2日間の車検を終えて、無事(?)戻ってきた我が愛車。
乗車年数9年、走行距離18万5千kmというのは普通のクルマに比べるとやや”度が過ぎている”とはいえ、所要経費が37万円というのはいくらなんでもひど過ぎる!
明細書を片手にじっくりディーラーと交渉。
内訳は車検分が15万円。これは法定費用も含まれているし、まあこんなもの。問題は残る特別整備費用22万円でこの分については改めて24~25日にかけての作業となる。
10万kmごとに交換するタイミングベルトに伴ってクランク・シャフト、ベルト・テンショナー、ウォーター・ポンプなど舌を噛みそうな名前の部品の取替え、あとはスパーク・プラグとイグニッション・コイルの交換、さらにショック・アブソーバー1本の交換などが占めている。
これらの部品が走行にどう影響があるのかあまりよく分からないが何せ運転中は常に事故の危険性と裏腹の状況で半分は命を預けているといってもいいクルマだし、遠距離を乗りこなして釣りに行った先で故障でもされるとまったくのお手上げ状態、そういう不安もつい頭の中をよぎる。
やっぱり、仕方がないか。「よし、あと9万km乗るぞ~」と決心して結局全体で2万円程まけさせて手を打った。
さて、「ノー・カー・デイ」ということで始めた「濫読シリーズ」も「その2」については結局3冊の本に終わった。12日だけで終わる予定が司馬遼太郎さんの力作で分厚い「空海の風景」を読み耽ってしまいおかげで13日にまで食い込んでしまった。分量としては「空海の風景」だけで3冊分はある感じ。
それでは読んだ順番に。
☆ 白昼の悪魔(アガサ・クリスティ作 早川書房)
ミステリの女王アガサ・クりスティにはそれこそ膨大な作品群があるがそのうちでもAランクに位置づけされる作品ということで読んでみた。
風光明媚な避暑地の孤島で滞在中の魅力的な元女優が殺害され、たまたま居合わせた名探偵ポアロが殺人のトリックを見破って犯人を見つけ出すという筋書き。
トリック、犯人の意外性(特に共犯者)が鮮やかで「Aランク分類」に納得だが、クリスティの作品に共通して見られる関係者への尋問が延々と続きそのスタイルがやや古くさくて少々退屈した。1941年に発表された作品なので仕方がないがもっと快調なテンポが欲しいところ。
☆ 偽のデュー警部(ピーター・ラヴゼイ作 早川書房)
「新海外ミステリ・ガイド」(2008年10月20日、仁賀克雄著)が選んだ「ベスト100」に食い込んでいる作品で、おまけに年間最優秀のミステリに贈られる英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー受賞(1983年)とくれば、面白くないはずはないと思うのが当たり前でワクワクして読み始めたがそれがどうもいまいち。
そのうち、きっと手に汗握るような展開になると自分を励ましながら読み続けるも登場人物がやたらに多くて途中で誰が誰やら分からなくなったりで散々。とうとう最後まで期待ハズレのまま苦痛のうちに読み終えた。まあ、こういうこともある。自分の読解力だってけっして十全ではないのだから。
☆ 「空海の風景」(司馬遼太郎全集第39巻 文藝春秋)
高校時代の同窓生でオーディオ仲間のO部君がかねて推奨していた本でずっと以前から気にはなっていたが、やっと”ヤル気モード”になった勢いで手にとってみた。ただし、こんなに有名で上質な本を今頃になって読むというのもちょっと”ズレテ”いるのかもしれない。
読後感を一言でいえば「手に余るほどのズッシリとした重量感」という表現になるのだろうか。
本書の表題をことさらに「風景」とした由来を次のとおり著者が述べている(353頁)。
真言宗の開祖、空海(774~835:平安初期)が生きていた時代があまりにも遠いため、どうしてもその人物像についての現実感が乏しくなる。
そこで空海という人物の声容を少しでもなま身の感覚でつかもうと彼に因んだ風景を次々に想像していくことで少しでもその一部が現われはしまいかということから「風景」としたとのこと。
ということで本書の内容のうち空海の言動に関する描写は端的に言えば著者(司馬遼太郎)のまったくの想像の産物となっているといえ、これを受け止める読者側からすると著者が提供した空海の人物像がどれだけ真に迫っているかということになるのだろう。
しかし、その点はさすがに司馬さんで膨大な資料を駆使して裏づけとなる綿密な考証には少しもゆるぎがないところ。
空海を異能の天才として位置づけ、遣唐使の一員として入唐してからの八面六臂の活躍や帰国後の最澄(天台宗の開祖)との確執が生き生きと描かれる。その生々しい人間臭さは1200年前の時代を一気に現代に蘇らせるような迫力がある。
宗教家であり思想家である「空海」を決して偶像視せず、「空海に終生つきまとううさん臭さは、彼が人間の世の中を緩急自在に操作する才質をしたたかに持っていたことと無縁でない」とその人物像を裸にして身近な存在にしているところが全編を通じての本書の特色といってよい。
また、「日本三筆」の一人として名筆家の空海の書風が「唐に居たときと現在とでは違う」と嵯峨天皇から指摘されたときに、「日本のような小さな入れ物(国)にあるときにはどうしても書体が違ってくるものです」と言い放つところがいかにも天衣無縫の空海らしいエピソード。
結局「どんな偉人でも所詮は同じ人間に変わりはなし、そして人間の本質というものはいつの時代でも変わらないのだなあ~」というのが単純かつ率直な感想。