今年は何故か、「酔芙蓉」の花が、全く、咲かない。
漸く見つけたこの蕾も、翌日、落花していた・・・もう、植替えが必要という事か(鉢植えだから)。
またまた、天眼鏡片手に読んでいる「100分de名著・歎異抄」。
私の頭が、どういう構造になっているのか解明不可だが、一つの事が完了・完結(きっちり丁寧にするとは別物だけれど)しないと次の行動が出来ない、また、目の前に山積したものがあると猛烈に排除したくなる・・・というオカシナ癖がある(要するに、能力不足ということだろうな)。
ハングル語の月次テキスト(486円)も、一年分、まとめて購入すれば良いものの、そこが私の気持が許さない所で、日々の進捗状況を考えながら、毎月一冊づつ、ネットで購入している(飽きて放り投げるかも知れないし・・・)。
でも、心のどこかで、出版社に、少額なのに面倒を掛けているような気が、何となくしていて、何か他に購入するものはないかなと探してはいた。
そんな時、偶々、「100分de名著」という番組(アンコール放送)で「歎異抄」を見た。
勿論、「歎異抄」そのものにも興味を感じたけれど、「仏教は智慧と慈悲の獲得・実践を目指す宗教」「社会通念と同じ価値体系しか持たないのであれば宗教の存在意義はほとんどない」というに言葉が心に残った。
で、それを自ら実践(悪人正機説?・・・親鸞が最初に提示したのではないと言う説もあるようだ)したという「親鸞」にちょっと興味を持って、その手懸り、足元の一端の、そのまた一端に触れてみようか・・・と、一挙にして両得(親鸞と歎異抄)のお手軽学習に気持ちが動いた。
ハングル語テキスト発売日(18日だったか?)まで待って2冊購入の積もりだったが、突然起きた学習意欲が無くならない内にと、またも一冊(524円)だけ注文した次第である・・・少額ながら別の本も購入したという事で許して貰いたい。
「無信心」から「信心」に心変わりした訳ではないけれど、基本的に、仏教的習慣・思想の中で生きているのは間違いのない事だから、以前から、一度は真面目に学んでみたい気持ちもあった。
「鉄は熱いうちに打て(かな?)」という事で、興味が失せない内に、天眼鏡を手放せない読書ではあるが、ボチボチと始めている・・・面白いけれど、ま、多分、深入りはしないだろうな。
花が咲かない「酔芙蓉」ですが、今年は、紅葉(?)を楽しませてくれています。