郷近在の見物客のざわめきの中で、さきぶれの榊が威勢よく、ちょいさっ、ちょいさっ。ちはや(白い作務衣に似た衣装)を身につけ足元は白たびにわらじがけ、ふるまい酒の赤ら顔、なかにはねじりはちまきの者もいて、合いの手よろしくちょいさっちょいさっ、榊の木に真っ白い弊がゆれて、さんよれえードスーンと榊をおとし清めてまわる。幟(武者行列)は鎧兜を身につけて背中に日参の旗のような幟をつけ、右手に青竹を持ち地面を打ち付けながらドスンドスンと歩いている。この人達をヤッコと言っていた。その後を10人ぐらいの人に引かれた大太鼓の屋台が通る。直径一間はゆうにある大太鼓には烏帽子をかぶった人が一人乗っていて、ドーン ドーン自信たっぷりで打ち鳴らしている。鉾は長柄の先に両刃の剣をつけ、三日月型をした鎌のような鍔をつけた飾槍の肩の辺から旗(たんざく?親しみをこめてそう呼ぶ人もいた)がヒラヒラして、この鉾を屋台に乗せてほこらしげに引き出している。
 やがて若者、子供達に引かれた家台?が囃しをかなでながら、唄いながら一台また一台と、通り過ぎる。どの家台にも囃し方が乗っていて、その囃しにあわせて唄いやすいところだけ『弓矢鉄砲や、やりなぎなたワイワイ』子供達も大きな声で『ワイワイ』と調子を合わせている。後ろ見の幕の、赤や白のどんすに刺しゅうされた鷲や虎の上で真っ白い弊とちょうちんがゆれている。

猩々が獅子が笛と鉦に酔いながら、一軒一軒厄払い、繁栄と五穀豊饒を願って舞う池田光仲が慶安3年(1650)中国の猩々伝説と麒麟伝説を合体させて、新たな麒麟獅子舞を創造し確立させた。猩々舞を舞おうようって原型は酔拳だったりして、そばで神輿のさきぶれの太鼓の音が聞こえる。やがておごそかに荘厳に神輿の出番だ、神様が年に一度神輿に乗って町内を巡行する。担ぎ手も榊と同じいでたちで、気合をいれて、ちょいさっちょいさっ、シャラシャラジャラジャラ鈴の音や金属の触れ合う音がその掛け声と共に小気味よく聞こえる。

従者の持った大きな日傘の中、神主が正装である公家の装束で身を包み、神輿のそばをおごそかに歩いている、神輿の上にある鳳凰が夏の日差しにキラキラと映える。(先月号で榊、神輿を担ぐ人の衣装を、ちはや、と書いたが、はくちょう、ともいうと聞いた。「白丁」読み方を変えればハクテイ。白い衣装を着て榊、神輿を担ぐ人、そのような意味ではないかな?) 最後に氏子総代を始とする各町内の年行事の人達が紋付き袴で、今年も無事祭りができました、ありがとうございますって、しめてまわる。鉾も昭和初期頃まで引き出していた。とても背が高く今だったら電線がじゃまをして出せないかもしれない。幟、鉾屋台、大太鼓屋台は近郷から雇い毎年同じ人が出ていたようだ。 屋台の囃し方も同じことで笛、三味線は浜、牧谷の人が毎年同じ屋台に乗っていた。笛3人三味線2人太鼓1人、笛も三味線も太鼓も町内の人も乗っていた。

猩々伝説(庭訓往来の市町之興行)より抜粋。
唐土金山の麓、揚子の里に高風という親孝行の息子あり、高風の淳朴なるに感じ夢のなかに猩々が現れて町に出て酒を売れば富貴の家にならんとおつげあり、日本の養老ノ滝と同じような話。無尽蔵な酒を与え、酒を愛する猩々が酔って舞を舞う。今でも普請の時祝いの席で猩々をよく謡う。
 能楽では元和9年(1623)尾張中納言義直邸にて初公開、その席に池田光仲公も同席していたのかな。このように想像していたらワクワクして楽しくなる。 辞書には猩々(想像上の獣、長髪赤顔酒が好きで言葉ができる類人猿の一種 麒麟(想像上の神秘な仁獣麒は雄で麟は雌。聖人が世に出、王道が行われる時生まれると伝えられる。生物を食わず生草を踏まぬという。一夜に千里を走るといわれる霊獣、瑞獣ともいう)両方共、約2600年前、中国の伝説で生まれた動物。

 宵宮の日の午前中に家の前に盛り土(悪魔、悪病が入ってこないように)をして、二本の棒に紅白の布を巻いた上に松の小枝(神棚に供えるような)をつけて門口に立て、荒縄を張り、弊や提灯を吊るし祭りの準備をする。中新も昔は紅白の棒ではなく笹竹で、竹と竹に荒縄をはって弊をつけその間をくぐる事によって、災厄、病を祓い清め、暑い夏を無事すごせるようにとの願いがあった。 祭りが終わると盛り土は道になるしていた。中新町が紅白の棒になったのは昭和21年頃、盛り土も道が舗装(昭和28~29年頃)になってなくなった。
 宵宮にぶらぶら散歩すると、丸橋さんの表通りに面した座敷に獅子が飾ってあり、新田さんの座敷となべや今はないが広谷さん(いずれも中新町)本杉村さん(中町)には金屏風の前に大鎧が飾ってあり、ローソクの灯なのか、はだか電球の明かりなのか、薄明かりの座敷で、かすかな風のゆらぎの中で獅子が大鎧が、おそろしいまでに幽玄美の世界にいざなう。

 皇紀2600年(昭和15年)まで荒砂の浜まで家台様を出御なされ給うと(最後の大祭となった)と岩美町誌に書いてあるが、戦後もしばらくは22~3年ぐらいまで?と浦富海岸が国定公園に指定された時、浜まで出ていた。各町内家族中が弁当を作ったりにぎりめしをこしらえ、屋台に積み込んだりして浜の宿にもって行きて(各町内の屋台宿、神輿宿、榊宿、獅子宿があった)荒砂神社の前の浜で4町の朋友が一緒になって屋台を一台ずつ海辺までもっていきていた。榊も神輿も腰の辺まで海水につかりながら揉み合う、もちろん榊も屋台も浜辺の御殿小屋の中に安置されている神輿の前に据えて、神主の祝詞、獅子が舞い儀式が終わると大休止。 それぞれの浜の宿に行き、町内、家族中が一緒に食べて飲んで楽しんでいた、浜の人達も自分たちの祭りのように祭りを楽しんでお客をよんで祭り気分で騒いでいた。

 荒砂神社の下の橋「宮島橋」は通称「屋台橋」といっていた。夕暮れ時、屋台の提灯にローソクが灯ると朋友が一人屋台の二階に上がっていて、ゆれて燃えかけた提灯をはたき落としたり、消えた提灯に灯をともしたりしていた。 
 戦後23~4年頃、提灯の灯は電球に変わり田後、網代の漁業会に船のバッテリーを借りたりしていた。 自分たちの記憶にある中新での大休止は戦後、屋台が浜まで行かなくなってから、大休止の後、殿町の浜戸さんあたりまでで引きかえし札場(上町の広谷さん)の前(今、かまや旅館の隣の国道178号線の交差点海側にあった。
昭和36~7年頃までは三差路)まで帰って来ると4町の屋台が上町に入ったのを見て、お宮に向かって据付け横一列に並ぶ(整列順は後で) 神輿が屋台のそばまで帰ってくると四町の朋友が一緒になって、屋台の前に神輿を据え付けようと、神輿の連中と揉み合う、神輿の足(据え台)を持って逃げる朋友、取り返そうと追いかける白丁、神輿は地におろしてはいけないのでひっしだ。神輿の連中も融通の横の小道を通って足を先にお宮に持って帰ったりしていた。なにはともあれ無事神輿がお宮入りをして解散。
 屋台はそれぞれの町内の宿に帰る。昭和42~3年まで続いた。 四町の屋台が巡行したのはこの年が最後、榊→屋台4台→大太鼓→獅子→神輿→総代及び年行事、の御幸行列もこの年で最後になった。この頃から高度成長のあおり?で若者が少なくなり、屋台を引き出さない町や、屋台を組立てても各町内単独行動になった。中新町でも屋台を引き出すのが精一杯で、囃し方も屋台に乗らなくなり以前吹き込んだテープを使うようになった。


屋台
 14才になると一人前の大人として親の監督管理外において、朋友とのつきあいをする事で社会人としての自覚、役割を身につけさせようとしていた事は、祭りの維持伝承に、また町内を形成していくうえで重要な意義をもっていたのではないだろうか? 又、新しく町内の付き合いをする人(婿で来た人、引っ越して来た人、等)は歳に関係なく3年間は朋友の付き合い。大割の時くじをひいて榊、神輿をひいたとしても役としては屋台の役が優先でその役(榊、輿)は他の人に変わってもらって本人は屋台に出る。27歳で朋友を抜ける。但し父の亡い人は26歳まで。 町内の朋友を抜けた人を、中老(町内の役)として屋台引きにお願いし屋台にたずさわってもらう。今年の町内としての屋台祭りを若者頭(取締)を中心として朋友で話し合い決める。
 屋台を町内に返してからは、朋友の気持ちを汲んでくれる町内の人に朋友長になってもらい屋台祭りを運営する。また大割の席で朋友を代表して若者頭が、屋台を出させてほしいと、お願いをする。

 大割の夜、各町内の年行事(お宮に関する各町内のまとめ役又は世話役)が、町内の人に集まってもらい、お宮に関する報告及び、祭典費を集める。また今年の祭礼の各町内の役として榊、神輿、獅子に携わる人を決めていた。 その席で朋友を代表して若者頭が屋台を出させてほしい、また、中老に誰々をと町内にお願いする。
 町内は壁となるが町内は朋友をたたきのめしたり(からめとったり、ないがしろにしたり)はしない。 なぜなら、町内には、今までの祭りの熱い血がかよっているから。というよりも、無意識の中から生まれ、代々受け継がれて来た屋台だから、なんとか若い連中に継いでほしいと思う反面、若い連中の個人的なわがままを町内が通してはならない、という気持ち。また、朋友も干渉されたくないと思う。町内と朋友の無意識のうちのお互いの甘え。朋友も一見反対、壁となっている町内の存在を認容し反発するエネルギーを前向きに祭りにむけていたのではないかな。
 朋友が町内の力を、町内が朋友の力を正面から受けてこそ、屋台とは祭りとは何かって理解できるのではないかと思う。ただ町内は無分別に越えようとするものを拒否するだけだと思う。町内と、朋友、お互いの中での無意識のうちの甘え、じっくりと考えてみたい。
 今は朋友という言葉はつかわれなくなったみたいだが。各町の若者頭が決まったら四町の若者頭が集まって、今年の全体としての屋台祭りを相談。 四町会長(四町の屋台のまとめ役、順番にしたり談合でしたり、その年によってまちまち)を決めて全体の屋台を仕切っていた。

 宿の家は道に面した客間を提供、屋台の後見の幕は、むしぼしをかねて部屋に張り、その中で毎晩遅くまで若者の声がしてさぞうるさかった事と思うが、前に書いたように子供の頃から屋台にたずさわり何代も続いている祭りだから、家を屋台宿に提供する事があたりまえの事としていた。宿の人も宵宮から本祭は朋友と一緒になってまかないをして、朋友は屋台に携わってくれる人をその席にまねく。 朋友長、中老、囃子方、朋友、等20~30人ぐらい。

 朋友は接待役でおちおち飲んでいられない。お金がなかったせいでもあるが酒の肴は、いか、シイラの刺し身、煮付け、ちくわ、ひややっこ、キューリといかの足の酢の物、とまとの輪切りなどが主で、酒がはいってくると屋台談義にはながさき、囃子方が演奏を始めみんなが唄いだす。屋台のお立ちの時間になると若者頭が『そろそろお宮に』って腰をあげる。町内がひとかたまりになってお宮にむかう。下町まで来ると、昼間装飾された屋台が見えてくる。
 子供達のざわめきと提灯の灯のあかりに真っ白い弊と赤い後ろ見の幕の鷲の刺繍が気持ちをたかぶらせる、早く来ている他町の屋台から囃しの音合わせをしているのか笛と三味線の音が聞こえて来る。屋台のそばに、明日の出番を待つ大太鼓の屋台が飾ってあり、大人が子供がその屋台に乗って打ち鳴らしているドーンドーン腹に響き、ワクワクさせる。
 参拝しようの言葉にさそわれて、石段をのぼり鳥居をくぐる。いつもは恐ろしいぐらい静かな参道が今日は賑やかだ。宝物蔵の前の灯に照らされて榊が興奮をおしころすように静かにその勇姿を見せている。両側にしいの木の生い茂る参道を行き、裏参道と合流している所の随神門を通りぬけると石畳みの参道になる。子供の頃この門のお参りは帰りがけにするものだと教えられ、意味はわからないが、今だにそのとうりにしている。お宮に向かって右側には老人を左側には若者をまつってあり、随神(身)さんとしたしまれていた。 
 本殿の前に各町内の提灯がかけてあり、本殿では、神主の祝詞、氏子総代を始として各町内の年行事が座り、おごそかに神事が行われている。本殿の横には薄明かりの中、神輿が据えてある、なにか威厳を感じさせるる。

 お立ちの時間になると4台の屋台が次々と方向転換して町の中へ向かう。屋台の縄の先には町名の入った弓張り提灯を手にした朋友が、そのあと子供達が縄にさばり朋友が所々に入って屋台囃しを唄いながら屋台を引いている。子供達も『わいわい』と調子を合わせている。酔っぱらったおっつあんが替え歌で『ちくしょううとみえたらおてふりあげワイワイ』そのうち前の方で言い争いの声が聞こえる。縄が前の屋台に触れた、いや触れないと騒いでいる。両町の若者頭が話をしてやがて何もなかったように夜の町へ溶け込んで行く。 札場の前で解散(順路は後で)

 屋台が宿に帰ると座敷に上がって、たずさわってくれた人をもてなす。朋友も屋台の後始末をしてから席につく。 饗が乗って来ると替え歌を唄いだす。屋台が動かなくなった時、威勢をつけて『めでたあもあるしそれがあぁからつやのえんのしたワッサイワッサイ』はなかじの所にあった(姥懐)浦富焼の窯元の縁の下に、やまきずのついた売り物にならない陶器がごろごろしていたのを唄ったではないか、この話はよく聞く。

 寛政7年(1795)の因幡誌に浦富焼のことがのっていて、はなかじの辺の山側をからつ山といっていた。浦富焼は主に日常使用する雑器、飯茶碗、湯飲茶碗、小皿、銚子、油壷、火鉢花器、等で 鵜殿の家中の床の置物等、特別なものをも造っていたが、幕末に至ってすいびした。
 
 『ここいら~の、べっぴんさんは、すけべ~でござるワッサイワッサイ』から始まって、ここに書けないようなエッチな替え歌を唄い騒ぐ。最後は調子をあげて 『なんでもかんでも、まさしげよう、なんでもかんでもまさしげよう』(屋台が走る時の唄というよりかけごえ) まさしげ、楠正成しか思い浮かばないが浦富とむすびつかなくて、本祭りの夜、屋台が浜まで出ていた頃、帰りの道中唄っていたのかな。

 一番屋台の囃し方の太鼓が調子を上げてテテン、テン笛も三味線も合わせてこの唄になり、屋台が走りだす。あとの屋台も遅れを取るなと走る。札場の前に帰り四番屋台が上町に入ったのを見てから屋台をお宮に向かって据え付ける。 神輿の宮入をまって、それぞれの宿に帰る。浜まで行かなくなってからは、送り屋台をして宿に帰る時に走っていた。
 飲んでいるうちに、酔いにまかせてまどろむ、その夢の中で、朋友の顔をみる、お互いに目と目を合わせ、しばらくして装飾をはずしたからの屋台が走る。縄をたぐり寄せ屋台の座敷につんで、後ろで押す者、横の格子をもって押す者、ねどりをする者、調子を上げてつぶれるまで走る。朋友の、若者の感じるつらさ、低迷している自分に対してのいらだち、苦しさの反動、その時代、時代の朋友が感じるいろいろな不安、不満、価値観のちがいを、どうしょうもない感情を、屋台を走らせくやしさをぶっつける。なぜ、まさしげ、なのかわからないまま大声で唄い走る。ねどりの棒が肩にくいこむ、頭の奥のほうで、だんだんと調子が上がってくる三味線の音、かんだかい笛の音、リズミカルな太鼓の音が聞こえ、夜の町をなにも飾っていない屋台が走る。雪駄が脱げる、朋友が何か言っているが、人の声がザワザワしていて聞き取りにくい。朋友の声でまどろみから覚める。
 
 まわりは酔った人の話し声でいっぱいだが、何か頭の中はスカッとしてさわやかだ。 年配の人の話し声が聞こえる。昔、朋友だった頃の苦労話、自慢話、そばで朋友が合いずちをうっている。何年か先、朋友をぬけその子供達が朋友になった時、昔はこうだった、ああだったと言うだろう。そして子供達(朋友)は、また始まったと思いながら話の相手をする。昔からくりかえし伝えられている、無意識の中でのいいつたえ。 または、自分を意識しての話の中での申し送り。屋台というわくの中での、町内を氏子中を単位としたある意味での家族。おじいさんから親へ親から子供へ代々うけつがれていく伝統文化の伝承。そのありようは、その時代、時代で変わっていくがその本質はなかなか変わるものではないと思う。『なんでもかんても、まさしげよ』単純な節の繰り返しで宿は盛り上がり、なんだかんだしているうちに、宵宮は更けてゆく。本祭り当日、朋友長は羽織りを着て屋台に付く。
 
 戦前まで屋台引きは男だけだったが、戦後になって女の子も参加するようになった。踊りは戦後、屋台が浜までいかないようになってから始まった。中新町のやくざ踊り、下町の笠踊りは、語り草になっている。 リヤカーを装飾して電蓄を積み、踊りをする場所の近くの家から電源を取り踊っていた、昭和42年頃までリヤカーが活躍していたが電蓄に変わるカセットデッキの台頭で姿は消えた。

昭和42年以降は参考欄へ


参考
諸入用帳(上町)
安政6年6月、初寄合 連中 酒方〇〇〇、肴方〇〇〇ほか10名  
       それぞれの役を決めていた。
元治 元年 子年 初寄合 連中 〇〇〇ほか12名
      苗字はなく名前だけで書いてある。
明治8年亥年5月 上町若連中惣代 初會合 〇〇〇〇ほか13名
       苗字で書いてある。
最新中新町屋台朋友台帳は明治10何年、代満から始まっている。
明治1?年 連人〇〇〇〇ほか11人 一人前42銭 半人前21銭。
明治18年、旧5月21日より、連中〇〇〇〇ほか11人半。
明治28年旧45月(閏)25日 朋友人名〇〇〇〇ほか11名の名前 
      が書いてあり半人役〇〇〇〇ほか5名の名前合計13人半
      この年初めて朋友の名称が書き記されている、それまでは
      連人何人、連中何人、又は若連中何人。
明治37年9月6日  遼陽占領祝賀会で屋台引き出す。
明治38年度 この年始めて旧5月何日代満の日ではなく明治38年度 
      この年以後何年度になっている。この年に旧6月13~15日を
      今の7月20~21日に変更したのか、他の町内の朋友台帳とて
      らし合わせてみたら、面白いと思う。
明治43年6月10日 岩美駅開通祝賀会で屋台を引き出す。
明治43年度 本年度挂幕 上龍下龍 地質 羅紗新調の際拾貮円五拾銭を要する。
明治44年度、朋友長〇〇〇〇、朋友〇〇〇〇ほか11名。
       この年から朋友長の名前が書き記されている。
大正3年7月22日付け屋台整列及び順路  宵宮、宮前岩本村に向かいて
      右側 1234の順序に据え付け、お立ちは逆にて4321に
      て辻西を通り上町融通会社迄其処で引き返し1234にて中新
      立町を通り境町竹内仙蔵前迄、其れより引き返し4321にて
      今町を通り横町羽田兵四朗前の橋迄。 其れより引き返し東町
      送り屋台は4番となり他は123の順にて横町より立町を通り
      中新町屋台は其の宿舎にて別れ、東町屋台は上町札場前迄送り
      て解散。 本文中、上町境町横町、にて屋台の詰方は屋台の縄
      限りとす。
      本祭、宮前整列は宵祭に同じ、お立ちは1234の順序にて裏町
      (かあげ)を通り左に曲がりて今町を通り小田秀蔵角を曲り新道
      に入る、横町を通り広谷薬局角を曲がり立町、中新、上町を通り
      浜迄、据付けは1は東2は西、3は1の東、4は2の西に据付け
      て屋台宿にて休む、お立ちは1234の順序にて札場前迄引き返
      す据付けは1は東、2は西、3は1の東、4は2の西、本文中札
      場前の据付けは1番は各町屋台、上町道筋に視れたるを見て据付
      けなすものとする。神輿のお宮入りを待ちて解散。
        右決議
       大正3年7月22日
大正4年11月10日 大典祝賀会(大正天皇即位式)に屋台を引き出す。
大正6年  地利米配当金一町につき金5円70銭。
大正9年7月23日 四町朋友の管理せる田地収益金、本年以降当町配当額の
      二分の一は必ず銀行預金となし積み立てるものとす。
      万一該金貴を賞消せんとする時は必ず右事項を決議せる左記
      諸氏の承諾得ざれば少額なりとも賞消する事を得ず。
        右決議      
       大正九年七月二十三日、
大正11年度 本年は例年の徹り祭典挙行に当たりて宵祭より四町共義の上
       鳥取市楠座舞枝、3人舞枝2人囃子方男女庸い屋台芸を催す。
       本祭り21日午前10時頃より神社前を発して今町木屋の辻に
       懸る際東町屋台を先頭たりしに依りて中新町屋台を以て舞台本
       陣に当て芸題を行う。 以下略
昭和13年度 昨年7月7日北支瀘溝橋に端を発したる日支事変は遂に一周年
       を迎え更に戦火は擴大、銃後の護りは一層重且つ大となれり。 
       此処に於いて四町朋友相計り経費の節約意を以て本年は屋台の
       お供取止と決議せり 全朋友は勿論町民擧げて戦線勇士の武運
       長久を祈願せり。 以下略
昭和14年度 日支事変に因り昨年のような如く御幸祭礼を中止し皇軍勇士の
       武運長久を熱烈に祈願する。以下略
昭和21年度  四町の屋台御幸祭礼のお供に参加。
昭和30年度 人的支障をきたし中新、上町共参加を辞す、東町、辻西は屋台
       だけ出し町内区域にて引っ張る。
昭和40年度 四町の屋台、御幸行列に参加。
昭和44年度 屋台は各町単独行動となり中新町の屋台も囃しはテープになる
       以後、屋台は御幸祭礼とは別に単独行動となる。
 (昭和51年より榊は従来より小さくし役としての人数は23人から17人
       になった、神輿も台車に乗せて巡行するようになった)
昭和59年、 町浦富公民館、育友会、子供会が一緒になって子供達に夢を与え
        てやろうと各団体共催、町浦富自治会及び中新町朋友の協力の
        もと町浦富公民館事業として中新町の屋台を借り引き出す。
        総括責任者公民館長、外25名 子供達約80名盛大であった。
昭和60年  中新町、単町で年齢に関係なく町内区域にて引き出す。
昭和61年  祭礼は7月21日以後の土曜日を宵宮とし日曜日を本祭りとする
       事となり、今年は7月26、27日
昭和62年  中新町及び上町の屋台老朽部分の修理。 
       宵宮、辻西、上町、中新町の屋台をお宮の前に据え付ける。

(上町諸入用帳 中新町朋友台帳より抜粋)


 長い間、読んでもらってありがとうございました。何年か前に、ある事業所に《『本気』本気ですれば、何事も出来る、本気ですれば、面白い、本気ですれば、誰かが助けてくれる》それを読むたびに勇気づけられ、元気づけられ、やる気をおこしてくれる。何をするにしても、まず自分が本気でする事が、面白く楽しく感じとることが大切ではないか、自分はどうしたいのか、そのためには何をすべきなのか、その辺をしっかりと把握していないと、腰くだけになってしまう、自分自身の目的がはっきりした時に、楽しく、面白い前向きな考えが行動となって表現されてくるのではないか、屋台にたずさわりながら、この文章を書きながら、自分自身を探していたのかもしれません。

 いろいろな価値観のなかで、こだわりを捨て、理屈ぬきで280年続いている浦富祭りを屋台祭りを伝えていくためには、今の有形無形?のあってないような屋台を出す会、祭りが近づくと声をかけて集まり、屋台を町内から借りて引き出す、もっと違う方法がないでしょうか。 各町内会、公民館、子供会、屋台を出す会、囃し同好会、そして町浦富全体が、ひとつになって新しく「屋台祭り保存会」または屋台祭り振興会的な会を発足させ、お互い協力しながら、おしつけではなく、面白く楽しい屋台祭りができたらよいな、屋台祭りは過去のものではなく、今一度町浦富のみんなが認識して、知恵を出し合って、その力を結集できないでしょうか。
 上町、中新の屋台はもちろんの事、何年か先、東町の屋台も借り受けて修理し、三台の屋台で祭りを町をにぎやかくする。夢ではないような気もするのですが。子供達の心の中によい思いでとして残り、その子供達が大人になり、他の地方の祭りを見たときに子供の頃の浦富の祭りを思いだし、比較ができたらよいと思う。規模は小さいが、他に例のない屋台祭りだから、屋台囃しだから、誇れる浦富祭りだから、町浦富の換金できない財産だから、子供達が青年になった時、夏がちかづくと屋台を思い出して、屋台を引き出そうって、そうなってくれたらいいなって思っています。祭り文化、ある意味での人間形成の役割のひとつになっているような気がするのですが、いろいろ教えてくれた町の皆様、ありがとうございました。
                                           平成9年(1997年)10月号 完


屋台を出す会

平成7年 6月  中新町単町では無理になり、急遽、町浦富全体の有志で
          屋台を出す会を組織し、中新町の屋台を借りて引き出す。
  8年 6月  NHK「ネットワークとっとり」録画撮り BS2で全国放送。
     7月  屋台囃子同好会が20何年ぶりに宵宮に屋台に乗って
          屋台囃しを奏でる。
     8月   町浦富公民館主催の納涼祭に公民館運営委員が屋台を 
          公民館前の広場に飾り、屋台囃し同好会が演奏する。
  9年 4月  浦富地区敬老会で屋台囃しを披露。
     7月  上町の屋台を借りて引き出す。~現在に至る。 
 11年 9月  とっとり県民の日 米子コンベンションセンターに屋台を飾り
          子供達と共に「屋台囃し」「浦富小唄」を披露 総勢35名。
 12年12月  熊野神社で新年を祝おうを開始。~現在に至る。
 14年10月  鳥取市国文祭 子供達と共に屋台を曳き出す 総勢44名。

          現在に至る。

浦富海岸ガイドブック

2010-05-20 10:19:18 | Weblog

                        いわみガイドクラブ 編集・発行

                        浦富海岸 ガイドテキストブック
                          (鴨ヶ磯~城原海岸 編)
                          (羽尾岬~陸上 編)をいただきました。

                   山陰海岸が世界ジオパーク候補地に認められるなど
                   大きな動きがありました。 
                   浦富海岸についてのガイドと共用出来るテキストです 
                   店頭にあります。  是非 御覧ください!

                    
目指せ 世界ジオパーク認定
 浦富海岸は、主に白亜紀から古第三紀に形成された花崗岩類からなる地質が日本海の冬の季節風による波浪に侵食・風化された海食地形を観察することができます。また、浦富海岸では西方と東方で節理の間隔・方向が異なり、その特徴を観察することができます。これらを通じて、日本海形成に関わる火成活動及び山陰海岸の海岸地形を学ぶことができます。島崎藤村は浦富を訪れた際、浦富海岸を一般に「山陰松島」と呼んでいることに対して「松島は松島、浦富は浦富」と喝破して、松島の平面的女性的な風情に対して、立体的・男性的な浦富の独自性を称えたと伝えられています。また、国府犀東も「天に明星、地に浦富の海にミューズの神が住む」と浦富の美しさを称える詩を残しました。 (画像はフォトアルバム 浦富海岸ガイド)


浦富海水浴場  明治27年に開設された浦富海水浴場は入り江状の遠浅で約1,5kmにわ
          たって白砂の浜が続いている。またここは、日本の海水浴場55選・日本の渚
          100選・日本の白砂100選にも選ばれている大変美しい海岸。夏は海水浴
          冬はサーフィンと年中リゾート地として賑わっている。

龍神洞     山陰海岸最大規模の、日本海へ開いた海食洞。海の竜神洞と丘の竜神洞があり
         ます。島崎藤村の山陰土産には「何と云っても竜神洞には私も心をひかれた。
         そこへ行くと好いとか悪いとかいふようなところを通して深い自然の力に引きずり
         込まれてしまう」云々・・     

西脇海岸    花崗岩が浸食されてできた入り江に、花崗岩起源の砂が堆積した白く美しい
          砂浜海岸です。別名「寝覚の佳境」とも言われています。

城原海岸    花崗岩や石英斑岩、石英脈に由来する多くの真っ白な石英塊を観察できる岩石
          海岸です。

菜種島     菜種五島は、城原海岸の沖合にある島々で、最大ものを菜種島といいます。
          五島すべてが黒雲母花崗岩で、海食洞も存在しています。菜種を積んだ船が
          難破して打ち上げられて以来 毎年春には黄金(菜種の花)の波を漂わせて
          います。

鴨ヶ磯     岩石海岸の磯砂で、周囲はすべて黒雲母花崗岩です。小島や海食崖の海面位
         置に発達した無数の波食窪、海食洞門のひとつに島崎藤村がこの海辺の洞門
          で酒を酌み交わしたらさぞ美味しいだろう」と称賛し、そののちこの洞門を「酒宴
         洞」と呼び、藤村ゆかりの洞門として今もなお語り伝えられているとか?。

太郎兵衛島   網代の漁師(太郎兵衛)が遭難して流れついたと言い伝えられています。

千貫松島    黒雲母花崗岩の離れ岩で海食洞門の小島。この島の名前は鳥取城の二代目藩
          主池田綱清公が島巡りをした時、この島の松が目にとまり「この松をわが庭に植
          えた者に銀千貫を与える」と言ったことに由来する。


ジオパークとは 地質学的に重要で貴重な地層、化石、岩石、地形火山、断層、温泉などの地質遺産を
          複数含む一種の自然公園です。

 山陰ジオパークの特徴は、まさに「地形・地質の博物館」であることです。約2500万年前にさかのぼる日本海形成に関わる多様な火成岩類や地層、日本海の海面変動や地殻変動によって形成されたリアス式海岸や砂丘をはじめとする多彩な海岸地形など、貴重な地形・地質遺産を多く確認することができます。また、このように多彩な自然を背景にした人々の文化・歴史との関係を学ぶこともできます。  
                                 
追伸 平成22年10月4日 世界ジオパークに認定されました。

浦富小唄 (澤田廉三)

2010-04-02 14:38:10 | Weblog
 岩美町出身の外交官澤田廉三先生の波乱に富んだ生涯を描いた資料集 『澤田廉三と美喜の時代』 が発刊されました。 これを記念し、三月二十日(土曜日)中央公民館講堂で講演会が開催されました。
 資料集をもとに大正・昭和時代の外交政策や国政への思いがつづられた貴重な書簡を県立公文書館清水専門員がパワーポイントで説明。 また、浦富小唄保存会の皆様による「浦富小唄」を披露。 
 廉三先生が作詞・作曲・振り付けを手がけられた浦富小唄は まさに浦富海岸をこよなく愛し,,その魅力を世界に発信された廉三先生の思いが凝縮された作品。半世紀を越え伝承された歌と踊りに会場のみなさん釘付けでした。
                                           広報 いわみ 平成二十二年四月号 より

画像はフォトアルバム 岩美の偉人澤田廉三・屋台囃し保存会&浦富小唄保存会    ちくまホームより転載
   
                               

 澤田廉三の手紙         
歌つくり  昭和十二年(1937) 四十九歳
 昭和十二年私は、日本総領事としてニューヨークに駐在した。その頃澤田虎蔵氏から、漸次内外に認識宣伝せられ始めた浦富の宣伝歌を作ってくれないかとの依嘱があった。
 ある日の午後の半日、私は事務所に居残って、かねてから想いを練っていた浦富宣伝小唄に筆を加えていると、ちょうどその時斉藤大使がワシントンからニューヨークに遊びに来たといって、ひょっこり領事館に現れた。「暑いのに何を勉強しとるかい」と斉藤君がいう。「なに、郷里の宣伝歌を頼まれてネ、ちょうど出来上がったところだ。まぁ見てくれたまえ」といって大使に見せたのが、つぎのようなものであった。

 海岸四季 
 浦で名所は荒砂様よ 松のみどりに風薫る 
 富める浦里艪の音高く 出船入り船にぎわしや 
 海にゃ白帆の三ツ四ツ二ツ 丘にゃ稲穂が波をうつ 
 岸にくだけてまたよせ返す 波にたわむる磯千鳥

 苦心をした点は各節の頭文字を拾うと、それが浦富海岸となっていることである。こんなことにとらわれたため、唄それ自体としてはどうかと思われるところが多い。たとえば「富める浦里」などは恥ずかしいかぎりである。 これを一読した斉藤君は「とても面白いじゃないか、一つ英訳してやろうか」といって無造作に万年筆を走らせていたが、ものの三十分もたたぬうちに訳文が出来てしまった。

We point with pride The Arasuna Shrine. Where sweetly the breeze Through the green pines. At the fishing village Oar-creaks rise high. As boats aplenty Cone and go nigh. On water are scattered Dots o”sails white. On land the waves Of rice-ears are in sight. Sea-plovers are at play With surging brine. That dashes “gainst The crags on the shore line.
 
 この唄にマッチする海岸四季の風景の写真を四枚の絵葉書とし、これに日英両文をならべた唄の一枚を添えて一揃いとし、いかほどの宣伝価値があったかは疑わしいがともかく昨歌 澤田ニューヨーク総領事、英訳 斉藤駐米大使、発行 澤田虎蔵と銘打って、浦富土産の絵葉書が売り出されたのは、それから間もないときのことであった。
                                                    澤田廉三著 随感随筆 より

 海岸四季 その2
 春は花咲く菜種の島に 蝶も舞来るうらゝかさ
 夏は烏賊釣りいさり火さやか 天の川原に流れ星
 秋の浜辺に音頭がはずむ 月は照るてる夜はふくる
 冬の浦わに鴎がうかぶ 里にゃ戸毎に藁砧


浦富小唄について      浦富小唄保存会代表 城戸千鶴子    平成10年5月発行 公報いわみ より
『浦富小唄』は、元国連大使、沢田廉三氏が作詞、作曲いたしました。生まれ故郷浦富をこよなく愛し、わが愛人、わが恋人と言う言葉を用いておられます、その愛郷の思いを唄にたくし、浦、富、海、岸、春、夏、秋、冬と浦富海岸の四季折々の美しさを表現し、その唄に踊を振り付け完成したものです。その後、地元浦富の人々によって踊り広められたものの、その活動は一時途絶えてしまいました。5~6年前、かっての保存会の方々の指導により再び保存会を結成いたしました。    ちくまホームより転載


二つの団体の夢が現実に 平成10年10月10日発行 渚交流新聞より
 浦富小唄保存会・屋台囃子保存会。両団体とも平成9年7月に発足した「岩美町じげおこし団体連絡協議会」に加入。平成10年5月、岩美町立渚交流館のこけら落としをきっかけに、浦富小唄保存会の踊りに屋台囃し保存会の演奏、唄も加わり、お互いの会が連携をとりながら、さまざまなイベントに参加をして、浦富の美しさをあらためて多くの人々に知って戴こうと努めています。    ちくまホームより転載 


澤田廉三

2008-12-07 15:47:49 | Weblog
 岩美町中央公民館において 鳥取公文書館巡回展 「澤田廉三と美喜の時代 」 12月21日まで開催しています。 浦富出身の初代国連大使で 「 愛国は愛郷より 」 を処世訓のひとつとしてきたとして 「 私の今日あるは一に浦富の賜物である 」 と述べ 終生ふるさと浦富を愛した。       (画像は上記フォトアルバム岩美の偉人澤田廉三)

 岩美中学の裏山に仙英禅師 (浦富生まれ)の顕彰碑「祖国愛」 田後 鴨ヶ磯に敵国ロシア軍の遺体漂着碑「人類愛」 町浦富 通幻禅師誕生の地に「母子愛」 等々「三愛碑」 の建立。
 その一方 浦富小唄 を作り。 書を書く際には雅号を桐山城から取って梧山 ( ござん )。俳句を詠む際には 沙鴎 ( さおう ) という俳号を使用して 町内に多くの扁額や書軸を残されています。

     慎みの 絆は解けず 河鹿鳴く
     平凡ほど 有難きはなし 年の暮れ   沙鴎

     1970年12月08日没 享年八十五歳


 日本海新聞のコラム 『 散歩道 』 (14日付け) に鳥取敬愛高校 教頭 小山富見男先生の 「澤田廉三・美喜夫婦と地域の人々展を見て」 という寄稿文を読みました。

 -前略- 初めて見る写真や資料も多い中で、目を引いたのが「ふるさと」と題した廉三の岩美への思いを詠んだ一文だった。 「 わが庭に山と池あり、山は一帯の白砂の丘、池は万波蒼々(そうそう)の海なり。・・・ 海は遠く北に展(ひら)けてその果てを知らず。 昼は白帆随所に浮かび、夜は水平線のあたり漁火点々たり。・・・ 謝すべきかなわが庭園、賛(たた)うべきかな、わが山と池。・・・ 」 
 明治四十年、廉三、十八歳、一高一年生の時に岩美に帰省した時の日記の一節である。 晩年に揮毫(きごう)を頼まれた時、廉三は好んでこの一節をしたためたという。

 古来、山河の秀でたる地は偉人が出るといわれているが岩美町もその例ににもれない。 廉三ほど岩美の自然をこよなく愛した人物はいない。 そして、夫人の美喜も新婚時代に岩美を訪れ、熊井浜に澤田家の別荘を建て、戦時中は、ここで疎開生活もした。 戦後はホームの子供達と夏の一ヶ月を過ごした。東京生まれの美喜は、豊かな自然に恵まれた岩美に故郷を感じていたのだろう。 また、ホームの出身者たちも岩美を懐かしい故郷だと思っている。 廉三が「山」と表した白砂の丘に「海」を眺めながら廉三と美喜は仲良く眠っている。

 かって壊れかかった別荘を地元有志が修理し、保存に努めていると聞く。それに呼応して岩美中学校の修学旅行はサンダース・ホームを訪問し、澤田廉三、美喜夫妻を通して、人権学習・平和学習・郷土学習をしていると聞く。今回の展示も地元有志の人たちの手作りだという。 -後略-

妻の美喜はエリザベスサンダースホーム ( 戦後の孤児救済の施設 ) に終生全力を注ぎ、1980年5月12日、旅行先のスペインで亡くなりました。 ふたりは浦富の海の見える小高い墓地に共に眠っています。

 昨日、中央公民館で敬愛高校の生徒達の「 澤田美喜と子供達の記録 」と題して研究発表があった。 戦後アメリカの兵士と日本人女性の間に生まれた混血児を救おうと 「 エリザベスサンダースホーム 」 を設立。 夫の故郷、くまや(熊井浜)にある澤田家の別荘(鴎鳴荘)へ夏の臨海学校として子供達と来ていました。

 澤田廉三の外交官時代、妻の美喜は廉三の赴任先へ同行し イギリスの孤児院 ドクター・バナードス・ホーム に大きな影響を受け、戦後 神奈川県大磯の 岩崎家別荘を買い取り、昭和二十三年エリザベスサンダースホームを設立しました。ホームの名称は日本に長く住んだイギリス女性エリザベスサンダースの遺産をホーム設立の基金としたことに由来します。 
                                          ちくまホームⅡより
                                          写真は パンフレットより

画家としての橋浦泰雄

2008-08-09 20:18:43 | Weblog
 
 幼い頃から絵が好きで、独学で描いていましたが、大正十一年(1922)34才の時 初めて個展を開催する。それを知った有島は、その個展の中で一番高価な絵と好きな絵を買い求めるよう春月?に託します。 その後個展は、北海道・新潟・長野・和歌山・長崎等で続けられました。 
残念なことに橋浦泰雄の絵は、関東大震災、鳥取震災・鳥取大火で大半の絵は残っていません。

 晩年?の作品のひとつを所持している方は、『この絵には「花は美しいが より清く 美しい人生を召しませ」 という賛が書いてあります。橋浦さんの人となりがまったく純粋であり、ごまかしやハッタリがなく、私の家では毎年正月にこの絵を掛けて「より清く 美しい人生」とは何であろうかと考えています』。と語っておられます。そう語らせたその作品をいちど観てみたいです。



参考
北海道 木田金次郎美術館 展覧会 (イベント) 案内より 抜粋

 今回は大正末期から木田と交流を重ねた日本画家の橋浦泰雄(1888-1979)との交流を紹介いたします。
 鳥取出身の橋浦は、若き日には作家を目指していましたが、自ら「画工」と称して日本画を描き、兄が住んでいた札幌をたびたび訪れ、日本画の個展も開催するなど、北海道との関わりも深い人物です。また、有島武郎とも交流があり、有島の『惜しみなく愛は奪う』に重要な示唆を与えた人物として同書に名前が記されています。

 様々な顔を持つ橋浦ですが、特筆されるのは民俗学者としての姿でしょう。そのきっかけは、大正末期に橋浦が岩内を訪れた時、木田の漁師時代の見聞から、下北半島の尻屋村に「原始共産制」が残っているという話に、橋浦が関心を持ったことによります。
 この話をきっかけに橋浦は柳田国男の門を叩き、民俗学者として全国各地の調査を重ねます。今回の展覧会では、橋浦が旅先から兄弟などに宛てた「絵たより」を中心に、有島武郎関連資料を交えながら、岩内をはじめとする大正末期の北海道内外の風景をご覧いただくとともに、橋浦の旅の軌跡と、貴重な大正期の「絵たより」を軸に、画家・木田金次郎、民俗学者・橋浦泰雄の旅立ちを、そして今日の私たちが出会いと人生に思いを馳せる機会となれば幸いです。

画像フォトアルバム


◎ 民俗学者としての橋浦泰雄 ◎

 橋浦泰雄、明治21年、岩本に生まれ、昭和54年、91歳で死去 その半年前、鳥取民俗学会主催の講演会で「民俗学の原点」と題して次のように語った。

 ○ 民俗学の意味するものに二通りある、民俗学とは、一般庶民の以前からのしきたり、ならわしを研究することをいう。一方の「民族学」はあたかも血で結び合ったような集団の生活内容の研究をいい、中に入っていけば双方混交し合う点も少なくない

 ○ 民俗学も過去を遡行することになるが、歴史学との本質的な違いは、歴史が天皇・大名という上から下への流れや影響を追うのに対して、民俗学は人民の全生活を尊重していること。研究方法として過去の事実へ遡行し、その再現を重視している

 ○ 自分の身辺、庶民の雑事の研究に何の価値があるのか‥‥。 それは例えば、一人のおばあさんが仏様や氏神様をどう思い祈っているか、それをまず引き出すことに通じる。民俗学とは単にもの知りになることではない。お互いの意思が心をこめて引き出しあうこと、それは互いを知り合うことであり、それによって平和な社会の輪を大きくすることができる

 ○ イネをなぜコメというのか。誰も同じような疑問を持つものだ。私も昔、そのことに疑問を持って、旅行するときは必ずポケットに一握りの米を持ち東北から九州まで歩いた。そして古老にコメを見せては「この村ではこれを何と言いますか」「コメ」と答えると「そのほかの呼名はないか、昔の人もコメと言いましたか」 同じ質問を繰り返し繰り返し尋ね、一人の古老が「コメです。しかし昔の人はイネノコとも呼んだ記憶がある」と答えた

「昔はムギ・アワと同じような呼び方でイネだったでしょうが、イネの実は食料として最も美味なことから愛されてコメになったのでしょう。コは実の意味で、メが愛称ではないかと思います。飼いこが、カイコになるのも、衣類の最高がキヌとなるのと同じ過程を経た語だと思います。」 さらに「この考えが最近でも認められて定説となってきました。」


 民俗学との出会いは 「大正年間に僕はクロポトキンの「相互扶助論」を読んで感銘を受けたのだが、この中に世界の相互扶助、原始共産社会の事例があった。僕は大正十三年、原始共産村があることを聞いて、現地調査をしました。民俗学者の柳田国男氏に話したところ、それは面白いということで克明に調査しました」

 柳田国男さんとの巡り合いは 「僕は北大を出た弟の季雄の関係で作家の有島武郎さんと親しくなり、有島さんの紹介で柳田さんと相知るようになったのです」

「一生を学問のために歩み続けても、学問進歩のために自分の足跡が民俗学の向上に役立っていることは幸せです」


                                  「民俗学者としての橋浦氏」より抜粋

ちくまホームⅡ 橋浦泰雄
                   写真は大岩交流センター所蔵の絵です

橋浦泰雄

2008-07-09 10:12:19 | Weblog
 
 橋浦泰雄は、明治二十一(1888)年十一月三十日、鳥取県岩井郡大岩村岩本(現在の岩美町岩本)に十人兄弟の六番目として生まれました。社会運動家、日本画家としても知られています。
 橋浦は明治四十四年、岩美郡大茅村楠城(現在の鳥取市国府町)出身の野村千茅(後の野村愛正)から鳥取の文芸サークル・白日社に誘われ、吉村撫骨(秀治)、井上星蔭(義道、後の白井喬二)らと知り合います。

 翌年、白日社は水脈文芸会と改称し、文芸誌『水脈(みお)』を発行。大正三(1904)年頃に廃刊となりますが『水脈』同人のうち、野村愛正、白井喬二は後に中央の文壇で活躍、吉村撫骨は『我等』を創刊するなどして鳥取で文化活動を続けました。『水脈』は鳥取の近代文学を確立した存在であったといえます。

 橋浦は上京後も『水脈』同人と書簡のやりとりを続けましたが、その他にも涌島義博、尾崎翠、など多くの鳥取県出身の文学者と交流しました。また、東京では小説家の有島武郎と知り合い、大正十二年四月(有島死去の約一ヶ月前)、ともに米子・松江・鳥取で講演会を行っています。有島がこの講演旅行の際に詠んだ歌は、現在鳥取砂丘の歌碑となっています。

 一方、民俗学者としては、日本民族学の創始者・柳田国男に師事し、昭和十三(1938)年より民間伝承の会(日本民族学会の前身)発行雑誌『民間伝承』の編集を担当しました。また、昭和十年に開催された日本民族学講習会の運営に携わり、鳥取から蓮佛重壽の参加を要請しました。蓮佛は、講習会参加をきっかけに、鳥取において雑誌『因伯民談』を発行し、講演会を開くなど民俗学の興隆につとめました。

 橋浦泰雄は画家・民俗学者・社会主義運動家であり、また鳥取における文壇形成の先駆者・広辞苑第一版時の執筆者でもあった ~略~ 自らのめざす道を迷うことなくひたすらに歩んできた橋浦泰雄のバックボーンの強さは、風雪に耐え抜いた九十年の人生でもわかるにちがいない。 数々のエピソードに包まれたその生涯は今や伝説化しつつあるものさえあるが、その広くて深い業績はわが国の文化史のなかでもっともっと評価されるべきであろう。
          五塵録 解説 橋浦泰雄その生涯と業績 より‥‥ 竹内道夫  

  橋浦泰雄略歴 
 明治二十一年、岩本に十人兄弟の六番目として生まれる。十六歳で「平民新聞」に接し、幸徳秋水訳の「共産党宣言」に共鳴、二十一歳の時上京し幸徳と会う。「回覧」を創刊。二十三歳頃より郷土の新聞に短歌・新体詩などを発表、同人誌「水脈」を発刊。 二十七歳頃より絵を始める。
 大正十四年、下北半島を訪れ、原始共産等制の遺制に驚き、柳田国男を訪ねる。その後、民俗学の論文を続々と発表。 昭和二十五年、日本民俗学会で柳田国男・折口信夫とともに名誉会員に推される。 昭和五十四年没。享年九十一歳。 

写真は 左から橋浦泰雄 尾崎翠 秋田雨雀 (昭和五年)

           
          図書館出会いの広場 (鳥取県立図書館学芸員、渡邉仁美) より抜粋

画像 フォトアルバム

トレック in 桐山城!

2008-04-18 14:08:15 | Weblog

                     ~ 桐山城の春を満喫しませんかぁ ~ 

                  里 山 の 春 を 楽 し む ト レ ッ ク in 桐 山 城 ! 

                   4月29日(昭和の日) 【春の動植物観察会】 


この里山周辺には、歴史的に貴重な鹽治周防守(えんやすおうのかみ)が築城したとされる桐山城。 鳥取池田藩の家臣の 『鵜殿家墓地』 また、浦富漁業発展の要となった 『いわし山番小屋』 そして、里山の豊かな四季折々の自然と桐山頂上では、東は但馬地方、西は大山、北西は天気が良ければ遠く隠岐ノ島も見渡せます。
眼下には浜浦富~岩美駅前~本庄~大谷~鳥取砂丘~網代~田後と、遠く周辺の山々の展望の素晴らしさ。 是非、皆様方に春の里山動植物観察会と春の味覚会を満喫して頂きたいと思います。



                ―スケジュール― 

                  9:00 浦富海岸 荒砂神社前に集合 
                  9:30 いわし山登山口→桐山城山頂 
                 10:30 桐山城山頂で休憩 
                 11:00 桐山城山頂→奥市登山口へ下山 
                 12:00 奥市登山口広場にて里山春の味覚会 
                 14:00 解散 

 ◎ お願い ◎
 
下山後の里山春の味覚会に参加される方は一人/1000円(山菜弁当、保険代込み)でお願いします。 
また、その他の参加者は500円(保険代込み)でお願いします。
参加ご希望の方は4月25日までに下記の岩美町観光協会まで、氏名参加人数、山菜弁当希望の有無をご連絡願います。
尚、運営上の都合により先着50名で締め切らせて頂きます。 
山歩きの出来る服装で来てください。(お茶、おにぎり持参) 
持参できれば良い物(方位磁石、双眼鏡、望遠鏡、等)
雨天決行致します。(雨具等忘れないように!)
常識的マナー モラルは守ってください。 
駐車場は小栗浜駐車場をご利用ください。 


主催  いわみガイドクラブ “I・G・C“
    岩美観光協会(0857-72-3481)
後援  MiDの会 ・山陰海岸学習館

問い合わせ先  岩美観光協会(0857-72-3481)



桐山城の散策道とガイド  (画像はフォトチャンネル浦富海岸ガイド)      Midの会 代表 油浅郁夫

平成13年10月8日体育の日、「いわし山」から尾根伝いに桐山城への道は約二百五十名の人々が連なった。まさに桐山城築城以来の人数が登ったのではないかと思われた。地元の老人から、抱っこされた子供までいる。晴天の空には尾根に沿ってホコリが舞い立っていた。「いわし山」番小屋や山頂で予定していた「自然・歴史解説」は、次から次ぎと登ってくる人で全く出来なかった。

鳥取県の東北部、兵庫県と接する岩美町の浦富海岸は、山陰随一の海水浴場である。子供の頃の遊び場は海と砂浜であった。『向島』(むこうじま)まで100メートル、青々として深く、島まで泳いで渡る事は大いに自慢出来た。現在浜で遊ぶ子供達は殆どいない。年々観光客も減っている。地元の将来を担う子供達に、せめて浜で遊び、恵まれた環境の中で育ったのだと何時か気付いてほしいと「マイドの会」が発足した。『Mukojima is Dream』向島は我々の夢だ。頭文字のMiDはミッド。向島は浦富海岸の中央。我々の年は中年にも通じる。よって『M I Dの会』「マイドの会」と名付け20名余りが参加した。

 平成8年の春、「マイドの会」は浦富海水浴場の海の島「向島」と陸の「宮島」に二本のワイヤを張り、100匹のコイノボリを渡した。この時浦富港に突き出た山を「いわし山」と呼び、番小屋の跡が今も残っているとの話が出た。早速皆で登って見た。眼下には日本海が広がり、東は岩美駅前田圃、西は城原(しらわら)沖の「黒島」も見える。なるほどイワシ網漁の合図に使った場所であった。しかし山は荒れていた。毎年30本の山桜を植えよう。3年続ければ100本、花見の出来る場所にしよう。

 浦富には花見の出来る場所がなかったし、潮風山桜は強い。笹原を切り開き倒木を始末しながら進めた。五年間で250本以上の桜を植えた。古い桜も100本有った。以前に植えたとのこと。番小屋も木の電柱を担ぎ上げて再建した。作業していてタヌキや小動物の糞、林の中には小鳥の巣も有った。ノウサギも出てきた。毎月1日、15日の神棚や仏壇の花(マツ・センダラ)を取りに入る山でもある。何時しか山頂の桐山城へと皆の気持ちが向かっていた。

 平成12年、鳥取県景観自然課の「鳥取県身近な生き物が棲む ふるさとづくり」事業に打診、県の下見には地元老人会会長の澤田秀雄さんにも立ち会って頂いた。桐山城の歴史と山の利用、奥市川(おくいちがわ)のホタル等の昆虫や小動物の話。結果、漁村の里山として散策道整備を行うことになった。10月には浜浦富自治会にも協力要請をし理事会で事業内容と住民への周知をお願いした。特に自治会長の仲野寛さんには、関係地権者全員の承諾を取り付けて頂いた。作業は10月から尾根道の伐採に掛かった。

翌年2月、まだ雪の残る中を自治会や老人会の人達30名で山頂まで登った。木製テーブル設置と立木の伐採だ。途中コナラやヤマモミジなども植えた。何十年ぶりに登った人が殆どで、鳥を掛けに上がったことなど昔話と山頂から見る自分達の村の様子に話が盛り上がった。登り口の湿地の木道、道標、解説の案内板など資材を担ぎ上げたのは大変だった。特に直径67センチ長さ8メートルの丸太(階段用の松材)を70度もある傾斜の岩場で40メートルも上げる作業は命懸けだった。

ようやく3月に完成。麓の湿地にもハナショウブなどが咲いた。10月には完成記念を兼ねて皆で登ろうとてうことになった。「桐山城で山中鹿之助を探せ」のタイトルで実施した。地元の人達が多く関わったこともあり、250名の大行列となった。毎年体育の日に実施とし、翌年も150名の参加者が有った。鳥取市や八頭郡、県外からも有った。この間、湿地の植物はカキツバタ・オモダカ・ヘラオモダカ・ミズアオイ・セリ・アヤメ・カラー・ショウブ・クサソテツ。広場にはアジサイ・コスモス・カンナ・クルミなど老人会や有志人達が自主的に植えて管理している。特に西村勤さんには年間お世話になっている。「マイドの会」では畑にサツマイモ・ナスなど育て秋のイベントに間に合わせる。山頂までの散策道の草刈りは年間通してやり、町外の登山者でも何時でも山に入れるようにしている。山の手入れによって年毎にササユリが殖えていくのが判る。植えた木が成長いていく。周りの木の名前は、草の名前は、鳴いている鳥は何だろう。キツツキが木を叩いてる。なんというキツツキだろう、いろいろ興味が湧く。

 桐山城の歴史は中世以降の浦富の歴史である。桐山城は木山・紀伊が山、あるいは磯部の城とも言った。磯部は浦富の古名である。標高203メートル海辺に立地するが、地理的には付近の要塞である。丘陵の頂に南北150メートルに細長く城郭が築かれているので、遠望すれば屋根ような形に見える。山中鹿之助が一時立て籠もった山城だ。財宝伝説もある。

 代々の城主は何れも他所の土地から来た人だが、ここに生まれ育った我々の祖先は桐山城に対してどの様に思っていただろうか。桐山城整備の目的は三っつある。一点目は、城の歴史を通じて浦富の歴史を知って欲しい。特に結婚などで浦富に住み、子供を育てて行く若い女性には是非一度は登ってもらいたい。自分の生活している町を俯瞰し、子供達を育ててもらいたい。
                                    
 現在、女性の半数近くは登って頂いたと思っている。Ⅱ点目は里山の有効活用だ。健康維持・体力維持に登るのもよい。普段、アスファルトの道を歩くだけでなく、落ち葉の上を歩む心地よさを感じて欲しい。しかし何と言っても山には季節感がある。海にも空にも季節が有る。平地での生活では気が付かない感覚が目覚めて来る。整備後、年間を通して毎日健康のために山頂に登る人がいる。町内や町外の人でも2~5人のグループ或いは団体で山に入るのをよく見かける。なかには「山頂からの夕日が素晴らしい」と言って夏の夕方、毎日登る女性もいる。三点目は、責任感だ。地権者の人達の快諾と地元の人達の協力、そして県や町からの補助金があったから出来たのだ。責任を持って作業を続けていかなければならない。

 大きな目標の少しは達成したかなと思っている。桐山城に登って思うことは、ここは城山だ。むやみに整備といって手を掛けてはいけない。なるべく傷めないように整備したつもりだ。城の遺構や瓦・石垣などの調査を進めなければならない。城の置かれた環境と歴史をしっかりと研究し、伝えていきたい。
                                    
 守るに易く攻めるに難い城として、築城時いろんな所に手が加えられている。初めて登った人にはきつい山道だが、あくまで城山だ。山全体が城なのだ。散策道とは言いながら城を意識してもらう為イベントは「桐山登山」の名称だ。田後(たじり)と浦富との山中の古い道の整備。田後から「ホーロク坂」を通って岩本に下る鳥取への旧道もある。
浦富の「御陣屋」から桐山山頂への本来の道も整備したい。植物の名前やその活用、小鳥や小動物のこともある。そして何よりも大きな目標は国土地理院の地図に桐山城標高203メートルの記載復旧を求めたい。桐山城は鳥取県の「二百三高地」なのだ。

 現在、登り口は「イワシ山」と「奥市広場」の二つある。道は途中で合流している。どちらから登っても山頂まで約40分。慣れれば25分で登れる。お薦めコースは「イワシ山」からの入山。桜の並木を通ってイワシ山番小屋で一休み。そして海を眺めながら山頂までゆっくり一時間かけて登る。帰りは同じ道をゆっくり下り、分岐点の道標から奥市広場を目指して下山するコースだ。無理に山頂まででなくても、体調とか時間に合わせて楽しんで頂けたらよい。

 今年(平成18年)は11月26日に第六回のイベントを実施。初冬の散策道を山頂まで歩きながら植物や城の歴史を解説した。下山して広場でサツマイモを堀り、鹿之助焼き芋バーベキュウを行った。来年の春は里山の有効利用として山菜解説を計画している。年中楽しめる山だ。皆さんも機会があれば是非登って頂きたい。
 
ちくまホームより転載する。



但馬往来 道しるべ

2008-04-04 16:29:08 | Weblog
ちくまホームより転載しました。


                          国道178号線拡幅記念

                        但 馬 往 来 史 跡 ウォーキング
                                               町浦富自治会だより3月号より

この度、岩美町浦富地内の国道178号が拡幅されるのを記念して、歴史的ロマンあふれる旧山陰道 但馬往来沿線と城下町浦富の史跡 名所などを地元のガイドさんのお話を聞きながら散策してみませんか、新しい発見があること間違いなしですよ。

日時    平成20年3月20日 (木・春分の日) 午前10時~12時30分
集合場所  岩美町浦富公民館 岩美町浦富1903-1
主催     但馬往来 実行委員会(構成 町浦富自治会 殿町町内会
        岩美ガイドクラブ 岩美町 鳥取県東部総合事務所)


開催内容  〇但馬往来道しるべのお披露目会
      今から百年位前に浦富の「かまや旅館」前交差点に建てられていた但馬
      地方と鳥取を結ぶ往来(山陰道)の道しるべを復元しましたのでお披露
      目します
      〇史跡巡り
      城下町浦富の数ある史跡 名所の中でも陣屋跡などベストスポットをチョ
      イスし、地元のベテランガイドさんにお話を聞きながら散歩します。
      〇岩美町の新鮮な食材を使ったお昼ご飯
      おいしい岩美町の旬の食材がいっぱいのお昼ご飯を、歴史ロマンを聞き
      ながら「かまや旅館」で一緒に食べませんか。
        (自己負担 一人500円。事前に申し込みが必要です)

問い合わせ先 但馬往来実行委員会
       実行委員長 町浦富自治会長 赤坂清 (0857-72-0581)

画像はフォトチャンネル        


① 但馬往来道しるべの云われ                                 
    この道しるべは、明治中期ごろに、当時T字路であった今の「かまや旅館」
    あたりに建てられていたもので、正面に「左 鳥取」 左側に「右 但馬 左
    へ一丁 権現山」と刻まれている。                                                      
    設置時期については吉祥院(権現山)が明治12年(1879年)に、牧谷の
    金峰山から現在の浦富地内に移転されていることから、これ以降に建てら
    れたものと推測される。

    この道しるべは、高さ2メートル、幅は約40センチの柱状の自然石で造ら
    れており、岩美町に遺る道しるべとしては最大級のものである。

    もともと、但馬往来は、但馬地方と鳥取地方を結ぶ街道で、、蒲生峠を越え
    るルートと、海岸線の七坂八峠を通る二つのルートかあった。

    「因幡行日記(天保2年1831年)」には、七坂八峠を通り、浦富に宿泊し
    た旅人の記録も残っている。


     浦富は、江戸時代、鳥取藩の執政職(家老)を勤めた鵜殿氏の管地となっ
    てから、近郷の中心として発展し、商家・宿屋も増えて但馬から鳥取城下ま
    での旅の中継地になっていた。旅人は浦富に泊まり旅の疲れを取って、翌
    朝、駟馳山峠を越えて砂丘を歩き鳥取に向かったのである。

    江戸時代中期以降になると旅人の往来が増し、各地に道しるべが造られる
    ようになった。この道しるべは、交通事故により何度も破損し移転もしたが、
    町民の手で守られ現在に至っている。 

   熊野神社
    但馬往来の浦富の入り口に鎮座する。 江戸時代に入って鵜殿氏が浦富を
    管冶するようになってから勧請したものである。 それ以前は若一権現といっ
    た。 鵜殿氏の崇敬厚く、享保年間には、神幸祭礼を創設した。


   御陣屋跡
    現在、カスミ株式会社となっている土地である。ここに鵜殿氏が浦富を治め
    る役所があった。 この外、御武具蔵・御米蔵・鉄砲打ち場などがあり、自分
    手政治を行う五千石の鵜殿氏の政庁があったのである。 南の山には稲荷
    さん、西側の山には妙見さんが祀られていた。  山の麓に御陣屋の井戸が
    今に残ってわき水は尽きない。


   吉祥院
    浦富の権現山のことである。 明治の 「神仏分離令」により金峰山から泣く
    泣く山を降りた龍王寺が、ここに吉祥院として復活ものである。 権現とは仏
    が神に化身したものである。


   定善寺
    宗派は浄土宗、現在京都知恩院末、本尊 阿弥陀如来。 寺は最初広岡に
    あり、次に熊野神社の丘に移り、現在地が二度目の移転である。


②  井戸
    城下町の要所には、掘り抜き井戸が設けられており、生活用水として、また
    防火に備えた。


④  大師堂(木戸)
    浦富の入り口にあり、これを「一の木戸」といった。通行人を取り締まったも
    のであろう。木戸の右側には大師堂が今もある。


⑤⑧ 大名小路と仙龍寺  
    この名称が何時の頃出来たのか詳でないが、鳥取城下には家老小路とい
    うのがある。 細い道でここを北へ出れば海が見える。 南に小路をたどれ
    ば山の麓に本寺妙要寺末で仙龍寺という日蓮宗の寺がある。 領主 鵜殿
    大隅守の菩提寺である。


⑥  垣屋八幡宮
    定善寺入り口にある。鳥取藩祖 池田光政の頃、墓を移転し垣屋宗鑑の霊
    魂をここに祀った。元あった所は涼山の麓 「御陣屋」 である。


⑦  通幻禅師出生地
    町浦富を通る旧道筋にある。 ここは香林寺の旧跡でもあり、禅師出生の
    いわくを亥した土葬神を つげのさい という。丹波 永沢寺の記録に通幻寂
    霊は因幡国濃郡磯部(浦富)の人とある。


A かぎ形道路
    城下町の特徴であるかぎ形に構成された道のことである。 垣屋氏が領主
    であった時、上町、中町、下町の三町を中心に町が構成された。 4・5箇所
    のかぎ形道路は昔のまま残っている。 かぎ形の道は敵の浸入を防ぎ自ら
    を守る工夫から生まれており、御陣屋へと向かっている。


B お台場
    鵜殿氏によって文久三年(1863年)築造された。 外国船を迎え撃つため
    の砲が据え付けられ、民兵によって守備された。 二カ所あった。


C からつ山 または はなかじ(町指定史跡)
    安政二年(1855年)創始された浦富焼の窯跡のことである。当時、鳥取藩
    は殖産振興政策をはじめており、磁器窯をはじめて日用の雑器を焼かせた。


D 運河の開削
    垣屋氏の時代、浦富田圃を通る川より浜浦富に向けて運河が計画されてい
    た。 祖谷川と堀川との合流点から町浦富の中通りに沿って低くなった地形
    が浜浦富に向かって遺っているのが今でもわかる。 町道 女掘り線 として、
    その名を残しています


E 鵜殿家墓地
    奥市にある。約12碁。 鳥取藩執政職(家老となることができる着座家)と
    して江戸時代を終わった。

画像はhttp://blog.goo.ne.jp/photo/226509?fm=usch

                 ちくまホームより転載

    ちくまホームⅡより
    家の前の道、昔は但馬往来と呼ばれていて、昭和42~3年頃迄?はT字型の三叉路でした。   
    三叉路の右脇 あぶら屋 の前に「右 但馬 左 鳥取」の 道しるべ が建っていました。
    交通事故(その昔は荷馬車 ちょっと昔はトラック) なんやかやで傷だらけの人生?
    放浪している時?にバイパスが出来、十字の交差点となり国道178号線として整備されました。
    そして今、浦富地内の178号線は 道路拡張工事で大きく様変わり!
    拡張記念として 当時の 「 但馬往来 道しるべ 」 の復活です。
    20日に お披露目だそうです。
    でも 嬉しいやら! 懐かしいやら! 気恥ずかしいやら …!
                           

阪本四方太 シンポジューム

2007-11-03 19:54:37 | Weblog
 この度、このシンポジュームの為に、お孫さんと連絡をとっていたら大正5年の手帳が出て来ました。 12月9日でした、火事の後だったので、その手帳は残っていました。大正5年というのは非常に意義のあるもので、大正5年というのは、夏目漱石が亡くなった年なんです。 そのあと四方太も亡くなる、それが大正5年でした。

 四方太さんと漱石は、とても仲が良かったんですね、日記といわず書簡といわず全集といわず、今日は四方太と落語を聞きに行った。今日は芝居を見に行った。カニを持って来た。正岡子規の日記にもいっぱい四方太の事が出てきます。そのくらい四方太と漱石は仲がよかったんですね。大正5年の手帳が出てきた時には、読みたくて読みたくてしょうがなく、奥さんに電話して送って貰いました。 

 12月9日には何も書いてありませんが、次の日10日に漱石と書いてありました。すごい淡々と書いてあるのですけども、夏目漱石、昨日死去、新聞、大々的に報じる。悔やみ状を出す。香典五円、この五円というのは当時のお金でどのくらいになるのか、大正5年の5円、当時、明治43年?? 正岡子規の給料が40年の40円もらうのが夢でして。 

 いろんな物価を調べてみたのですけど、大正7年、小学校の教員が初任給12円から20円、公務員、当時の高等官ですけど月報70円ですね。東京大学の授業料は年に50円、大工さんの手間賃一日50銭、その当時の5円という金額です。けっこうな金額だったのではないでしょうか。それを奮発して、しかも当時四方太さんは、身体を悪くして退職しているんですね。その状態で??12月の末に着た香典返しが届いとりまして、12月31日、夏目より香典返し、たくさん来る。と書いてあります。漱石と四方太さんとの交流があったという四方太さん側の証拠です。この手帳がほしいほしいと言ったら、快く提供していただき鳥取図書館に置いてあります。

 それからですね、四方太さんがなぜ大谷で生まれたかといいますと、お父さんは阪本熊太郎といいまして、鳥取藩の士族でありまして、ほとんど鳥取に住んでいましたが、明治維新になって職がなくなってミトリ神社、大谷、ごめんなさい太田という所のミトリ神社、そこの神主になりまして、
 何で大谷に住んでいたのか不思議でしょうがなかったのですが、沢貞二さん、前田れいじさん、二人と知り合いになりまして、いろいろ教えてもらいました。沢貞二さんのおかげで生家が残っている事を知りました。
 沢貞二さんのおっしゃるには、太田のミトリ神社と大谷の八幡神社とをかねていたが、大谷に住んでいる方が海の幸が手に入るので、こっちの方が住みやすかったのではないでしょうかとおっしゃっておられました。そんなことで大谷に住まわれたのでないか。そこで明治6年、四方太さんが生まれたんですね。

 4才の時、西南戦争の時、鳥取城下に移り住んだと本人は書いています。で、その熊太郎、お父さんですが明治10年になぜ鳥取に移ったかというと、鳥取一中、今の西高ですな、西高というと当時は変則中学校ですね。一中の漢文の教師の職を得て鳥取城下に引っ越しをしたんですね。その頃の想い出が夢の如しですね。大谷で過ごした4年間の日々の事、それから鳥取城下に移ってから醇風小学校での想い出、明治10年頃の想い出が克明に書かれています。

 それはともかく、阪本熊太郎さんが西高の漢文の先生として永年勤続として表彰を受けられているのですが、その熊太郎さんとはいったいどんな人だったのか、写真が残っているんですね。四方太さんの写真もなかなか残っていないのですが?。
 実は熊太郎さんは夏目漱石の謡い先生をしていて? 東京に行きてから?まあ漢文の先生でしたから。漱石の日記や書簡を見ますと「先日、四方太のおとっつあんに謡いを教えてもらったので、そのお礼をおまえの方からしといてくれ」「おとっつあんから謡いの本を借りたので返してくれ」とか、漱石と非常に仲が良かったんですね?その熊太郎さんの肖像画が見つかったんですね。           

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西尾肇さん 講演

2007-10-31 10:40:14 | Weblog
大谷自治会長 挨拶
 今日は沢山の方にお集まり頂きましてありがとうございます。 大谷には、数々の名をはせた方々がおられますが、今日は大谷で生まれて小さい時にこの地を離れ、文芸界の中で一時期活躍された阪本四方太さんの~、西尾肇さんにお話していただきます。

西尾肇さん講演
 二十年前から、こちらの方におじゃましているのですが、~ 四方太さんの事をおじいさんおばあさんにお尋ねしても知らない人が多く、四方太さんの名前が浸透しても、四歳までしか大谷におらないから大谷生まれと言えないがな、って言われて寂しい思いをしました。

 それが今年、二つの生誕記念碑が、西小学校と日比谷橋と建てていただいて、とても嬉しく思っています。本当に二十年間 ~ 今年は、四方太さんの生誕90周年を迎えて ~ 四方太さんは明治六年に生まれて、大正六年に~ 五月十六日、私が四方太さんの研究を始めたのが二十年前、没後七十年~ 本当にまる二十年~ 今年こういうイベントを行ったが、認知度が低くて、寂しいなと思っていたのですが、こうして、みなさんに知っていただいて、生まれ故郷に生誕の碑が二本出来まして良かったなと思っています。

 このことは、東京と埼玉にお孫さんがおられるのですが、大変喜んでおられました。 亡くなられた44歳の時、亡くなる一年前に火事になって資料は残っていない。俳人としても写生文の作家としても、図書館員としても、これからという時に亡くなられた。?の図書館員の会議でも、大きな業績を残しているのに、四方太さんの研究をしようにも、資料がないのが残念です。

本文中 ? ~ はテープを起こせなかった箇所です。 全文出来上がったら載せなおします。

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四方太 講演会

2007-07-25 09:29:38 | Weblog
 23日、大岩交流センターで西尾肇さんの「大谷の生んだ文学者・阪本四方太」の講演会があった。
 四方太の句と夢の如しをベースにして、4歳まで生まれ育った大谷を中心に、虚子・子規・漱石との出逢い、交流のエピソード等々、地元の事なので自分達の知ったことになると、うなずく人も多くいた。 
参加者の中には、西尾肇さんの箸「紙魚」を持参している婦人もいた。

 参加者は35~6名、主催者側を含めて約40人ぐらい。人数ではないのだが、他の地区の方々に有線 口コミで伝えても やはり地区を中心とした興味のある人しか来ないのか? これからの参考にしたい

講演の内容は まとまり次第、載せます。 画像は フォトアルバム

講演会 案内

2007-07-05 14:46:21 | Weblog
写生文
 海は砂山を越えて後ろにある。絶えずどうどうと浪(なみ)の音が聞える。道といわず畠といわず砂ばかりで、駒下駄(こまげた)で歩いても音がせぬ。何年たってもげたの歯が減らぬ。家(いえ)を建てる時は、砂の上に水を五六荷もぶちまけると、砂はガッシリ締って巖(いわお)よりも硬くなる。其(その)上に土台石を据えて置けば善(い)いのだという。
 日本海は波が荒い。海は絶えず大波が打つものといふ事も、こんな子供の時から深く頭に染(しみ)込んで居る。緑色の水のうねりがだんだん膨らんで来るかと思ふと、波の腹が薄暗くなつて前に崩れつゝどさどさどさどさと打つて来る。どさツと打揚げた波は、むら消えの雪の如く斑(まだ)らに泡立つて一時平(たひら)かに漂ふ。暫く漂ふた後、急に思出したやうに寄せ来る波の底に引返す。引返した水は待構へて居る波と合して前よりも一倍激しく打揚げる。 水烟(みづけむり)が霧の如くに立つ。
 時としては返す勢(いきほひ)の烈しさに、威丈高(ゐだけだか)に寄せる波の勢を挫(くじ)いて、水面は却(かへつ)て意外に平(たひら)を保つ事もある。今日のやうな麗(うらゝ)かな軟風の日といへども此活動は瞬時も止まぬ。
 
 或時 例の通り祖父に負われて八幡様の石灯籠へ遊びに往った。八幡様の石灯籠といふのは村の本通りの道端にあるので、汚い百姓家の間に十坪ばかりの空地を控へて、大きな御影石の常夜燈が一対据えてある。宮はずっと離れて七八町も奥の方。即ち松の砂山を越えて彼方にある。
 自分はいつもの如く石灯籠の台石に立たされた。祖父はそのまま腰掛けて道行く村の誰彼と言葉を換わして居る。自分より年嵩の子供が五六人、其処に遊んで居つたが、自分が石灯籠に降立つたのを見て一斉(いっせい)に注目した~  ― 夢の如し 抜粋 ―

            坂 本 四 方 太  講 演 会 

     【演題】 正岡子規が愛した男
          ~大谷が生んだ文学者・坂本四方太~

     【日時】 平成19年7月23日(月)  午後7:30~

     【場所】 大岩交流センター和室

     【講師】 西尾肇さん(鳥取市史編纂室長)

         (画像は上記 フォトアルバム 岩美の偉人)



『内容の概略』
四方太さんの3つの側面
①俳人として「ホトトギス」の中核を担い、また明治31年に鳥取市に誕生した俳句グループ「卯の花会」の指導者としても明治期の郷土の文芸興隆に尽くした 
②写生文の確立者として、名作「夢の如し」を生んだ
③草創記の日本の図書館の発展に大きな役割をはたした というそれぞれの業績についてお話したいと思います。 

正岡子規や夏目漱石、高濱虚子ら、そうそうたる文化人との交流やエピソードを交えながら、四方太さんの人となりを楽しくお伝えできれば、と思います。
もちろん代表作である「夢の如し」についても、大谷との関連を中心に解説させていただきます。  西尾肇 



     主催 大岩公民館 
     共催 大岩連合自治会



坂本四方太 (1873~1917) 俳人。岩美町大谷に生まれる。
東京帝国大学卒業。東京帝国大学附属図書館の司書官として活躍するなど、草創期の日本の図書館の発展に貢献しました。


設立準備会

2007-06-18 09:20:31 | Weblog
昨日、設立準備会 Kさん Mさん Oさん Yさん Tさん (敬称略) 五名出席。

思い(在り方)と手法 (Yさんの原案を基に)

身近な岩美町をより良く知る 町民全体に広めたい
岩美町誌など各種出版物があるが、興味のある人だけが読んでいるのでは?
岩美町で、地区で誇れるものは何か、地区で興味のあるものは何か?
岩美町には、いろいろな功績のある人物が多数おられる。地区内の誇りとして、評価・認識を広めたい 
世界中でここにしかないものに気付き、地区内で同じ項目の講演会・探訪会を繰り返すことで、より正確に、より浸透されるのでは。 地域内でより長期にわたり語り継がれるのではないか

地区の人がより興味をもつためには、地区(地域)ごとの集まりが出来ないか?


期間・運営方法

当面3~5年間を区切りに開催したい
全体的な事業内容を煮詰めて、岩美町・教育委員会・中央公民館・地区公民館との共催の方向にならないか?
地区の人物を中心に、興味ある項目を選ぶ
年間3~5回の講演会開催が出来ないか?(地区公民館を主に利用)
講師は岩美町誌などの執筆者、町外人にも依頼
講師と参加者の質疑応答(参加者の発言)の時間を必ず設ける
当面は会員の会費で運営し、2年目以降、町の補助金など考える
会のメンバー(賛同者)を増やす
必要と余裕に応じて、探訪会や記念碑などの活動も行う
講演内容を冊子に纏める


しっかりした(確実な)会の設立のためには、急がなくても良い。もつと会話が必要