音楽評論(クラシック)の大御所だった吉田秀和さんが亡くなられてからおよそ7年になる。
あまり肌合いがマッチした評論家ではなかったが、いかにも存在感が大きかっただけに、はたして吉田さんに続く後継者は現れるんだろうかと思っていたら、どうやらちゃんとふさわしい方がおられたようだ。
「クラシックの核心」(2014.3.30、河出書房新社刊)を読んでそう思った。「です、ます」調の柔らかい文体がいかにも吉田さんの著作を彷彿とさせてくれたし、中身も濃い。
著者の名前は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄を伺うと1963年生まれで現在は慶應義塾大学法学部教授。
過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。
本書の内容は次の構成になっている。
1 バッハ 精緻な平等という夢の担い手
2 モーツァルト 寄る辺なき不安からの疾走
3 ショパン メロドラマと“遠距離思慕”
4 ワーグナー フォルクからの世界統合
5 マーラー 童謡・音響・カオス
6 フルトヴェングラー ディオニュソスの加速と減速
7 カラヤン サウンドの覇権主義
8 カルロス クライバー 生動する無
9 グレン・グールド 線の変容
この中で特に興味を惹かれたのは、「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」だった。
前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)
「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がだんごになって』聴こえることが重要だ。
フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」
オーディオ的にみて実に興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが目的の我が家のシステムとフルトヴェングラーとの相性が良くないのもそういうところに原因があるのかもしれない。
通常「いい音」とされているのは、端的に言えば「分解能があって奥行き感のある音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼやけた音」が不満で遠ざけたタンノイさんだが、逆に捨てがたい味があったのかもしれないと思った。
ただし、改造したことにいっさい後悔はしておりませんが(笑)。
それにしても、改めて「いい音とは」について考えさせられるお話だった。
次にグールド論についてだが、これはグールドファンにとっては必見の内容で、まだお読みになっていない方はぜひお薦めします。
稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄して録音活動だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。
まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。
☆ グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。
☆ お客さんのプレッシャーに弱かった。
☆ 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。
そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)
「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。
たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。
したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽鑑賞は成立しないし、ありえない。」
以上、初めて聞く新説だが40年以上にわたってひたすらグールドを聴いてきたので“さもありなん”と思った。非常に説得力があると思う。
そもそもライブのコンサートには(よほどの演奏家を除いて)興味がなく、ひたすら「文化果つる田舎」(笑)の自宅のシステムで音楽に聴き耽る自分のような人間にとってはまことに「我が意を得たり」である(笑)。
「音楽は生演奏に限る。オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、けっして自慢できる話ではなく、ほんとうの音楽好きとは違うことを銘記しておかなければならない。
さらにオーディオ的に興味のある話が続く。
「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。
チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。
グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていた理由もこれで納得がいきそうだが、響きの多いオーディオシステムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりのとおり。
したがって、グールドの演奏はJBL系のシステムが似合っていて前述のフルトヴェングラーの演奏とは対極の位置にあることが分かる。
結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる。
逆に言えば、一つのシステムで何から何までうまく鳴らそうなんて思うのは虫が良すぎるのかもしれない。
世の中にはそれこそピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる録音と演奏がありそうだと考えると何だか楽しくなりますね~(笑)。
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