日本ユーラシア協会広島支部ニュース2024年10月31日
【ロシア語能力検定】10月26日、27日実施されました。次回は2025年5月25日、3級4級が実施されます。
【国際フェスタ2024】11月24日(日)広島国際会議場及びその周辺で開催予定です。世界の屋台、バザールに参加します。(右のチラシ)
【全国女性・青年集会9月28日~30日】盛況裡に開催されました。カザフスタンから日本に「竹取物語」の研究のために留学されているシャラフアットさんの手紙を紹介します。
●日本ユーラシア協会の皆様
平素より格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。
この度は全国青年女性集会の際、カンパをいただきまして、誠にありがとうございました。
カンパの呼びかけをしてくださった黒川広島支部長に感謝申し上げます。
カンパとして皆様から合計2万3千円のご寄付をいただきました。ご協力くださった方々に心よりお礼申し上げます。皆様のおかげでホテル宿泊二泊分を捻出することが出来ました。内藤祐太青年共同委員長は無料航空券を手配してくださいました。また伊藤彰倫青年共同委員長は海鮮居酒屋での夕食懇親会の費用を払ってくださいました。皆様からの多大なるご協力のおかげで、広島を訪れて、宮島にも行くことができました。今後とも、皆様のご期待に沿うべく、一層の努力を重ねてまいる所存です。ご支援に心より感謝申し上げるとともに、皆様のますますご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
ジルキバエワ・シャラフアット カザフスタン共和国 アルマティ市 現在東京に留学中
[写真下は参加者一同]
【ロシア語能力検定】10月26日、27日実施されました。次回は2025年5月25日、3級4級が実施されます。
【国際フェスタ2024】11月24日(日)広島国際会議場及びその周辺で開催予定です。世界の屋台、バザールに参加します。(右のチラシ)
【全国女性・青年集会9月28日~30日】盛況裡に開催されました。カザフスタンから日本に「竹取物語」の研究のために留学されているシャラフアットさんの手紙を紹介します。
●日本ユーラシア協会の皆様
平素より格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。
この度は全国青年女性集会の際、カンパをいただきまして、誠にありがとうございました。
カンパの呼びかけをしてくださった黒川広島支部長に感謝申し上げます。
カンパとして皆様から合計2万3千円のご寄付をいただきました。ご協力くださった方々に心よりお礼申し上げます。皆様のおかげでホテル宿泊二泊分を捻出することが出来ました。内藤祐太青年共同委員長は無料航空券を手配してくださいました。また伊藤彰倫青年共同委員長は海鮮居酒屋での夕食懇親会の費用を払ってくださいました。皆様からの多大なるご協力のおかげで、広島を訪れて、宮島にも行くことができました。今後とも、皆様のご期待に沿うべく、一層の努力を重ねてまいる所存です。ご支援に心より感謝申し上げるとともに、皆様のますますご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
ジルキバエワ・シャラフアット カザフスタン共和国 アルマティ市 現在東京に留学中
[写真下は参加者一同]
【ぺあせろべ2024】10月6日、広島城内広場で実施されました。[写真はブース]
(飲み物クワスが好評) (大人もこどもも絵付けに夢中)
【日本被団協のノーベル平和賞受賞に際して】 黒川冨秋
高校の後輩が「被団協に入っているのでしょ。ノーベル平和賞受賞はよかったですね。」と声をかけてくれた。「母親が入市被爆者だから私も原爆被害者の会の会員なんよ。」と素直にうれしい気持ちを表した。同時に「アフガニスタンで倒れた故中村哲さんが受賞されていたら」とも思った。日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は1956年8月10日、長崎市での第2回原水爆禁止世界大会2日目に結成(代表委員は広島大学の森瀧市郎さん他)された。広島・長崎で炸裂した原子爆弾は人と物を焼き尽くしただけではなく、被爆した多くの人の人生を奪い、放射能後傷害を体に刻みつけた。10月11日の国会内での受賞報告集会では田中重光代表委員が「2025年3月開催予定の核兵器禁止条約締約国会議への参加」を訴えられた。
雑誌「自然」1966年2月号に佐久間澄さん(広島大学理学部)の「三村剛昂先生の想い出」が掲載されている。「原爆が(三村)先生の心に与えた傷はきわめて深く、原爆への怒りと、核兵器による人類滅亡への憂いとは、亡くなられるまで止むことなく続いた。」「戦前も先生は、日本学術研究会議会員として活躍しておられたが、戦後いち早く、研究体制の再建に心を用いられ、とくに日本学術会議の創立には骨を折られた。学術会議会員には、二期までしか出られなかったが、1952年10月第13回総会で、茅・伏見両氏によって日本原子力委員会設置の案が提案されたときの先生の発言は、文字通り、歴史的大演説であった。“米ソの緊張がとけるまで、原子力研究は絶対してはいけない”と主張される、無惨な体験に裏づけられた声涙下る大演説は、ついに提案を撤回させただけでなく、のちに、坂田教授らの尽力による原子力平和利用の三原則確立の礎石をなしたものであった。原水禁運動には、科学者京都会議に参加されたほかは、手を染められなかった。」「このお考えは、(1965年)10月9日に私がお見舞に上ったとき、最初に、“今度はもうだめじゃ。心残りは何もないが、ただアメリカが核戦争をやり、アメリカ自身が原爆でやられるのを見ないで先に死ぬのが、一つだけ残念じゃ”といわれた言葉の中にも窺われる。」
三度、いや一度たりとも許すまじ原爆を。[写真:箕牧智之さんの記者会見での発言。]
[秋のイベント]ブログでご案内します。炭本遵さんのボルゴグラード訪問記の14回目も次号以降に。
(飲み物クワスが好評) (大人もこどもも絵付けに夢中)
【日本被団協のノーベル平和賞受賞に際して】 黒川冨秋
高校の後輩が「被団協に入っているのでしょ。ノーベル平和賞受賞はよかったですね。」と声をかけてくれた。「母親が入市被爆者だから私も原爆被害者の会の会員なんよ。」と素直にうれしい気持ちを表した。同時に「アフガニスタンで倒れた故中村哲さんが受賞されていたら」とも思った。日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は1956年8月10日、長崎市での第2回原水爆禁止世界大会2日目に結成(代表委員は広島大学の森瀧市郎さん他)された。広島・長崎で炸裂した原子爆弾は人と物を焼き尽くしただけではなく、被爆した多くの人の人生を奪い、放射能後傷害を体に刻みつけた。10月11日の国会内での受賞報告集会では田中重光代表委員が「2025年3月開催予定の核兵器禁止条約締約国会議への参加」を訴えられた。
雑誌「自然」1966年2月号に佐久間澄さん(広島大学理学部)の「三村剛昂先生の想い出」が掲載されている。「原爆が(三村)先生の心に与えた傷はきわめて深く、原爆への怒りと、核兵器による人類滅亡への憂いとは、亡くなられるまで止むことなく続いた。」「戦前も先生は、日本学術研究会議会員として活躍しておられたが、戦後いち早く、研究体制の再建に心を用いられ、とくに日本学術会議の創立には骨を折られた。学術会議会員には、二期までしか出られなかったが、1952年10月第13回総会で、茅・伏見両氏によって日本原子力委員会設置の案が提案されたときの先生の発言は、文字通り、歴史的大演説であった。“米ソの緊張がとけるまで、原子力研究は絶対してはいけない”と主張される、無惨な体験に裏づけられた声涙下る大演説は、ついに提案を撤回させただけでなく、のちに、坂田教授らの尽力による原子力平和利用の三原則確立の礎石をなしたものであった。原水禁運動には、科学者京都会議に参加されたほかは、手を染められなかった。」「このお考えは、(1965年)10月9日に私がお見舞に上ったとき、最初に、“今度はもうだめじゃ。心残りは何もないが、ただアメリカが核戦争をやり、アメリカ自身が原爆でやられるのを見ないで先に死ぬのが、一つだけ残念じゃ”といわれた言葉の中にも窺われる。」
三度、いや一度たりとも許すまじ原爆を。[写真:箕牧智之さんの記者会見での発言。]
[秋のイベント]ブログでご案内します。炭本遵さんのボルゴグラード訪問記の14回目も次号以降に。