徳川慶喜(左側)と本人が撮った写真(右側)
(15代将軍 徳川慶喜の決断)・・・36会TKさん講義から
少し寄り道をします。
元々、この国は天皇(朝廷)が治めておりましたが、それぞれの地方を治める武家達が力をつけ、武家が国を治めるようになり、その本元が幕府と名付けられました。
江戸幕府とは、武家が治める主なる政府といったところでしょうか。
しかし、江戸幕府といえども、全国すべてを直轄していた訳ではありません。
ここが歴史を見る上でポイントになるのかなと思います。
幕府直轄の代表的な所では、横浜、駿河(静岡)、大阪、京都、長崎。
御三家と呼ばれる紀州徳川家(和歌山)、尾張徳川家(愛知)、水戸徳川家(茨城)等です。
その他の地域は、他の大名が直轄していました。
主な大名を挙げますと、仙台:伊達家、 彦根(滋賀):井伊家、赤穂(広島):浅野家、長州(山口):毛利家、 福岡:黒田家、薩摩(鹿児島):島津家、土佐(高知):山内家といったところでしょうか・・・
会社組織で考えると、もっと分かり易いかも・・ですね。
代表取締役社長・徳川さん、取締役・親戚の御三家の徳川さん。
ロクな権限もない役員・・伊達、井伊、浅野、毛利、黒田、島津 山内
こんな感じでしょうか・・・以上、参考までに。
さて本題にはいります。
善意をこめて、徳川慶喜を見てみましょう
慶喜は1837年 水戸徳川家、徳川斉昭(なりあき)の七人目の子として、江戸の水戸藩邸で生まれました。
徳川幕府は歴代15人の将軍がいました。
最後の将軍、徳川慶喜を考察する上で重要な事は、歴代将軍の中で、これ以上ない最悪の時に将軍の座に就いた事です。
将軍としての在籍期間は、わずか1年でした。
まさに風雲、急を告げる状態であったことを考慮する必要があります。
一歩間違えれば、国が植民地化されるかもしれない、大変な国難の中での舵取りを任されていた事を認識して頂けたらと思います。
たとえ家康であっても、舵取りは困難を極めたであろうと想像されます。
時代が動く大きなウネリの中で、国内の勢力だけでなく、目の前には大国の力が見え隠れしていた訳ですからね。
1853年のペリ-来航で、日本の政治は混乱期に突入。
当時、江戸幕府は鎖国を続ける道を探っていました。
幕府は、欧米諸国がインド、中国を植民地化した事を知っており、その外圧に屈し、開国の道を歩み始めたのですね。
1862年、慶喜は将軍の後見職を命じられ、将軍を補佐し、欧米諸国や朝廷との複雑な交渉に奔走し、幕制改革にも力を注いでいました。
この幕制改革には、フランス公使ロッシュの軍事援助を受けながら、衰退の一途をたどる徳川幕府の権力強化を図ったのです。
ここで注目すべき点は、幕府はフランスの援助を受けていたという事実です。
援助額を増やしてもらい、倒幕派と徹底抗戦する道もあったかも知れません。
慶喜はその道を避けました。
これ以上、フランスの影響力が増す事に懸念を感じたのでしょう。
幕臣達からは、「東照宮さま(家康)の再来」とまで称される程であったとされています。
しかし、既にこの時点では、幕府を再興する道は前途多難の状態でありました。
1866年、14代将軍家茂が死去すると、崩壊寸前の幕府の立て直しには、慶喜以外に見当たらず、慶喜は第15代将軍に任命されました。
しかし、時すでに遅く、倒幕派が大勢を占め、時世は「幕府を倒し新しい国を作る以外に道はない」と迄に進んでいました。
慶喜は、大政奉還(政権を朝廷に返還)以外に徳川家を存続させる方法はないと決断しました。
大政奉還をすることを大名達に伝え、二条城にて正式に朝廷に願い出ました。
これで長期に渡り続いた徳川幕府に終止符が打たれたのです。
大政奉還には「土佐藩・坂本竜馬が一枚噛んでいた」とされています。
しかし、決断したのは、将軍である慶喜です。
将軍でなければ朝廷に大政奉還を願い出ることは出来ません。
また、竜馬は、大政奉還の1ヶ月後に暗殺されてしまいます。
大政奉還により多くの敵を作ってしまったのでしょうか? 詳細は解りませんが・・・。
大政奉還に於いて幕府側の思惑は、多少なりとも倒幕運動にブレーキをかける目的があったとされます。
大政奉還は叶ったとはいえ、朝廷側には、すぐに政権を担当できる能力はありませんでした。
次第に、幕府と薩摩・長州の倒幕派の志士達との対立が深まっていったのです。
「一時的には、旧幕府が武力で政権を奪い取ることも可能であった」とされています。
しかし、慶喜は京都から江戸へ戻り、謹慎の意を表明しました。
後に慶喜は自分の腹心であった者に「あの時は、ああするしか為すすべがなかった」と言っています。
自分が将軍としての職務を固持すれば、国は割れ、大混乱になると考えたのでしょう。
その後慶喜は、水戸、静岡、東京と転々と居を移し、政治には関わりませんでした。
見方によっては「将軍としての職務を放り出した」と見られたかも知れませんが、承知の上で謹慎生活に入ったのでしょう。
慶喜が、大政奉還をし、真摯に朝廷の命令に従う態度を示した事が、結果として、江戸の焦土化を防いだのです。
旧幕府軍・勝海舟と倒幕軍・西郷隆盛による江戸城無血開城へと事は進み、江戸が解放され戦火を逃れました。
しかし、最後まで抵抗した「新撰組」のように、戦いと犠牲はありましたが、欧米諸国による日本の植民地化も防ぎました。
その意味でも、徳川慶喜の決断と行動は、幕末の混乱期から明治維新へ移り変わる激動の中、日本が国としての体裁を整えることに成功したのだと思います。
徳川幕府を開き、国を統制した家康、幕府を閉じて、新しい方向に国を導いた慶喜・・・対照的な二人の大将軍の歴史がこの国にはあります。
維新後は明治35年(1902)、慶喜は公爵の位を授かりました。
世の中が激しさを増し、激流のように流れていった時代、策士、策略、謀略、諸々あったでしょう。
それを踏まえた、私なりの考察です。
慶喜は家茂の後見職を務め、外国との折衝に当たった経験から外国が虎視眈々と国を狙っている様子を通じ、その国力の強大さを痛切に感じていたのだと思います。
国を二分する戦いをすれば、国力は衰え、外国の侵略を受けてしまう・・・最大の懸念は、まさに、ここにあったのでしょう。
次の新しい時代への軟着陸が必要だと考えていたのかも・・ですね。
そんな思いで将軍の座に就いたのでしょうか・・つまり、徳川幕府はいずれ立ち行かなくなる。
ならば、混乱を最小限に留めよう。それが将軍として最後の使命であると・・
「慶喜は晩年、写真撮影に没頭された」とありますが、晩年の日常生活の中においても「将軍であった」という重責を背負い、過ごされたと思います。
趣味の写真撮影などを通じて、新時代の息吹を実感し、満足感を持って世を去ったのでは・・・と思います。
大正2年(1913年)11月22日77歳で亡くなっています。
※ 文が長すぎましたぁぁぁぁ・・・まぁ、とにかくご覧くださって、ありがとうございました(TK)