我が屋敷は、周囲を山や藪に囲まれているので、夏はともかくも、冬の日照時間は非常に短い。
よって、庭に植えられた草木は、当然の姿として日差しを求めてひたすら上に伸びるし、花が咲くけれどその数は少ない。
それでも、それなりに季節季節を教えてくれている事に感謝(かな?)しているが、この小菊に関しては、ちょい不満があった。
と言うのも、日差しを求めてひたすら天に届くかの如く、ひょろひょろとした茎が伸びるのは良しとしても、ちょっとの雨、乃至、風でも倒れてしまうのが困る、つまり、しっかり支柱を立てないと、すこぶるみじめな姿になってしまうのである。
そこで、数年前から、挿し芽で増やした苗を、日当たりの良い畑の花壇に移し始めたところ、支柱を全くなくすことは出来ないが、かなりしっかりとした茎になったので、簡単に倒れることも少なくなり、小菊と雖も、かなり華やかに花を付けるようになった。
ところが・・・である、今年の夏の異常な暑さと雨量の少なさでカラカラとなった畑では、菊の株は成長を止めてしまったようて、今年の菊は背丈は低く、極めて貧相な(花が小さい)花付きとなってしまったのだ・・・ホント、人間の浅知恵は、とうてい大自然に叶わないと実感させられる。
本日のブログが、多分、11月中の最後のブログUPとなりそうだ。
最近、寄る年波でか、どうしても愚痴勝ちなブロブになってしまう事に、自分自身でさえ嫌気を感じてしまい、以前のように、気軽にUP出来なくなっている状況なのだが、本日は、どうしても11月中にブログUPして、自分自身の愚痴交じりの気持ちの「整理整頓」を試みようと思う。
昨年あたりから、私自身も含めて老境に入った友人らに振り回される出来事が多くなって、その対処方法を悩むようになっていた。
それぞれが歳を経て生ずる問題には、それなりに承知していたから、問題発生自体に戸惑う事は無かったけれど、それに対処出来る我が体力に限界を感じ始めたのだ。
たとえば、その問題が一つ一つ順番に発生したならば、何とかクリアして行けるのに、同時に、二つ、三つと重なると、気持ちはあっても体が動かない・・・つまり、気分的に焦りと怒りに支配されるようになるのだ。
常に怒りを抑えている自分が、相手に対して穏やかな気持ちを示せないから、ついつい、断定的な強い言葉を投げかけてしまう。
昨年暮れから体調不全で手術をした友人が、その甲斐なく今年2月に亡くなった・・・顔を見る度に同じ愚痴を言う友人に、私が最後に掛けた言葉に優しさはあったのだろうか・・・
それでも一段落した気持ちになった私は、最近、認知症の状況が顕著に見られるようになった50年来の友人を、本人は100%の承服はしていなかったけれど、老人施設への転居を促した(実質的手続きは親類がした)・・・その後、友人からの連絡は一切無し。
身体的にも気分的にも解放された私は、胃瘻で入院生活中の先輩友人を、一年半ぶりに見舞ったが、私の呼掛けには、当然ながら、何の反応も見られない。
但し、これらの件については、友人らが入居や入院した施設の内部事情も、多々、関連しているのだろうという認識はある。
ある日に、「高齢者となったら友達は作らないこと」とスレが立った記事を読んだ、なにやら仏陀の教えとか・・・まぁ、殆ど宗教の有難さ・有意義さを理解出来ないし、勉強もしない私には、その仏陀の教えの本質的なことは分からないが、「そうなの?」とちょい首を傾げた気持ちにもなったが・・・だが、よくよく今年になってからの我が身周辺の出来事を考え合わせると、私が友人らに取った行動に何の意味があったろうか・・・と思えて来て、考え込む日も多かった。
現在、まだまだ結論は出ていない。
しかし、ある方向へは動き出したと言えるかも・・・今、良し悪しで判断を下すのではなく、ただ行動が面倒になったという理由で、我が身辺の整理整頓を始めたのである、つまり、友達としての付き合い方の整理整頓。
亡くなった友の墓参りはしない、便りの来ない友人にはこちらから連絡を入れない、胃瘻中の先輩のお見舞いに行かない等々、人間として常識が欠けた行いと思われそうだが、後の事は、その場、その場で対処すればいい・・・とね。
その流れで、今月は、友人・知人らとの泊り旅はこれにて最後と決めた旅(一泊)をした、十数年間続けた遊びの会を閉会した。
この決断が、果たして、己自身にどんな影響を生づるかは不確実だが、ともかく前を向いて(自分ではそう思って)、一歩だけ、歩を進めたのである。