犬神スケキヨ~さざれ石

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英霊を訪ねて~沖縄講演会~3.3

2015-09-29 00:02:04 | 連続
生き残りを訪ね

硫黄島を知る事は我々の生きるヒントです。

生きる手がかりです。

生き直す手がかりです。

青山さんは硫黄島の生き残り「金井 啓」さんに会われています。
三時間の話をされました。

例えば金井さんは遺骨収集にも参加なされ、慰霊にも行かれている。

しかし、あちらこちらにいる戦友を勝手に連れては帰れない。
限られた場所しか行けず、滑走路の下にいる戦友を取り返せない。
居るとわかっていても、岩一つ動かせもしない。
政府は全く動かない。
それは、我々が先達を忘れているからです。

本当は我々の為に散華した先達を悪者にして忘れているからです。

しかし金井さんは、それを怒りもしない。

最後まで穏やかで何の苦情も仰らない。

そして青山さんは金井さんに言います。

「実は日本では忘れられた島、しかしアメリカでは奇跡の島と呼ばれています。あれ程激しい肉弾戦をやったのに春になれば日米の兵士が集まり合同慰霊祭をやっている、だから奇跡の島と」

金井さんは静かに聞いている。

青山さんは続けます。

「それなのにアメリカ軍の生き残りは子や孫を連れてくる。みんな国費で来ます。そしてこの戦いで戦死したアメリカ人は皆、英雄と称えられる。祖国を守った英雄です」

「ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分達で出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方は今だに滑走路の下の岩の下に閉じ込められたままになっています」

金井さんはぐっと眼を開いた。

「金井さんこの違いはなんですか?本当は日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊でなく悪者だから忘れてよかった、悪者だから放っておいて良かった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使って良かった、これが戦後の真実なんですね?」

金井さんは突然大きな声を出された。

「その通り!俺達のどこが悪者なんだ!お前たちのためにみんな戦ったんだ!」

ただ静かに

金井さんはポツポツと語り始めます。
静かにポツポツと、穏やかに。

「もう、死を覚悟してね、私の部隊は地下壕に閉じ込められてね。栗林忠道閣下を尊敬しいたから、閣下が自決するなと言うからそれを守って、呼吸もしにくいけどね、じっと我慢して真っ暗な中で耐えていた」と仰られる。

「ところが自分の隊に少年兵がいてね。恐らく18歳かね17歳かもわからない。一番若いやつのハラワタが出ていて、暗がりで手探りすると明らかに腸に触ってね。そいつが苦悶して苦悶して、苦しんでね『小隊長殿、自分は栗林中将の、司令官の御命令に背くけれど自決したい』と言う。」

「私はもう我慢しきれなくてね、よし、いいぞ、お前自決しろと言ってね。彼が手榴弾を抱え込んで自爆した、その衝撃で上に穴が開いてね、島を占領したアメリカ兵がたまたま通りかかって、日本兵がいたから、それで私は捕虜になって硫黄島から抜けることができたんです」

と、生き残った理由を話された。

この自決した若者がどうして悪者なんでしょうか?

この地下壕の水はドラム缶に溜めた雨水が頼りです。

しかし、この地下壕でも戦友があっと言う間に吹き飛ばされて戦友の血や肉や髪の毛があっと言う間に水に混ざる。

けれども水はこれしかなく、命の水です。

しかし、飲むと甘い。甘露の様に甘い。

甘くて美味しいのです。

しかし、先に死んで行く戦友に末期の水だと思って、そのドラム缶の中から汲んで戦友の唇に浸すのです。

あの熱い熱い硫黄島の地下壕は気温が70℃にもなります。
するとドラム缶の水はたちまち熱湯になる。
だから唇に浸すと、唇がブワーと腫れ上がる。
火傷をして腫れ上がる。
しかし末期の水はそれしかありません。

金井さんは戦後、あの腫れ上がる唇ばかりを思い出す。
だから金井さんはこう仰らる。
「毎日毎日ね、お水をひやしてね、それはお水をキリリと冷やして真南に向かってお供えしてるんですよ」
だからと言って我々にどうしろとは仰られない。

そして

講演会は大盛況のうちに、大延長もして終了しました。

場内は地元沖縄県民も涙を流して聞いていました。

外に出て少し休んでいると地元の方、歳は60代くらいと思われる方と少し話しをしました。

その方は「硫黄島の話を初めて知った、それが沖縄戦に繋がってるなんて初めて知ったよ。そんなこと一度も教えられなかったよ」と。

硫黄島陥落の翌日から米軍は沖縄慶良間諸島を攻撃しています。

それを60代の沖縄県民、ウチナーンチュも知らないなのです。
これが日本の実態なのです。

私の閣下

少し講演会では話されていない硫黄島の話しをしてみます。

栗林忠道中将を「うちの閣下」と呼ぶ男性。

貞岡信喜さん。

貞岡さんは軍属です。軍属とは軍人ではありません。

軍の仕事をする人達です。

貞岡さんは縫製工で高級将校の軍服を直したり、新調する仕事をしていました。
ある時栗林中将から「シャツを仕立てられないか?」と頼まれました。
しかし、シャツなど仕立てた事はなかったそうで、既存のシャツをバラバラにして研究し栗林中将の為にシャツを仕立てたそうです。

それを栗林中将がたいへん気に入り、それ以来随分と可愛いがって頂いた様です。

親子ほど歳の違う貞岡さんに目をかけて可愛いがっておられました。

栗林中将は近衛師団。
近衛兵は家柄もよく、三親等以内に犯罪者がいないなどエリート中のエリート、団長まで務めた、将校の中でもエリートです。

しかし栗林中将はそんな身分を感じさせず、軍属の人々にも優しく接していました。
思いやりがあり、温かい人柄。
だからこそ、硫黄島で部下達を説得できたのでしょうね。

更に向学心の強かった貞岡さんを特に可愛いがっておられ。

例えば「車に乗れ」と将校達は命令口調なのですが栗林中将は「車に乗りなさい」と優しく声をかける。
真ん中に栗林中将、その右後ろが貞岡さん

天皇陛下から下賜された鴨鍋の食事会に貞岡さんは招かれたりしました。
当時の軍人階級では考えられない事です。

ある時に部下の見舞いに病院から出てこられた栗林中将に貞岡さんが「閣下が直接見舞われては部下の方々は緊張してお疲れになるのでは?」と冗談を言ってみたそうで、栗林中将は「ん~そうかなぁ…」と仰り、それ以来、部下の見舞いには病室へは行かず貞岡さんに見舞いの品と伝言をされ車で待っていたそうです。

貞岡さんは栗林中将が硫黄島に赴任する際に、父の様に慕う栗林中将に付いて一緒に硫黄島に行きたいとお願いしたそうです。
ところが「駄目だ!親孝行しろ!」と、初めて叱られ、却下されたそうです。

戦局の悪化にともない、どうせ死ぬなら閣下のもとで…と父島へ渡ります。
どうにか頼み込んで栗林中将に電話を繋いでもらいます。
しかし「コラッ!渡島あいならん!」と、怒鳴られけんもほろろに返されたそうです。

その後の家族に宛てた手紙に栗林中将は貞岡さんの事を「私を慕って会いに来たのに追い返してしまったのは悪い事をした…」と書かれたそうで、その後の手紙に幾度と貞岡さんの話しが出て来たそうです。

そして、「東京へきたら貞岡は立ち寄るだろうからその時は玄関だけにせず、何でもある物をやって下さい」と書いています。

この青年を生き延びさせようと、敢えて心を鬼に貞岡さんを追い返したのでした。

その後、栗林中将は貞岡さんにハガキを出しています。
そのハガキは貞岡さんの自宅の金庫に仕舞われています。

その貞岡さんが硫黄島に渡れたのは、硫黄島の激戦から33年経った昭和53年。
慰霊団の一員として硫黄島に渡りました。

栗林忠道中将が潜んでいた司令部壕の方向を示されると貞岡さんはそちらに駆け出しました。

そして有らん限りの声を出し

「閣下ーっ!貞岡が只今参りましたーっ!」と叫ぶのでした。


我々は何者でしょう

英霊を訪ねる旅は終了。

皆さんは何か感じられましたか?

自分は益々、疑問や問い掛けが増えてしまいました。

頭では理解していたのです。

しかし、やはり、現場に触れ、この手と足、目や耳、匂い。
全てで現場を感じ更に疑問が増えます。

「一体我々は何者なんでしょうか?

日本人とはどう生きて、どう死ねば良いのでしょうか?

我々の生き方とは?

我々の死に方とは?

何の為にに生き、何の為に死ぬのか?

我々は愛する人、愛する国、我が祖国の為に死ぬ事が出来るでしょうか?

敗戦後教育で嘘を教えられ、我々の先達を悪者にして忘れ去って来た。

我々は本当に胸を張って「日本人」だと言えるのでしょうか?

先達は我々が暮らす祖国日本を命を捧げ守りました。

それは紛れもなく至高の愛です。

最高の忠誠心です。

その愛に育まれて我々は存在しています。

我々の暮らす日本、我々日本人はその愛に報うことが出来るでしょうか?

英霊を訪ねて~番外編

英霊を訪ねて~沖縄講演会~3.2

2015-09-28 00:01:18 | 連続
栗林忠道がした事

栗林忠道中将がまずやった事は

自決の禁止

万歳突撃の禁止

でした。

これは大変な事なのです。

敗戦濃厚となれば皆最後は自決します。
それは少しでも苦しみから逃れる為です。
或いは、万歳突撃により敵兵から撃たれ死ぬ事で少しでも苦しまず死ぬ。

コレだけが日本兵の最後の拠り所でした。

皆、最後はそうやって死ぬから戦えるのです。
逃げずに戦えるのです。

それを禁じた。

それは部下達から相当な反発がありました。
物の記録によれば栗林忠道中将を排斥する動きすらあったそうです。

しかし、栗林忠道中将は一人一人部下達に話して説得して周りました。

「俺達は死ぬ、しかし1日長引けば1日分、本土の女子供が生き延びる」

「だから穴を掘って、そこに立て籠もり米軍を苦しめる」

日本の未来を守る為に穴を掘ろう!

硫黄島の塹壕

本土の女子供を守る為に、愛する人を守る為に、愛する国を守る為に穴を掘った。

小さなスコップ、なければ木片を使って掘った。

そんな物が無ければ手で穴を掘った。

あの火山で出来た、固い固い溶岩で出来た島を素手で掘った。
指先からは出血し、生爪が剥がれ様と愛する人を守る為に穴を掘ったのです。

母なる国父なる国である祖国「日本」そこに暮らす愛する人、愛する未来を守る為にです。

そんな僅か70年前の日本人が男尊女卑の男社会で女は差別されていた!
などと言う左翼にはこれが解らない!
男達は女を守る為に喜んで死ぬのです!

誰一人、私利私欲でこんな事は出来ません。
逃げる事なく皆「他者の為」に。

これが日本人の生き方なのです。

他者の為に生きる。
他者を生かす為に生きる。

あなたこそ大事。
あなたの為に私は死ぬ覚悟がある。

あなたが生きる事で私は生かされる。
あなたの喜びが私の幸せ。

これが日本人なのです。

自分の為にだけ生きてもつまらない。
100年もすれば皆土に還りなにも残らない。
皆アッと言う間に死ぬのです。
人は生まれアッと言う間に死ぬ。

そんな虚しい人生も、他者の為に生きる事で自らも生かされ、それが次の世代に受け継がれ、やがて虚しいだけの人生も潤うのです。

なにも特殊な事ではありません。

僅か70年前の我々の先達がなさった。
その先達は我々と同じ普通の人々です。

そこにおられる

現在の硫黄島は、未だ一部の方々のご遺骨しか取り返していません。

そこに我々の先達が多数いるのにです。

国は硫黄島を立ち入り禁止にしている。
それは国民に見られてはいけないものがあるからです。

本当はアメリカ軍は硫黄島の戦いが終結すると、早く日本人を根絶やしにする為に、そこにまだ我々の先達のご遺体が累々と横たわる。
その上にそのままコンクリートを流しアスファルトをひいて滑走路を作ったのです。

我々の先達がその下にいるのです。

硫黄島は東京都小笠原村硫黄島。
我々の国土です。日本国領土です。

例えばペリリューやマリアナ諸島のような外国ではありません。

その硫黄島が日本国領土でもあるのに一般人は立ち入り禁止。
僅かな期間の遺骨収集と慰霊のみしか立ち入り出来ない。

アメリカ軍が作った滑走路は今も使われていて、自衛隊基地もあり毎日毎日、日本の自衛隊機や海保の飛行機が使っています。



その下には我々の先達が、未来である我々を守った先輩達が今もおられるのです。

その先輩達を飛行機が着陸する度にドーンッ!と頭や体、腰や足をドーンと踏みつけてるのです。

青山さんはこの滑走路に裸足で降り立ちました。

そして降り立った滑走路に土下座し

「この下にいっらっしゃるみなさまがた、心から申し訳ございません、僕たちはみなさまがたの事を忘れておりました。ようやく目が覚めて、やっとここへまいりました」と滑走路を撫で回したそうです。

この下に我々を守って頂いた先達がいます。

敗戦後70年間、ご英霊はこのコンクリートの下に閉じ込められている。

この熱い熱い島に今も閉じ込められたまま、郷里を思い閉じ込められたままです。
硫黄島で同じ様に土下座し英霊に話しかける安倍晋三

水もなく、雨水しかない、火山の島だから年中熱い。その溶岩で出来た島に閉じ込めたままに70年間我々は忘れていた。

国はこの現状を国民に見せる訳にはいかない。

例えば滑走路も菅直人政権下で2割程度引き剥がしただけで、そこの部分だけ遺骨を収集しただけ。
それで、遺骨を収集しているとごまかした。

例えば哨戒機P3Cでここへ降りる自衛官は本当はは良心の呵責に心を痛めているのです。

「毎日、毎日、この滑走路に降りるたびに私達の先達を踏みつけにしている」

これに耐えられないと。

そして、この硫黄島には毎日、それは毎日、普通に英霊がお出でになる。

それは食事をしている時に、食事を取る自衛官の横で旧帝国軍人が一緒に弁当を食べている。

夜、硫黄島にいると島を行進なさる。

哨戒機で飛び立つ時に声がする、ふと振り返ると「おい!良かったな!友軍が迎えに来てくれたぞ!」と声をかけ合う英霊がおられる。

もう当たり前の日常になってしまい、気にしていては業務に支障が出るので見て見ぬふりをする。

そして、戦う為に掘った壕は、これは生半可な気持ちでは掘れません。
こんな固い固い岩盤のような土を素手で掘れません。

何故、英霊はお出でになられるのか?

それは尋ねておられるのです。

「おい!俺達が守った日本はどうなった?俺達が命がけで守った祖国は?女や子供はどうなったんだ?」

後世の我々に聞いておられるのです。

およそ2万人の英霊のほとんどが普通の人々です。

我々と同じ庶民です。

お子もいて、子育てをし。
妻が待っている。

母が父が、息子の殊勲を願い。

恋人が戦火を逃げまどう。

そんな、愛する祖国を守る為に、至上の愛をもって戦い。
最高の忠誠心で命を捧げた。

そして、自分達が示した愛が国を守ったのか?
命を捧げた祖国は今も其処にあるのか?

我々に問うているのです。

それは、あの白梅の少女達も同じです。
まだ恋も知らない少女が捧げた命が報われたのか?

我々は考えなければならないのです。

敗戦後、与えられた偽りの平和に安穏とし。

見せかけの平和を享受し。

今日、自分が生き延びた事を平和と呼ぶ。

そんなことをしている間に同胞をさらわれ。

自分自身が御英霊に報告できるのは
「申し訳ありません、我々はあなた方を忘れていました。あなた方が命がけで守って頂いた祖国は同胞を拉致されても、取り返しもできません。」と…

あなたはどう報告できますか?

3.3へ続く…

3.3へリンク

英霊を訪ねて~沖縄講演会~3.1

2015-09-28 00:00:35 | 連続
英霊を訪ねる旅です。

今回は講演会になります。

今回最大の目的はこれです。

沖縄講演会への参加です。

当初、参加人数が少なくてどうなることか?と危ぶまれもしましたが蓋を開けると超満員。

定員500を上回る盛況でした。

本当の日本

今回の講演会のメインの話しは「硫黄島の戦い」です。

それを沖縄講演会でやると。

ここに意味があるのです。

硫黄島の戦いとは何だったのか?
硫黄島から繋がる沖縄戦の真実とは何か?

それを考える講演会です。

会場ユインチホテル

沖縄県民すら本当の沖縄戦を知らない。

そして、敗戦後教育にドップリ浸かりバイアスのかかった見せかけの平和を享受して生きて来た我々も知らない。

更に一番恐ろしいのは我々日本人は日本人とは何であるのか?を知らない。
日本人とは、どう生きるのか?
どういう振る舞いをすべきか?

これを全く教えられずに生きています。

これを硫黄島や沖縄戦から知ろうとするものです。

講演会

皆さんは、青山さんが話す硫黄島の話しは例えば青山さん自身の著書でもご存知ですね。

しかし、自分も青山さんの講演会には何度も参加していますが直接伺った事はありません。

自分の中では青山さんの著書「ぼくらの祖国」や広島での講演会動画を見てしか知りません。

もちろん硫黄島の戦いなどは自分自身で調べはしていますが、「硫黄島」に上陸した事がない。
硫黄島の生き残りの方の話しを直接聞いた事もない。

ただ書物やネットなどを駆使して調べ、知識を得たに過ぎません。

つまり、青山さんの講演会に参加し、その話しを聞く事の意味は実際にその場所に行き、直接話しを聞いた人からその真実を聞き自分も追体験をすると言う意味があるのです。

講演会での様子

話しの内容は、その著書や動画と基本的には変わりません。

時間は2時間の予定が、延長されて結局4時間となってしまいました。

敗戦後70年間経ってしまった話しが、たかが2時間で収まるはずはありませんね。
そこに至るまでに時間を遡らねばなりません。

その遡る時間が経てば経つ程に話しは長くなってしまいます。
ましてや敗戦後教育で全くそれらを教えられていない我々は更に時間がかかるのです。


硫黄島の戦い

では、講演会の内容を自分流で話してみたいと思います。

硫黄島の戦いは1945年2月19日にアメリカ海兵隊の強襲と艦載機、艦艇の砲撃と共に始まりました。
同年3月17日ほぼアメリカ軍は制圧しました。
日本大本営も21日に「硫黄島守備隊玉砕」と発表していました。

しかし、残存日本兵は散発的ながら遊撃戦を展開していました。

1945年3月26日
栗林忠道中将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅。
事実上の戦闘終結となりました。

米軍をして「最悪の戦闘」とか「地獄の中の地獄」と言わしめる激戦となりました。

守備隊への支援も増援もない、正に死ぬ事以外の選択肢はなかった戦いでした。

守備隊20933名のうち96%、20129名が戦死、或いは戦闘中に行方不明となりました。

米軍の戦死者は6821名、戦傷者28686名。
実質損害が戦争末期にあって米軍が日本軍を上回る最悪の損害を出したました。

硫黄島上陸僅か3日でノルマンディー上陸作戦を上回る損害を出したました。

硫黄島、手前が摺鉢山

硫黄島は東京都小笠原村硫黄島。

硫黄島は長年「いおうじま」と、我々は言って来ました。
しかし、実際には「いおうとう」です。

小笠原の方々は長年これを訴えてこられました。

何故「いおうじま」と呼ぶ様になったのか?

それは上陸した米軍の日系人通訳が「いおうじま」と訳してしまったからです。
ここにも敗戦後の間違った刷り込みがあるのです。

「負けた国は勝った国に全て従わねばならない」

こんな間違った刷り込みが自分達の領土の名称すら変えてしまう。

硫黄島と書いて「いおうじま」と呼ぶ島は鹿児島にありますが小笠原の島は「いおうとう」です。



硫黄島はグアムと東京都の丁度真ん中にあります。

なんと言う天の差配でしょうか…

当時、日本本土爆撃を効率良く行う為にはアメリカにとって、この島は魅力的です。

アメリカはマリアナ諸島攻略により、それまで中国大陸から行なっていたB-29の爆撃をマリアナ諸島から開始しました。
しかし、マリアナ諸島からの爆撃では片道2000kmを超えます。これでは護衛の戦闘機の随伴が出来ない。
更に、日本上空で損傷を受けたり故障したり、航法ミスにより海上に墜落する事態も多発していました。

そして、しばしば日本軍の飛龍や銀河という爆撃機や一式陸攻の攻撃が硫黄島経由でされており、多大な損害を出していました。

アメリカにとって硫黄島は日本本土爆撃を効率良く行う為に絶対でした。

更に日本軍はこの硫黄島に早期警戒システムを置いており、監視拠点としていました。
この硫黄島からの情報は特に重要で、この情報により本土爆撃に向かうB-29の迎撃に戦闘機を向かわせることが出来ました。

被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナ諸島まで帰着出来ない機体の中間着陸。

護衛機の基地確保。

日本軍航空機の攻撃基地の撃滅。

日本軍の早期警戒システムの破壊。

硫黄島を避ける事による爆撃機の航法上のロスの解消。

これらの目的を以って硫黄島を占領を決めました。

レイテの戦いが終わりに近づくと「沖縄侵攻までの2カ月間に行う作戦」計画として硫黄島攻略が決定されました。

先達の思い

栗林忠道中将はペリリュー島の戦いで日本陸軍守備隊が地下陣地を構築し長期の抵抗に成功した事を良く学んでいました。

それを更に発展させた作戦を考案しました。

真ん中が栗林忠道中将

栗林忠道中将は持久戦に持ち込む作戦を計画しました。

栗林忠道中将は軍事研究員としてアメリカに留学経験がありました。
昭和3年3月から5年4月までの2年間です。
この経験からアメリカが日本本土爆撃の為に硫黄島を占領するだろうと解っていました。
ですから、硫黄島の住民を事前に父島や母島に疎開させていました。

余談ですが、この留学で家族に、特に長男太郎君に絵手紙を送っています。
まだ3歳と字も読めない太郎君に絵手紙を送って、それを義井夫人が読み聞かせていました。
米国留学時代の絵手紙

自動車や電車を見れば太郎に見せてやりたいとか、キレイな景色を見れば太郎に見せてやりたいと書いてあり本当にどこにでもいる普通の父親と同じように家族を大切に思っていたことが伝わります。

また、家族と離れて暮らす淋しさも隠さぬ人間味溢れる人物で「猫だけは日本と同じ、こんなものが非常に懐かしい。猫が本当に味方の様な気がする程、外国は淋しいことがある」と手紙に書いてあります。

本当に家族思いの優しい夫、優しい父親。
誰よりも家族を、国を愛した男なのです。

あなたのお父さんも、あなたの友達のお父さんも、お隣や向かいのお父さんも同じです。

どこにでもいる父親が家族を守る為、国を守るために鬼神哭かしむる戦いをするのです。

それは栗林忠道中将だけではありません。

硫黄島にいた全ての人がそうだったのです。

大戦末期ですから職業軍人は少ない、多くは本当に普通の人々です。

職業も様々、教師、八百屋、大工、事務員、行員など現在の我々と同じ普通の人々です。
栗林忠道中将だけではない、妻や子供を残し、両親を残し或いは恋人と別れて硫黄島に来た。

愛する人を守る為に硫黄島に来た。

未来の日本人を守る為に硫黄島に来たのです。

この硫黄島を足がかりに、アメリカは日本本土を爆撃し女や子供を殺すつもりです。

女や子供を殺す事は我々日本人を根絶やしにし、我々日本人の未来を奪う事です。

ですから栗林忠道中将は穴を掘り、その穴に篭りゲリラ戦を選択しました。

一人でも多く生きて、出来るだけ戦いを長引かせ米軍を苦しめる。
戦いを1日でも長引かせ米軍による本土爆撃を遅らせる。

戦いが1日長引けば1日分の女と子供が生き延びる。生き延びた女子供がまた日本民族を受け継ぎ、そうやってまた日本は繁栄する。

もう日本はこの戦争に勝てない。

負けても民族が生き延び、いずれまた再起する。

それを願って自分達の命と引き換えに女子供を守る。

家族を守る為に自分達はここで死ぬ!

自分達の未来を守る為に死ぬ!

死ぬ為に硫黄島に来たのです。

3.2へ続く…

3.2へリンク

英霊を訪ねて~沖縄講演会~2

2015-09-24 22:00:18 | 連続
英霊を訪ねる旅、2回目の今回は沖縄の少女達を訪ねました。

我々、後世の日本人の為に命を捧げた少女達。

散華された少女達は敗戦後70年経った今もまだ少女のまま、その場所に居ます。

では皆さんも一緒に会いに行きましょう。

学徒看護隊

沖縄戦で学徒看護隊と言えばひめゆり部隊が有名ですね。
ひめゆり部隊

ひめゆり部隊は昭和20年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校から動員された少女達の部隊です。

この少女達は負傷兵などの看護をします。

この二校は沖縄でもエリートの学校でした。

まだ恋も知らなかったかもしれない15歳~17歳までの少女達です。

当時の国際法「ハーグ陸戦条約」では、例え敵軍であっても医療施設への攻撃はしてはなりません。

しかしアメリカ軍の攻撃は容赦なく医局にいた117名の少女達が犠牲になりました。

昭和20年6月18日
沖縄の日本軍が壊滅し、ひめゆり部隊の少女達に解散命令が出されました。

しかし、逃げ惑う少女達にアメリカ軍の銃撃は容赦なく襲いかかります。

解散後に107名が無惨に殺されました。

ひめゆり部隊240名のうち終戦時まで生き残ったのは僅かに14名でした。

この「ひめゆり部隊」は映画にもなり、今上陛下が皇太子時代に行幸された事もあり皆さんもご存知ですね。

また、エリート校だった事もあり沖縄でも県民が知るところです。

忘れられた少女達

しかし沖縄戦で学徒看護隊として、その身を捧げた少女はひめゆり部隊だけではありません。

地元沖縄県民にすら忘れられた少女達。

まだ恋も知らなかった少女達がひめゆり部隊の他にもいました。

沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒看護隊

県立首里高等女学校の瑞泉学徒看護隊

私立積徳高等女学校の積徳学徒看護隊

私立昭和高等女学校の梯梧学徒看護隊

県立第三高等女学校のなごらん学徒看護隊

県立宮古高等女学校の宮古高女学徒看護隊

県立八重山高等女学校の八重山高女学徒看護隊

県立八重山農学校女子の八重農学徒看護隊

ひめゆり部隊の他に八つの学徒看護隊がありました。

そして敗戦後、沖縄にすら忘れられていました。

白梅の塔

そして今回訪ねた少女達は白梅学徒看護隊です。

白梅学徒看護隊

そこはかつて沖縄県民にすら忘れられた場所。

その昔はまるで山に見える程の森のような所でした。しかし今は訪れる人もあり立派な慰霊碑も立ち随分と明るくなっています。

現在の白梅の塔

以前には訪れる人もなく石積みの様なものがあるだけでした。

そこには鉄の蓋があり、開けるとそれは真っ白な人の骨がありました。
例えば、顎辺りの骨や足の骨。
見事に真っ白な骨が、その狭い石積みの中に押し込められていたのです。

鉄の蓋には鍵は無かったのです。

今では立派な納骨堂もありますが、以前は唯の石積みに骨がギュウギュウに押し込められていたのです。

慰霊塔へと進む

この沖縄戦では病院棟というのがあったのです。
病院棟と言っても自然の洞穴を病院棟にしただけです。

そこで祖国を守る為に戦い負傷した我々の先輩の看護を一心不乱にしていた少女達。

例えば、頭が割れ、内臓が飛び出し。
例えば手や足がちぎれ。
もう、見るも無惨な姿になって担ぎ込まれた兵隊達の看護をしてくれた。

その白梅の少女達はもうあれから随分と時間が経ち、今では80を半ばにもなります。

昨日まで勉強をし、裁縫などをしていた手が今日は千切れた足を渡され「これを捨ててきなさい!」と言われる。
その千切れた足を半身を起こして兵隊さんが「おい!俺の足!どうするんだ!俺の足!」と必死に叫ばれる。

そのドバッと血が吹き出した足を持って壕の外へ捨てに行く。
銃弾が降り注ぐ中を血が吹き出た足を捨てに行く。

或いは壕の外へ水や薬を探しに出るのです。

そして千切れた手足を捨てに行く、水や薬を探しに行くその時に爆弾が飛んで来て吹き飛ばされる。

ふと見ると今そこにいた同級生の姿がなくなっている。
自分は爆風で飛ばされ、辛うじて生きていたけれど今そこにいた友達がいない。

友達の名前を叫びながら、そこにいたはずの場所に駆けつけると姿はない。

あるのは飛び散った肉片や岩にベチャっと張り付いた頭の皮膚で髪の毛がへばりついている。

献花をして

白梅学徒看護隊はひめゆり部隊より17日早い3月6日に結成されました。
人数は55名でした。

まだ歳は15歳~17歳の少女達です。

彼女達、白梅学徒看護隊は病院棟、病院壕と呼ばれる所で献身的に重傷者の看護をしました。

それは、負傷兵の看護はもちろん手術の手伝い、水汲みに飯炊き。
排泄物の処理に傷口に沸くウジの処置。

そして死体の埋葬から伝令に至ります。

4月下旬にもなると、負傷兵は増加し壕の入り口付近まで溢れかえっていました。
5月下旬にやむを得ず別の場所に分院壕を開設し収容仕切れない負傷兵をそこへ移しました。
しかし米軍が迫ります。

やむなく分院は閉鎖。
元の壕へと少女達を集合させます。
白梅の少女達は歩けない負傷兵に青酸カリなどを与え彼らの処置をしました。

まだ恋も知らない少女達。負傷兵の世話を献身的に行い、当然彼らと親しく話しもしていたはずです。
その負傷兵達が移動出来なければ青酸カリを渡すのです。

その時の心の痛みや苦しみは…いかばかりか。

6月4日いよいよ本院であった壕にも米軍の手がせまりました。
病院は約500名の重傷者の「処置」をします。
こうした酷い作業すら白梅の少女達がやっていたのです。

ここで白梅学徒看護隊も解散となります。

少女達は軍と行動を共にしたいと言いましたが、最早死の行軍となる兵士達は少女の同行を許しませんでした。
生き延びさせようとしたのです。

少女達は数人にずつに別れて逃げます。

しかし爆弾で8名が途中で死亡。
ようやく国吉で洞穴を見つけ隠れます。
そこが、今の「白梅の塔」がある壕です。


壕入り口

武器も何も持たず、命辛辛逃げて来た少女達に米軍は容赦なく襲いかかります。

6月21日
その壕の上に穴を開け、そこからガソリンを流し込み火を付けた。
生きたまま、少女達を焼き殺しました。
6名が無惨に殺されました。

翌22日
同じ方法で上の壕にも火をつけた。
2名が焼き殺されました。

その後日、重度の火傷で1名死亡しました。

彼女達は兵士でもありません。
民間人です。
それも武器すら持たず、まだ恋すら知らない。

結局白梅学徒看護隊55名中17名が死亡しました。

壕の奥へと

生き延びた少女達もあの壕の中に友達が倒れている、あの壕に同級生がいるとわかっていました。わかっていたが近付けなかった。
死んであそこに居るとわかっていたが近付けなかった。

早く戦争から抜け出したかった。
恋もしたい。
親が殺され生きていく糧も見つけなければならない。

敗戦後の日々、忙しくて忙しくて…

しかし心の隅に、あの壕に友達が今も居る。
私達の同級生が居る。

そしてやっと皆んなで話しあって勇気を出して壕に入ったのです。

すると体は溶けてなくなっていたけれど、そこにバラバラになった遺骨があって。
でも、落ちている文房具や僅かな欠片で、これは何々ちゃんね、これは何々さんと自分達には全部誰だか解るのです。

そしてどうにか連絡のつく親や親戚の方々に遺骨を引き取ってもらうのです。

しかし、我が子の死を信じず、死を受け入れられない親御さんもいて。
「あんたうちの娘を知ってるだろ?うちの娘はこんなとこで殺されたりしないよ!あのサトウキビ畑を抜けて生き延びてヤンバル辺りで結婚して子供もいるんだよ!生き延びてるに決まってる」
或いは
「私の娘は泳ぎが得意だから泳いで泳いで、黒島か石垣辺りに逃げて、そこの人と結婚して子供もいて綺麗な服も着て幸せに暮らしてるよ!」
と、言って死を信じない。

だからウチは引き取らない、墓にも入れないと頑なに仰る。

それで石積みを作って、でも小さくて困ったなぁと思いながら、皆んな泣きながらその石積みに遺骨を押し込めたのです。

そして蓋をする時には皆んなで話して鍵は付けなかったのです。

やがて夜になり人気がなくなれば、あれ程に信じずにいたお父さんやお母さんが、本当は娘の死を、無惨な死を知っていて。
そして夜にここへ来て娘の名前を呼びながら愛おしくご遺骨を触ったり撫でたりなさる。
だから鍵は付けなかったのです。
壕の中で

この戦いで散華された方々は一人として私利私欲で散華されたのではありません。

日本人の哲学を貫いたのです。

「わたくしを脱し、他者の為に生きる」

その様な生き方をされたのです。

僅か15歳から17歳の少女達もその様な生き方をされたのです。

そして後世我々が生きています。

この白梅の壕には未だ引き取り手のない御霊が、少女が二人居ます。
お下げ髪の少女とオカッパの少女です。
このお二人の少女は親御さん兄弟、親類の方も皆亡くなっておられ御霊の引き取り手がありません。

ですから女性は壕に入る際には充分ご注意下さい。まだ恋も知らない少女達ですから少し女性を拒むところがあり、壕に入る女性が急に気分が悪くなったり、或いは全く入れなかったりします。

ですから壕のすぐ入り口左手にお供えがあります。
中に入れなければ無理に入らず、入り口でお供えをしてご挨拶して下さい。

同行の女性は実は中に入れませんでした。

気分が悪くなったりはしてませんが、何故か中に入れませんでした。

男性は大丈夫ですから中に入り、そこに少女がおられますから壁や床の土を撫でたりして話しかけて下さい。

そして、白梅の塔への入り口付近のベンチに座り吹く風を感じて下さい。

そこへ沖縄で散華された方々、その白梅の少女達がお出になられて我々の体に触れられるのです。

そして「俺が守った未来が、私達が守った日本人がいる」と確かめられるのです。

そしてそうやって、後世我々の為に命を捧げてくれた少女達は少し報われるのです。

今あなたが、存在し幸せに暮らしているのは
少女達が散華されたからだという事をゆめお忘れなきように。


英霊を訪ねて~3

英霊を訪ねて~沖縄講演会~1

2015-09-23 13:35:29 | 連続
さて、皆さん周知の通り沖縄へ講演会参加の為に参りました。

一泊二日の強行スケジュールとなりました。

今回は完全に諦めていた「講演会参加」が天の差配か英霊の導きか、急遽参加となりました。

前日から沖縄入りをしました。

最悪日帰りの弾丸を覚悟していました。
実際に参加された方の中には日帰り弾丸の方もおられました。

しかし、実際には帰りの飛行機は取れるのですが行きの飛行機は前日しか取れずでした。

その為に時間的余裕も出来たのですが、これこそが天の差配と思われました。

今回はこのタイトルにて4回程に分けて英霊を訪ねた旅を報告したいと思います。

やはり現場に行かなければ解らない状況や発見もありましたので報告したいと思います。

沖縄へ向けて

今回沖縄行きが決定した経緯については前回にざっくりですがアップしています。

英霊の渇く島に問うリンク

朝7時の飛行機にて関空より沖縄に向かいました。

LCCを始めて利用しました。
狭いとは聞いてましたが、身長180を超えるオッサンには2時間程度のフライトが限界ですかね。

膝が前のシートにめり込みます。

しかし、安いから仕方ない!


沖縄を空から望む

いよいよ那覇空港に着陸です。

滑走路奥に戦闘機

よく解りにくいですが、着陸すると奥にF15戦闘機や輸送機が見えました。

自分は大阪ですので普段は空自や海自を見る事がありません。

大阪ですと見るのは陸自ばかりです。
ちょっと興奮してしまいます。

海自第5航空隊の倉庫横を通りました。

普段見る事がない戦闘機に興奮しながら、その時点でまだ本会議採決がまだ行われずにいる安保法制の可決は何時になるのか?
という思いがリアルに迫るなぁと思いました。

実際その夜中、19日未明に可決されるのですが、委員会でのドタバタ騒ぎにウンザリする思いでした。

あの様な茶番劇場に血税が使われるのか…
そう考えると表現出来ない『怒り』と早く手を打たねばならないという思いが湧き上がりました。

ただ一言、ハッキリと言えるのは

ヒゲ隊長!ナイス右!

到着後に買った琉球新報と沖縄タイムス

この後、F15は北朝鮮爆撃の為にフライトするはずです。
戦争法が可決され「戦争する」と左翼は言っていますからね。
直ぐに北朝鮮爆撃をして習志野から空挺部隊を投入して我々の同胞を救出しましょう!

戦争法なんですから戦争しましょう!

左翼が認めてくれてますからね!
同胞を取り返す為に直ぐに攻撃しましょう!
大田實少将を訪ね

約2時間のフライトを終え、まず向かうのは
旧海軍司令部壕です。

慰霊塔、右に碇に桜の海軍マーク

沖縄県民カク戦ヘリ

この言葉は勿論皆さんご存知ですね?

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ
通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県
知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ
之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シ
テハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県
民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲
爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支
ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ乏
シキ生活ニ甘ンジアリタリ而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦
烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ所詮敵来リ
ナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セ
ラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ
助ケテ□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ
指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ是ヲ要ス
ルニ陸海軍□□沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セ
ラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人ト
シテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ
本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン糧食六月一杯
ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


ここに書かれている電文には沖縄県民が犠牲になった軍部への批判と共に、沖縄県民も祖国としての沖縄、祖国としての日本を守る為に戦ったと。

動ける若い男は皆志願し、戦えない女子供や年寄りは戦いの邪魔にならぬ様にと移動し、又自分達の食料を供出し日本の為に戦ったと書いてあります。

だからこそ「沖縄県民斯ク戦ヘリ」とあるのです。

沖縄県民も祖国の為に戦って命を捧げていると。

そして軍部に対する批判も述べているのです。

ここに敗戦後の嘘が解ります。

「沖縄は捨て石にされた!」

其れらの話は嘘です。

更に大田少将は軍部を批判もしています。

献杯の水を持ち壕の奥へ

当時、飛行機は其れ程長距離を飛べません。
日本本土を効率よく爆撃する為には途中に給油や修理が出来る中継地が欲しい。
だから米国は、例えば沖縄戦の前に硫黄島を取り、沖縄を取ろうとしたのです。

それをいち早く日本も察知していました。
だからこそ日本は沖縄戦の8カ月前から沖縄県民疎開を始め様としていました。

それはサイパンでの悲劇があったからです。

米軍はサイパンにおいて数多くの邦人、それも民間人を虐殺していました。

疎開する非武装の民間船を撃沈し多くの女子供、とりわけ少年少女達を海の藻屑と化していました。

サイパン島の戦いが始まり自らも役に立ちたいと残留した民間人が二万人もいました。

その民間人に「アメリカ人は虐待しない」と嘘の喧伝をし投降を呼びかけました。
呼びかけに応じた民間人を虐殺したのです。

女は素っ裸にされトラックに積み込み連れ去ってしまった。

残った年寄りと子供を集めガソリンをかけて火を付けた。
阿鼻叫喚の地獄絵さながらの光景を目の当たりに米兵は笑って見ていたのです。
熱さから逃れ様と火だるまの子供が飛び出してくると笑いながら火の中に蹴り込んだ。

草むらで泣く赤ん坊を股裂きにして火の中に投げ入れたのです。

女は米兵に陵辱され青竹に股から串刺しにされ晒されました。

また、マッピ岬にまで逃げ延びた民間人は「辱めを受けるなら…」
と、自ら投身自決をしたのです。

そこは後にバンザイクリフと呼ばれました。

岬から身を投げ自決した民間人は8000人とも言われます。

それが米兵達の眼前で起きていた。
しかし、それを笑いながら見ていた。
写真やフィルムに収め笑いながら見ていた。

最初から民間人を殺すつもりだったのです。

これは明らかな国際法違反です。

これは大虐殺です。

これこそジェノサイドなのです。

そして毎年八月になるとバンザイクリフから自決する画像がテレビから流れます。

無残に放置された日本人の亡骸。

火炎放射器の餌食になる画像。

其れらは全て米軍が撮影した物です。

それを毎年、毎年、決まり事の様にテレビから垂れ流されているのです。

我々の同胞を、我々の為に散華された同胞を辱めているのです。
敵が嬉々として楽しむ様にやった虐殺の映像を日本人が垂れ流しているのです。

そこに映る同胞が、例えばあなた祖母や祖父ならあなたは冷静に正視できますか?

あなたの兄妹なら当たり前の行事の様に見ていられるのか?

有難がって毎年八月にこれら映像を垂れ流すマスコミやメディアは日本人ではない!日本人とは認めません!


だから…

日本政府は「米軍は沖縄を取る」と解っていました。
だから8カ月も前から疎開事業を始めたのです。

民間人を疎開させるのは民間人の安全と共に充分な戦力を発揮させる事になります。

軍人は命令に従い整然と行動します。
しかし、民間人はそうはいきません。
逃げ遅れた者や負傷した者がいれば、軍はそちらに戦力を割かなければなりません。

民間人を守りながらの戦いは戦力が散漫になり行動にも迅速さが損なわれます。

また沖縄は数多くの離島があり、それぞれに民間人がいます。
ただでさえ少ない戦力をそこに割かれてはたまりません。

「民間人を守る為に」疎開させる。

また食料の問題もありました。

誰しも自分が住む土地が戦場にならなければ良いと考えます。
しかし、戦争なんです。

ところが当時の沖縄県知事泉守紀が真っ向反対しました。
「沖縄県が戦場にならん様にするのが軍の仕事だ」とわかった様な事を吐かしたのです。

沖縄が戦場にならぬ努力は勿論ですが、サイパンは陥落し最早アメリカが日本本土攻撃の拠点に沖縄を取りに来るのは明白です。

これにより沖縄県民疎開は大幅に遅れ「悲劇の沖縄戦」となってしまいました。

当の泉守紀は敵上陸2ヶ月前に大蔵省幹部であった実兄に頼み、自分だけは沖縄から離れられるよう工作してサッサと転任し沖縄から逃げてしまいました。

その疎開の為の船、民間人が乗った船をも米軍は撃沈しました。

その攻撃された民間船の救助にあたる船をも米軍は撃沈しました。

泉守紀が逃げた後、沖縄県民疎開に尽力した後任の島田知事や荒井退造県警部長は自らの命を犠牲にしました。
未だ彼らの足取りは解らず遺体も発見されていません。

参加部隊

沖縄戦は悲劇なのかも解りません。

しかし、民間人をも虐殺する米軍に対抗しなければ沖縄を足がかりに更に本土にて悲劇が起こる。
これは紛れもない事実です。

大田少将自決の部屋

だから日本国中から沖縄を守る為に日本人が集結したのです。

日本兵と一括りにしますが、それは大戦末期ですから職業軍人は僅かです。

多くの人々が普通の人間、普通の人々。
我々と同じように生活をしていた日本人です。

八百屋だった人、教師だった人、大工だった人、小さな弟妹の面倒を見る優しい兄。
結婚もし子育てに日々忙しいお父さん。
新婚間もない夫。
若く将来を有望視された者。

皆、普通の人々です。

その普通の人々が母なる国、父なる国。
私を生み育てたこの国。

親、兄妹、恋人、妻、我が子。

その全てを、愛する祖国を守る為に命を捧げたのです。

未来の我々を守る為に命を捧げたのです。


手榴弾による自決の跡

あなたが今、ここに存在しているのは先達が命を捧げ守った未来なのです。

次回へ続く…英霊を訪ねて~2