今年、唯一、購入した花「ポーチュラカ(ハナスベリヒユ)」(拡大可能)
いや~、ホント、自堕落な夏を過ごしてしまった。
昔から、近隣の街で毎年恒例である「夏祭り」が終わると、秋がやって来る・・・と言われているが、今年も、祭りが終わったとたん、朝夕の気候が秋めいて来たように思うが・・・多分に思い込みもあるかな?
全く前向きになれない気分を、ひたすら「浮上効果維持」してくれたのは、日韓に関するアレコレニュースだった。
私は、そのニュースとコメントの溢れるネットに、図らずも虜になった。
私自身は、どこの国に関しても好き嫌いは持っていないつもりだが、ハングルを勉強している状況において、興味がある国・・・という事だろう。
但し、どちらにも肩入れしていないし、常に同等な目線でニュース等に接していると自負している。
何かにつけて「表現の自由」が話題になるけれど、この日韓の扱うニュースを見ていると、ある意味、これこそ「自由な表現」ではないか感じるのだ。
そう、互いに自分の思い込みだけで「公共(?)メディア」を使って罵り合う・・・罵倒の如くの言葉を使うことで、相手をとことん痛みつける・・・そこには相手を思いやる気配など微塵も無い。
これを「自由」と言わねば、何を持って「自由」と言うか・・・そんな気持になり、これらの発言(暴言もあり)を「正当化」してしまいそうになる始末で、昼夜(早朝、真夜中も)を問わず、TV(報道)とPC(ネット)と格闘している自分がいるのだった。
でも、ここ数日、真夏の気違いじみた暑さから、少しだけでも解放されると、私の、これらのニュースに関する集中度も落ちて来て、今、渦中から離れて思うのは、「表現の自由」を行使するには、自ずと「表現する事による配慮・気遣い」も伴うという事、これは切っても切れない「セットの行使」なのではないか・・・「配慮」の賭けた「自由」は単に「自分勝手」な暴力行為である・・・と。
日韓問題ニュースに限らず、何時の場合も当てはまる事だと信じている。
まぁ、真夏の宵の夢の如くで、「日韓問題」に振り回され(自分から勝手にのめり込んだのだが・・・)、それなりに考えさせられる事もあった「普通のオバサン」の率直な感想を持って、9月からの「心機一転」を図りたい私であるが、脳細胞が・・・モヤモヤ