生き残りを訪ね
硫黄島を知る事は我々の生きるヒントです。
生きる手がかりです。
生き直す手がかりです。
青山さんは硫黄島の生き残り「金井 啓」さんに会われています。
三時間の話をされました。
例えば金井さんは遺骨収集にも参加なされ、慰霊にも行かれている。
しかし、あちらこちらにいる戦友を勝手に連れては帰れない。
限られた場所しか行けず、滑走路の下にいる戦友を取り返せない。
居るとわかっていても、岩一つ動かせもしない。
政府は全く動かない。
それは、我々が先達を忘れているからです。
本当は我々の為に散華した先達を悪者にして忘れているからです。
しかし金井さんは、それを怒りもしない。
最後まで穏やかで何の苦情も仰らない。
そして青山さんは金井さんに言います。
「実は日本では忘れられた島、しかしアメリカでは奇跡の島と呼ばれています。あれ程激しい肉弾戦をやったのに春になれば日米の兵士が集まり合同慰霊祭をやっている、だから奇跡の島と」
金井さんは静かに聞いている。
青山さんは続けます。
「それなのにアメリカ軍の生き残りは子や孫を連れてくる。みんな国費で来ます。そしてこの戦いで戦死したアメリカ人は皆、英雄と称えられる。祖国を守った英雄です」
「ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分達で出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方は今だに滑走路の下の岩の下に閉じ込められたままになっています」
金井さんはぐっと眼を開いた。
「金井さんこの違いはなんですか?本当は日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊でなく悪者だから忘れてよかった、悪者だから放っておいて良かった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使って良かった、これが戦後の真実なんですね?」
金井さんは突然大きな声を出された。
「その通り!俺達のどこが悪者なんだ!お前たちのためにみんな戦ったんだ!」
ただ静かに
金井さんはポツポツと語り始めます。
静かにポツポツと、穏やかに。
「もう、死を覚悟してね、私の部隊は地下壕に閉じ込められてね。栗林忠道閣下を尊敬しいたから、閣下が自決するなと言うからそれを守って、呼吸もしにくいけどね、じっと我慢して真っ暗な中で耐えていた」と仰られる。
「ところが自分の隊に少年兵がいてね。恐らく18歳かね17歳かもわからない。一番若いやつのハラワタが出ていて、暗がりで手探りすると明らかに腸に触ってね。そいつが苦悶して苦悶して、苦しんでね『小隊長殿、自分は栗林中将の、司令官の御命令に背くけれど自決したい』と言う。」
「私はもう我慢しきれなくてね、よし、いいぞ、お前自決しろと言ってね。彼が手榴弾を抱え込んで自爆した、その衝撃で上に穴が開いてね、島を占領したアメリカ兵がたまたま通りかかって、日本兵がいたから、それで私は捕虜になって硫黄島から抜けることができたんです」
と、生き残った理由を話された。
この自決した若者がどうして悪者なんでしょうか?
この地下壕の水はドラム缶に溜めた雨水が頼りです。
しかし、この地下壕でも戦友があっと言う間に吹き飛ばされて戦友の血や肉や髪の毛があっと言う間に水に混ざる。
けれども水はこれしかなく、命の水です。
しかし、飲むと甘い。甘露の様に甘い。
甘くて美味しいのです。
しかし、先に死んで行く戦友に末期の水だと思って、そのドラム缶の中から汲んで戦友の唇に浸すのです。
あの熱い熱い硫黄島の地下壕は気温が70℃にもなります。
するとドラム缶の水はたちまち熱湯になる。
だから唇に浸すと、唇がブワーと腫れ上がる。
火傷をして腫れ上がる。
しかし末期の水はそれしかありません。
金井さんは戦後、あの腫れ上がる唇ばかりを思い出す。
だから金井さんはこう仰らる。
「毎日毎日ね、お水をひやしてね、それはお水をキリリと冷やして真南に向かってお供えしてるんですよ」
だからと言って我々にどうしろとは仰られない。
そして
講演会は大盛況のうちに、大延長もして終了しました。
場内は地元沖縄県民も涙を流して聞いていました。
外に出て少し休んでいると地元の方、歳は60代くらいと思われる方と少し話しをしました。
その方は「硫黄島の話を初めて知った、それが沖縄戦に繋がってるなんて初めて知ったよ。そんなこと一度も教えられなかったよ」と。
硫黄島陥落の翌日から米軍は沖縄慶良間諸島を攻撃しています。
それを60代の沖縄県民、ウチナーンチュも知らないなのです。
これが日本の実態なのです。
私の閣下
少し講演会では話されていない硫黄島の話しをしてみます。
栗林忠道中将を「うちの閣下」と呼ぶ男性。
貞岡信喜さん。
貞岡さんは軍属です。軍属とは軍人ではありません。
軍の仕事をする人達です。
貞岡さんは縫製工で高級将校の軍服を直したり、新調する仕事をしていました。
ある時栗林中将から「シャツを仕立てられないか?」と頼まれました。
しかし、シャツなど仕立てた事はなかったそうで、既存のシャツをバラバラにして研究し栗林中将の為にシャツを仕立てたそうです。
それを栗林中将がたいへん気に入り、それ以来随分と可愛いがって頂いた様です。
親子ほど歳の違う貞岡さんに目をかけて可愛いがっておられました。
栗林中将は近衛師団。
近衛兵は家柄もよく、三親等以内に犯罪者がいないなどエリート中のエリート、団長まで務めた、将校の中でもエリートです。
しかし栗林中将はそんな身分を感じさせず、軍属の人々にも優しく接していました。
思いやりがあり、温かい人柄。
だからこそ、硫黄島で部下達を説得できたのでしょうね。
更に向学心の強かった貞岡さんを特に可愛いがっておられ。
例えば「車に乗れ」と将校達は命令口調なのですが栗林中将は「車に乗りなさい」と優しく声をかける。
真ん中に栗林中将、その右後ろが貞岡さん
天皇陛下から下賜された鴨鍋の食事会に貞岡さんは招かれたりしました。
当時の軍人階級では考えられない事です。
ある時に部下の見舞いに病院から出てこられた栗林中将に貞岡さんが「閣下が直接見舞われては部下の方々は緊張してお疲れになるのでは?」と冗談を言ってみたそうで、栗林中将は「ん~そうかなぁ…」と仰り、それ以来、部下の見舞いには病室へは行かず貞岡さんに見舞いの品と伝言をされ車で待っていたそうです。
貞岡さんは栗林中将が硫黄島に赴任する際に、父の様に慕う栗林中将に付いて一緒に硫黄島に行きたいとお願いしたそうです。
ところが「駄目だ!親孝行しろ!」と、初めて叱られ、却下されたそうです。
戦局の悪化にともない、どうせ死ぬなら閣下のもとで…と父島へ渡ります。
どうにか頼み込んで栗林中将に電話を繋いでもらいます。
しかし「コラッ!渡島あいならん!」と、怒鳴られけんもほろろに返されたそうです。
その後の家族に宛てた手紙に栗林中将は貞岡さんの事を「私を慕って会いに来たのに追い返してしまったのは悪い事をした…」と書かれたそうで、その後の手紙に幾度と貞岡さんの話しが出て来たそうです。
そして、「東京へきたら貞岡は立ち寄るだろうからその時は玄関だけにせず、何でもある物をやって下さい」と書いています。
この青年を生き延びさせようと、敢えて心を鬼に貞岡さんを追い返したのでした。
その後、栗林中将は貞岡さんにハガキを出しています。
そのハガキは貞岡さんの自宅の金庫に仕舞われています。
その貞岡さんが硫黄島に渡れたのは、硫黄島の激戦から33年経った昭和53年。
慰霊団の一員として硫黄島に渡りました。
栗林忠道中将が潜んでいた司令部壕の方向を示されると貞岡さんはそちらに駆け出しました。
そして有らん限りの声を出し
「閣下ーっ!貞岡が只今参りましたーっ!」と叫ぶのでした。
我々は何者でしょう
英霊を訪ねる旅は終了。
皆さんは何か感じられましたか?
自分は益々、疑問や問い掛けが増えてしまいました。
頭では理解していたのです。
しかし、やはり、現場に触れ、この手と足、目や耳、匂い。
全てで現場を感じ更に疑問が増えます。
「一体我々は何者なんでしょうか?
日本人とはどう生きて、どう死ねば良いのでしょうか?
我々の生き方とは?
我々の死に方とは?
何の為にに生き、何の為に死ぬのか?
我々は愛する人、愛する国、我が祖国の為に死ぬ事が出来るでしょうか?
敗戦後教育で嘘を教えられ、我々の先達を悪者にして忘れ去って来た。
我々は本当に胸を張って「日本人」だと言えるのでしょうか?
先達は我々が暮らす祖国日本を命を捧げ守りました。
それは紛れもなく至高の愛です。
最高の忠誠心です。
その愛に育まれて我々は存在しています。
我々の暮らす日本、我々日本人はその愛に報うことが出来るでしょうか?
英霊を訪ねて~番外編
硫黄島を知る事は我々の生きるヒントです。
生きる手がかりです。
生き直す手がかりです。
青山さんは硫黄島の生き残り「金井 啓」さんに会われています。
三時間の話をされました。
例えば金井さんは遺骨収集にも参加なされ、慰霊にも行かれている。
しかし、あちらこちらにいる戦友を勝手に連れては帰れない。
限られた場所しか行けず、滑走路の下にいる戦友を取り返せない。
居るとわかっていても、岩一つ動かせもしない。
政府は全く動かない。
それは、我々が先達を忘れているからです。
本当は我々の為に散華した先達を悪者にして忘れているからです。
しかし金井さんは、それを怒りもしない。
最後まで穏やかで何の苦情も仰らない。
そして青山さんは金井さんに言います。
「実は日本では忘れられた島、しかしアメリカでは奇跡の島と呼ばれています。あれ程激しい肉弾戦をやったのに春になれば日米の兵士が集まり合同慰霊祭をやっている、だから奇跡の島と」
金井さんは静かに聞いている。
青山さんは続けます。
「それなのにアメリカ軍の生き残りは子や孫を連れてくる。みんな国費で来ます。そしてこの戦いで戦死したアメリカ人は皆、英雄と称えられる。祖国を守った英雄です」
「ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分達で出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方は今だに滑走路の下の岩の下に閉じ込められたままになっています」
金井さんはぐっと眼を開いた。
「金井さんこの違いはなんですか?本当は日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊でなく悪者だから忘れてよかった、悪者だから放っておいて良かった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使って良かった、これが戦後の真実なんですね?」
金井さんは突然大きな声を出された。
「その通り!俺達のどこが悪者なんだ!お前たちのためにみんな戦ったんだ!」
ただ静かに
金井さんはポツポツと語り始めます。
静かにポツポツと、穏やかに。
「もう、死を覚悟してね、私の部隊は地下壕に閉じ込められてね。栗林忠道閣下を尊敬しいたから、閣下が自決するなと言うからそれを守って、呼吸もしにくいけどね、じっと我慢して真っ暗な中で耐えていた」と仰られる。
「ところが自分の隊に少年兵がいてね。恐らく18歳かね17歳かもわからない。一番若いやつのハラワタが出ていて、暗がりで手探りすると明らかに腸に触ってね。そいつが苦悶して苦悶して、苦しんでね『小隊長殿、自分は栗林中将の、司令官の御命令に背くけれど自決したい』と言う。」
「私はもう我慢しきれなくてね、よし、いいぞ、お前自決しろと言ってね。彼が手榴弾を抱え込んで自爆した、その衝撃で上に穴が開いてね、島を占領したアメリカ兵がたまたま通りかかって、日本兵がいたから、それで私は捕虜になって硫黄島から抜けることができたんです」
と、生き残った理由を話された。
この自決した若者がどうして悪者なんでしょうか?
この地下壕の水はドラム缶に溜めた雨水が頼りです。
しかし、この地下壕でも戦友があっと言う間に吹き飛ばされて戦友の血や肉や髪の毛があっと言う間に水に混ざる。
けれども水はこれしかなく、命の水です。
しかし、飲むと甘い。甘露の様に甘い。
甘くて美味しいのです。
しかし、先に死んで行く戦友に末期の水だと思って、そのドラム缶の中から汲んで戦友の唇に浸すのです。
あの熱い熱い硫黄島の地下壕は気温が70℃にもなります。
するとドラム缶の水はたちまち熱湯になる。
だから唇に浸すと、唇がブワーと腫れ上がる。
火傷をして腫れ上がる。
しかし末期の水はそれしかありません。
金井さんは戦後、あの腫れ上がる唇ばかりを思い出す。
だから金井さんはこう仰らる。
「毎日毎日ね、お水をひやしてね、それはお水をキリリと冷やして真南に向かってお供えしてるんですよ」
だからと言って我々にどうしろとは仰られない。
そして
講演会は大盛況のうちに、大延長もして終了しました。
場内は地元沖縄県民も涙を流して聞いていました。
外に出て少し休んでいると地元の方、歳は60代くらいと思われる方と少し話しをしました。
その方は「硫黄島の話を初めて知った、それが沖縄戦に繋がってるなんて初めて知ったよ。そんなこと一度も教えられなかったよ」と。
硫黄島陥落の翌日から米軍は沖縄慶良間諸島を攻撃しています。
それを60代の沖縄県民、ウチナーンチュも知らないなのです。
これが日本の実態なのです。
私の閣下
少し講演会では話されていない硫黄島の話しをしてみます。
栗林忠道中将を「うちの閣下」と呼ぶ男性。
貞岡信喜さん。
貞岡さんは軍属です。軍属とは軍人ではありません。
軍の仕事をする人達です。
貞岡さんは縫製工で高級将校の軍服を直したり、新調する仕事をしていました。
ある時栗林中将から「シャツを仕立てられないか?」と頼まれました。
しかし、シャツなど仕立てた事はなかったそうで、既存のシャツをバラバラにして研究し栗林中将の為にシャツを仕立てたそうです。
それを栗林中将がたいへん気に入り、それ以来随分と可愛いがって頂いた様です。
親子ほど歳の違う貞岡さんに目をかけて可愛いがっておられました。
栗林中将は近衛師団。
近衛兵は家柄もよく、三親等以内に犯罪者がいないなどエリート中のエリート、団長まで務めた、将校の中でもエリートです。
しかし栗林中将はそんな身分を感じさせず、軍属の人々にも優しく接していました。
思いやりがあり、温かい人柄。
だからこそ、硫黄島で部下達を説得できたのでしょうね。
更に向学心の強かった貞岡さんを特に可愛いがっておられ。
例えば「車に乗れ」と将校達は命令口調なのですが栗林中将は「車に乗りなさい」と優しく声をかける。
真ん中に栗林中将、その右後ろが貞岡さん
天皇陛下から下賜された鴨鍋の食事会に貞岡さんは招かれたりしました。
当時の軍人階級では考えられない事です。
ある時に部下の見舞いに病院から出てこられた栗林中将に貞岡さんが「閣下が直接見舞われては部下の方々は緊張してお疲れになるのでは?」と冗談を言ってみたそうで、栗林中将は「ん~そうかなぁ…」と仰り、それ以来、部下の見舞いには病室へは行かず貞岡さんに見舞いの品と伝言をされ車で待っていたそうです。
貞岡さんは栗林中将が硫黄島に赴任する際に、父の様に慕う栗林中将に付いて一緒に硫黄島に行きたいとお願いしたそうです。
ところが「駄目だ!親孝行しろ!」と、初めて叱られ、却下されたそうです。
戦局の悪化にともない、どうせ死ぬなら閣下のもとで…と父島へ渡ります。
どうにか頼み込んで栗林中将に電話を繋いでもらいます。
しかし「コラッ!渡島あいならん!」と、怒鳴られけんもほろろに返されたそうです。
その後の家族に宛てた手紙に栗林中将は貞岡さんの事を「私を慕って会いに来たのに追い返してしまったのは悪い事をした…」と書かれたそうで、その後の手紙に幾度と貞岡さんの話しが出て来たそうです。
そして、「東京へきたら貞岡は立ち寄るだろうからその時は玄関だけにせず、何でもある物をやって下さい」と書いています。
この青年を生き延びさせようと、敢えて心を鬼に貞岡さんを追い返したのでした。
その後、栗林中将は貞岡さんにハガキを出しています。
そのハガキは貞岡さんの自宅の金庫に仕舞われています。
その貞岡さんが硫黄島に渡れたのは、硫黄島の激戦から33年経った昭和53年。
慰霊団の一員として硫黄島に渡りました。
栗林忠道中将が潜んでいた司令部壕の方向を示されると貞岡さんはそちらに駆け出しました。
そして有らん限りの声を出し
「閣下ーっ!貞岡が只今参りましたーっ!」と叫ぶのでした。
我々は何者でしょう
英霊を訪ねる旅は終了。
皆さんは何か感じられましたか?
自分は益々、疑問や問い掛けが増えてしまいました。
頭では理解していたのです。
しかし、やはり、現場に触れ、この手と足、目や耳、匂い。
全てで現場を感じ更に疑問が増えます。
「一体我々は何者なんでしょうか?
日本人とはどう生きて、どう死ねば良いのでしょうか?
我々の生き方とは?
我々の死に方とは?
何の為にに生き、何の為に死ぬのか?
我々は愛する人、愛する国、我が祖国の為に死ぬ事が出来るでしょうか?
敗戦後教育で嘘を教えられ、我々の先達を悪者にして忘れ去って来た。
我々は本当に胸を張って「日本人」だと言えるのでしょうか?
先達は我々が暮らす祖国日本を命を捧げ守りました。
それは紛れもなく至高の愛です。
最高の忠誠心です。
その愛に育まれて我々は存在しています。
我々の暮らす日本、我々日本人はその愛に報うことが出来るでしょうか?
英霊を訪ねて~番外編