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┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1985~1988:中西健夫】Vol.03┃
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‡2016(平成28)年03月07日(水)
2016(平成28)年01月20日(月)@恵比寿にて
関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー!
株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫
1985(昭和60)年以降、株式会社ディスクガレージにて、イベンターの立場でコンサート面に力を注がれたBOOWY伝説の立役者のひとり。1987年12月24日の渋谷公会堂で、氷室京介による解散宣言ともとれるMCを、拡声器片手に会場へ入りきれなかった場外のオーディエンスに向けて、メッセージとして伝えていた方としても知られている。なお、中西氏は1997年より株式会社ディスクガレージの代表取締役をつとめており、イベンター業務にとどまらず活動領域を広げている。2時間に渡って繰り広げられた、数々のBOOWY伝説を裏付ける貴重な1万5千字トークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――当サイト『BOOWY HUNT』で掲載している、BOOWY年表に沿って、中西さんが気になるところからお話を伺っていきたいなと思っています。
実は、1987年当時の『BOOWY HUNT』1冊目でもインタビューを受けているんですよ。当時、この大判スタイルの雑誌は他ではなかったので、めちゃめちゃかっこいいと思いました。ファッション誌やアート誌とデザイン性の高さが変わらないですもんね。センスありますよね。80年代末に、このクオリティーを作り上げていることに改めてびっくりしましたBOOWY HUNTはこちら)。
――BOOWYのライブの歴史において、中西さんはファンの間でもキーマンとして知られていますが、もともとBOOWYのイベンターを担当されていたディスクガレージという会社は、BOOWYの事務所だったユイ音楽工房と、フジパシフィック音楽出版と、東洋化成の3社が出資して作られたレコード店だったそうですね?
そうなんです、だからディスクのガレージだったワケですよ。で、ディスクもCじゃなくてわざわざKにしたっていう。僕は、設立当時はまだいなかったんですけどね。
――当時の時代背景を知る為にも、ディスクガレージに入られた流れから伺ってもよろしいですか?
はい。そもそも僕は1980年に、京都からバンド活動で東京に出てきました。日本コロムビアからメジャーデビューしたのですが、まったく売れなかったんですね。それで「これは困った。飯が食えないぞ!」と。それで、担当ディレクターに「バイトない?」って聞いたら「先輩が会社作るんだけど、レコード店らしいから、そこでバイトすればいいじゃん?」と言われて。それが、吉祥寺にディスクガレージを立ち上げる直前でした。当時ユイ音楽工房は原宿にあったので、商品となるレコードがたくさん納品されてたんですね。そこで検品のアルバイト仕事からはじまったのがスタートです。
――今でいうITベンチャーがガレージ(車庫)オフィスからはじまった、みたいな話ですよね。そこからどうしてディスクガレージはイベント制作を?
ちょうど貸レコード屋さんが盛り上がってきた時代なんです。レコード店はけっこう苦労していて。それなのに、ものすごい立派なレコード店を作っちゃってたんですね。ふと気がつくと借金が膨らんでいる状態で(苦笑)。ユイ系のアーティストもレコード店に来たり、当時は斬新だったライブビデオ上映をしたりとか工夫はしていたんです。でも、とにかく立地がよくなかった。駅前に、日本一レコードを売っているような山野楽器があったし。しかも、駅との間に貸レコード屋までできちゃうし(苦笑)。
――なるほど。
で、ユイ音楽工房は東京でライブ制作をやっていたんですが、その周辺の千葉、埼玉、神奈川をディスクガレージに任そうという話になって。ユイグループのアーティストの東京以外のライブをやるようになりました。
――けっこう早い段階から、レコード屋さんからイベント制作へ移り変わっていたのですね。
僕も、元アーティストっていう意識があったのでレコードショップの店頭に立つのは厳しかったんですよ。レジ打ちがあまり上手くできなくて(苦笑)、すぐピーッと鳴らして「これどうしたらいいの?」って(笑)。あまり向いてないなぁみたいな。なので、イベントの方を主力にやりはじめました。
――担当されていたのは、当時でいうとどんなアーティストだったんですか?
長渕剛さん、南こうせつさん、風、庄野真代さんなど、まぁユイ音楽工房周辺のアーティストですね。時代的にフォーク・ニューミュージック界隈が盛り上がっていて。吉田拓郎さんがスーパーヒーロー、井上陽水さんもフォーライフの絡みでやってましたね。
――だんだんと、ユイ以外の制作も増えていったんですね?
当時の人にしかわからないことなんですけれど、音楽業界のなかで東のユイ、西のヤングジャパンっていう二大勢力がありまして。ユイグループのディスクガレージはヤングジャパンには侵食してはいけなかったんですね。僕はそれを知らなくて、佐野元春さんがめちゃめちゃ良いと思って、佐野さんのところに行っちゃって。それがヤングジャパン・グループの事務所ハートランドだったりするワケですよ(苦笑)。で、お断りされて……。そんな厳しい時代がありました。でも、そんななか唯一、関係なくやってくれたのがシンコーミュージックという事務所にいた甲斐バンドだったんです。当時、甲斐バンドのマネージャーだった佐藤剛さんは、その後も事務所としてファイブ・ディーを立ち上げられたり、作家活動でご活躍されていますけど、剛さんが「バンドにとって一番良い人が担当をやればいいんじゃないの?」って言ってくれて、初めてユイグループ以外のコンサートを東京でやれることになりました。あとは、HOUND DOGですね。80年代、だんだんと、ロックの動きが少しずつ出てきた時代です。そして、シンコーミュージックとの流れでレベッカとも出会って。
――先日の復活ライブでも裏方として中西さんは活躍されてましたが、レベッカはその時からなんですね。
そうなんですよ。だから、BOOWYとレベッカというのは一緒の時代に担当していて。それを僕はとにかく仕掛けて仕掛けて仕掛けていました。それが評価されて、まぁ、いろんなコンサートをできるようになっていくっていう。
――BOOWYとの出会いはどんなタイミングだったんですか?
これはまさに、糟谷銑司さん(BOOWYのプロデューサー)にあの感じのノリで「BOOWYってバンドがいるんだよ。とりあえずちょっと見に来いよ!」って言われまして。で、新宿ロフトへ観にいきました。たぶん、まだ契約するかしないかってぐらいの時だったと思います。まだ、マネージャーの土屋浩も知らない頃ですから。BOOWYの印象は、すごいパンクなのに歌謡テイストもあって、何しろギターのフレーズにインパクトがあるし、ヒムロックの声も素敵だな?と一気にもっていかれました。というか、これまで聞いたことがないサウンドでした。大事じゃないですか? 「こんなバンド他にいない!」みたいなことって。
――具体的にはどんなところに魅力を感じられましたか?
パンクとポップって通常アンバランスになるものが、BOOWYは融合できていたんです。とんがっているんだけど一般の人もいけるみたいな。両極端を折衷できるバンドで。パンクなのにメロディアスという。そんな振れ幅があるバンドは当時いなかったんですよね。それと余計な音が一個も入っていない。だから何もかもがダイレクトに聴こえてきたんです。初めてロフトで観たのは、……たぶん1984年の7月7日あたりかな。
――糟谷さんにはどんな感想を伝えました?
「めっちゃいいと思います!」的なリアクションをしました。「だろ?」みたいな(笑)。その後、マネージャーの土屋氏と会って、いろいろ話して「原宿から攻めようぜ!」ってなりました。原宿のいわゆる当時でいうブティック(服屋)ですね。ちょっといかした店にBOOWYのカセットテープを持っていって「これかけてください!」って。「ストリートから生まれなきゃいけない、音楽は!」なんて張り切ってやってましたね。あと、BOOWYのステッカーをいろんなところに貼りまくるっていう。
――ステッカー作戦は、後にBOOWY の影響で、BUCK-TICKや氣志團もやられてましたね。当時、そういったストリート・プロモーションという発想は新しかったんじゃないですか?
夜な夜なツッチー(土屋)と飲んで、いつも馬鹿なことを考えていたんですよ(苦笑)。で、飲みに行っては女の子をどう落とすか?っていう大事なことと同じくらいのテンションで、新しいプロモーション案について話し合っていました。よく顔を突き合わせて会ってましたね。ストリート・プロモーションだなんて、たいそうな意識もなく、ステッカーを貼ったり、ポスターの街貼りをしたり。あと、音をかけてもらうことって大事じゃないですか? 事務所も原宿あたりにあったので、よく竹下通りに足を運んでいましたね。
――その頃の忘れられないエピソードってあったりしますか?
原宿のお店に飛び込みで行った時に「BOOWY知ってるよ!」って言われたことが嬉しかったですね。「いいバンドだよね!」って。若い姉ちゃんにいわれて。「おっ、知ってるんだ!」って「カセットテープもう一本ちょうだい! わたし用で」って。「じゃあ、ステッカーもあげるよ!」って「うわ、これ最高!」というやりとりが嬉しくてね。そんなひとつひとつの積み重ねなんですよ。当時はまだメディアにはまったく登場していなかった時期ですね。なので、口コミが本当に大事で。今のネットの拡散と違って、当時の口コミというのは強かったんですよ。つながりって大事で。拡散はそんなにできないけれど、信頼感を持って伝わる人には確実に伝わっていく。そんなことを経験しました。
――当時、BOOWYはライブハウス中心で活動されていたと思うのですが、ライブ展開をどんな風に広げていくなどイメージはあったんですか?
東芝EMIへ移籍して、1985年4月13日に赤坂ラフォーレでコンベンションをやりました。これまでのイメージとは真逆の場所を選ぼうと考えて。当時の赤坂ラフォーレって、ファッション・ビルの多目的スペースで、とてもオシャレな場所だったんです。そこでマスコミ向けのコンベンションをやるっていう違和感。それまで渋谷ライブインや新宿ロフトでやっていたバンドがですよ。そこに舞台演出もあるかっこいいステージを組んで。来た人に「え?」ってインパクトを残せるようなライブを仕込みました。
――それはおもしろいですね。あと、驚きなのですが、コンベンションから2ヶ月後の1985年の6月25日に渋谷公会堂でワンマンをやっているんですよ。というかキャパシティ的にステップアップすぎて、……賭けですよね?
賭けどころじゃなかったです。無理だろうなって(笑)。でも、僕らが大好きなのは、無理だろうなってことにチャレンジしていくこと。そうすると、チームが結束できるんですよ。「ロックの殿堂、渋公へ!」みたいな目標設定。で、「渋公ストーリーは成功する!」というようなことを言い切って。でも、糟谷さんも土屋氏も「いや無理だろうな」って(苦笑)。で、僕も「無理だろうな」って(苦笑)。実は売り切れてないんですよ。会場にいた人はわかると思うんですけどね。
――それもまた伝説のひとつですよね。
で、ヒムロックは覚えてないと思うんですけど、その日の打ち上げで彼に「2階席の一番後ろで見てたんだよ。次はここまで入って欲しいと思った!」みたいな話をしたんです。悔しくって。枚数も覚えてますよ、1685枚だったんです。
――数字まで覚えてらっしゃるのですね。
あとちょっとなんですけどね。2階席の上は入ってなかったんですよ。でも、あそこから始まった感がありますよね。
――でもチャレンジされた結果、渋公をやりとげたことで、バンドの知名度があがり、格段と勢いがついたんじゃないですか?
ハッタリって大事じゃないですか? だってBOOWYはライブも素晴らしいし、音源も最高でしたから。あとはどう成長していくかという。背伸びしない限りは伸びれないってことなんですよね。
――BOOWYが渋谷公会堂でのライブを実現させたことで、その後、渋公ストーリーって、さらにバンドの憧れになっていきましたよね。
渋公という聖地が、ステップアップの場所になりました。
――当時、BOOWY以外だと中西さんはどんなアーティストを担当されていたんですか?
甲斐バンド、HOUND DOGからはじまって。自分が仕掛けるという意味でいうと、レベッカですね。で、ビデオクリップの時代、いわゆるMTVの時代になっていったんです。どんなビデオを作るんだって話をみんなでよくしてました。洋楽の「この映像すごいよね!」とか。とにかく、かっこいいモノをみんなで吸収しようとしていました。それこそ飲み会とかで「最近観た良いビデオってある?」って話をよくしていて。当時はYouTubeとかSNSとかなかった時代なので、良いビデオクリップがあれば皆で情報交換して、一緒にVHSで観たりしてました。
――日本だとTVK(テレビ神奈川)の『Live TOMATO』とか『ミュージックトマトJAPAN』などの番組が、ミュージックビデオ普及に力を注いでいましたよね。ライブの告知もそこで知ることが多かったです。
そう、僕らはTVKとがっつりやってました。番組やイベント作ったり。で、一緒にやってたのが出版社ソニマガ(現エムオン・エンターテインメント)の音楽雑誌『パチパチ』だったんですよ。『パチパチ』とTVKとディスクガレージで、『パチトマ』っていうイベントを10年くらいやったのかなぁ。あと、NHKが新しいバンドをフィーチャーしたライブを放送する『MUSIC WAVE』という番組をやりはじめたんですね。ちょっと前だと、フォークの方々は「テレビには絶対に出たくない!」という時代だったんです。でも、僕らの時代は「テレビに出てもいい!」になりはじめていました。そこで、TVKというのは、すごくいいポジショニングでした。NHKに出るっていうのも、逆にいいポジショニングだったんですよ。
――1985年の12月31日に放送されたNHK『MUSIC WAVE』で、BOOWYの日本青年館でのライブが放送されていますが、タイミング的にも良いきっかけでしたよね?
放送後、評判が良くて電話が殺到したんですよ。初めて世間の人が知った瞬間だったかもしれませんね。当時、NHKはヤング・カルチャーを積極的に紹介していました。意外にNHKの人って早いんですよ。当時、その辺の采配をしてくれるプロデューサーがNHKにいたんですね。
――あと、すごいなと思うのが1985年、86年におけるホールでのブッキングです。1985年6月の渋公ライブは賭け的なところがあったと思うんですが、その後の『BOOWY'S BE AMBITIOUS TOUR』や『JUST A HERO TOUR』にかけて右肩上がりで動員が増えてますよね? でも、ホールを押さえるブッキングは、前もって仕込んでおかないといけませんよね? 1985年の3枚目にリリースされた『BOOWY』というアルバムは、まだそこまで大ヒットしたワケじゃないですよね?
全然してなかったです。
――なぜ1985、86年のツアーは、全国各地一気にホール公演にレベルアップすることができたのでしょうか?
1985年に2回、渋公をやったことで「BOOWYってバンドは渋公できるんだ!」みたいな口コミが起きたんですよ。NHKの『MUSIC WAVE』などメディアでの効果も広がりつつあった状況で。さらに『オールナイトフジ』っていう当時の超人気番組にも出演しているんですね。民放的な番組に出て、大衆にだんだん近づいていくんです。あと雑誌『ぴあ』がすごい取り上げてくれたり。音楽雑誌など紙メディアとの連携も効果が出てきてました。イメージ的なところだと、ワコールが運営している青山スパイラルホールっていう、赤坂ラフォーレの第2弾みたいなライブも1986年にやりましたね。開演前に照明を全部下まで降ろしておいて、開演と共に会場中の照明が上にあがっていくという。意味はないんだけど、みんな「おおお~!!!」と盛り上がる演出の工夫がありました。
――青山スパイラル・ホール、めっちゃオシャレな会場ということですね。今よりもっとブランド価値が高かった時代ですね。
そもそもBOOWYでやらせてもらうことが大変だったんです。「ロックバンドにはやってほしくないよ!」って言われていたアートなスペースでしたから。
――今でもロックバンドはやれないですよね。
なかなかやらせてくれない。でも、僕の京都時代の友人がワコールにいたんで「何とかしてよ~」みたいな(苦笑)。
――暗躍されてますね(笑)。そして、1986年の『JUST A HERO TOUR』で快進撃を続けていく中、7月2日の日本武道館での伝説的なライブがあったと。
これはイケると思ってましたね。売れてるときの気運ってあるじゃないですか? 「きてるなー!!!」と思ってましたから。武道館はもう躊躇なくできるって。やっぱり「渋公の次は武道館でしょ?」っていう。
――当時、バンドもスタッフも武道館への憧れは強かったんですか?
今の武道館とは感覚が違いますからね。そんなにやれる人がいなかった。あと、武道館は実はロックバンドがなかなか借りれなくて。たとえば、HOUND DOGがやった時に「絶対舞台から降りちゃダメ!」って言われていたのに、それをメンバーに言ったが故に、そこだけが残ってしまい降りちゃって怒られるみたいな(苦笑)。「ロックには絶対武道館は貸さん!」って言われたり。いろんなバンドがやらかしてくれた時代です(苦笑)。
――あはは。いっぱいあったんですね。『JUST A HERO TOUR』など、会場のキャパが広がってくなかで、プロモーション施策など、仕掛けられた企画ってあったのでしょうか?
ライブの広告の打ち方にこだわっていました。すごくビジュアルを大事にしていましたね。メンバーが持っているBOOWYの美学をちゃんと具現化しなければっていう。これは土屋氏とよくやり取りをしていました。どんなコピーを付けるかとか、こだわりを異常に持っていましたね。この時代って、糸井重里さんとかが出てきたコピーライターの時代でもあるんですよ。いろんなバンドでタイトル合戦みたいなことになっていて。センスの戦いですよね。その中でも僕は一番燃え上がってた人間なんで。「年間、このタイトルが一番良かった!」っていうのを取ってやると思って夜な夜な飲んでいた時代。まだ酔っていても話していたことを覚えてる時代(苦笑)。
――今だとネットでメールなり、SNSで時間や場所をこえて会話ができますけど、そんなコミュニケーションが当時は飲み屋さんであったり、夜な夜なおこなわれていたってことですね。
顔を突き合わせて話し合うことで、いろんな人との出会いだったり、アイディアが膨らんでいきましたよね。この前もレベッカの取材で話していて、1985年8月31日に日比谷野音をやるときに『宿題なんて忘れちゃえ』ってタイトルを付けたんですね。これが延々みんなの頭に残ってるんですよ。で、追加公演やるときに『ママはそんな急な話を許しません』とかね。バンドのイメージにシフトしたアイディアを常に考えてましたね。
――イベントのタイトルって残りますよね。
だから残るようなタイトルを必死になって作らないといけない。BOOWYは広告一個に対しても普通にしちゃいけないっていう、すごくこだわりを持って考えていました。
――BOOWYチームはそれこそ糟谷さん、土屋さんなど、個性の強いスタッフが集まってましたよね。
強すぎですよね。糟谷さんはライブ演出に特化していて、広告的なことには口を出しませんでした。ツッチーとは広告面やプロモーションについて一緒に考えてましたね。「他のバンドがこんな風にやっていたから、こんなことはやらない!」とか。真面目な話をしょっちゅうしていました。
――ライブの演出面で印象的なことはありましたか?
1986年の武道館でのライブですよね。あれは、これまで観たどんなライブよりかっこよかったですよ。あのステージセットは観たことのない世界観でした。そこに最強のライブ・パフォーマンスがあって、しかも「ライブハウス武道館へようこそ!」というMCやメッセージもあるという。やっぱり伝説になりますよね。
――映画『ブレードランナー』的というか、ディストピアなSF的世界観でしたよね。
照明も色合いも含めて、普通じゃないんですよ。この頃って、照明もデジタル制御じゃないんですよ。職人技。すごく温かいし、洒落てる。そんな時代ですよね。やっぱりライブの演奏っていうのは、途中でもたったり、速くなったりするんです。生ものを観てる感が強かったんですよね。
――武道館の一日で、覚えていることはありますか?
そうですね、現場だから当然前日から仕込みをして、武道館に泊まって、緊張感がバリバリでした。ライブはすげえと思っても、当たり前ですが裏側ではバタバタしてましたよね。その分、打ち上げは楽しかったです。ヒムロックと喋って楽しかったことを覚えていますね。
――そうなんですね。1986年の武道館タイミングでいうと、武道館公演が7月2日で、8月4日には新宿 都有3号地での野外ライブ『ウォーター・ロック・フェス』をやっているんです。BOOWYは3月に4thアルバム『JUST A HERO』を出していて、夏フェスにもいろいろ出演していて、11月には5thアルバム『BEAT EMOTION』を出しているという強烈なスピード感なんですよ。
今から思えばすごいスケジュールですよね。当時は、台風の目にいたので気がついていませんでした。ひとつひとつを大事に乗り越えようとしてましたね。都有3号地での『ウォーター・ロック・フェス』は東京都から話がありました。その前に、甲斐バンドで都有5号地。いわゆる今の都庁ができるまえの建設予定地でライブをやった実績があったんです。その後、東京都が「水を大切にしよう!」みたいなキャンペーンで、同じく都有地を使って何かイベントができないかって。BOOWY、米米クラブ、レベッカ、ストリート・スライダーズ、ウィーラードでそれぞれ5日間やりました。
――5日間限定で使える場所だったということなんですか?
そうですね。 5000人キャパぐらいだったのかな。
――あの日、BOOWYの時は、めずらしくゲストを迎えてのオムニバス・ライブとなりました。BOOWYをバックに、吉川晃司、梅原“PAUL”達也(44MAGNUM)、山下久美子、大澤誉志幸をヴォーカリストにむかえるという。しかも、「1994 -LABEL OF COMPLEX-」をBOOWYが吉川さんと実演するというスペシャルなライブまであって。
豪華な面々ですよね。「ピンじゃなくて、みんなでやろうよ!」ってアイディアが出たんですよ。「誰呼ぼうか?」なんて話をしていたのを覚えています。でも、どえらい大雨だったんですよね(苦笑)。
――雨なのに吉川さんは、ステージに登場するなりバケツで水をかぶるっていう男気で。あの場所で、大雨のなかロック・コンサートをやるのは大変だったんじゃないですか?
街中でもあったし、一番の悩みの種は病院が近かったことなんですよ。大変でした。音量問題ですよね。音は下げましたって言いながら謝り倒して逃げ切るっていう(苦笑)。規制がまだそこまで厳しくなかった80年代ならではですね。今じゃできないと思います。
――しかもあんな大雨だったっていう。
でもそんな時、僕らはスタッフに「カッパをたくさん買って来い!」って言って、200円で仕入れたカッパを500円で売るという(苦笑)。
――ビジネスチャンスですね(苦笑)。というか、ニーズに答える為にはカッパが必要ですもんね。
ディスクガレージでは「カッパ事件」と言ってます(苦笑)。でも、雨というか、当時ではめずらしくゲリラ豪雨でしたから。カッパ着ていてもぐちゃぐちゃですよね。
――都有3号地でのコンサート、雨降ったのはBOOWYだけだったんですか?
そう、BOOWYの日だけなんですよ(苦笑)。
――ほんと雨に恵まれているバンドですよね。レベッカは野外初ワンマンだったんでしたっけ?
そうですね。BOOWYとレベッカって時を同じくして駆けあがっていったんですよ。
――BOOWYとレベッカは何か接点などあったんですか?
無いと思いますね。当時のバンドってあんまり交流とか無かったんですよ。みんなわりと普通に独立独歩してましたよね。きっとライバル心みたいなものがあったんじゃないですか?
――だからこそ、それぞれのアーティストがセールス的にも動員も強烈に伸びていったワケですね。
すごい伸びた時代です。
――BOOWYがアルバム『JUST A HERO』や『BEAT EMOTION』などのヒットで一般化していくなか、ライブでの変化のようなものを、中西さんは感じられたりしましたか?
最初の頃は、ツアーで20曲ぐらいやるのに55分とか、ものすごいスピード感がありました。なので初期ビートルズみたいだなって。二分半です、みたいな曲もあって。それを普通のホールで観た時に、なんかすっげえかっこよかったんですよ。なんかもう、暴風雨のような風がぶわんと吹いて、え、終わった? 20曲以上やってるのに一時間くらいみたいな。かっこいいよね。で、MCもそんなに無いっていう時代から、だんだん曲調が変わっていくんです。曲自体に肉付きができ始めた時代ですよね。ビートだけでなくグルーヴを大事にすることで、短い曲ばっかりでは無くなったんです。成熟していった時代だと思います。最初はビジュアルもパンクで怖かったんですけど、「怖かった!」からなんか「かっこいい!」に進化していったんですよ。
――中西さん的にはBOOWYはどんなタイミングで売れたと実感されましたか?
『JUST A HERO TOUR』の時に、武道館公演もあったので「これはいくぞ!」って気分はありましたね。逆に「この先どこまでいくんだろう!」って思っていました。
――その先のこととか、目標や野望などお話はされていました?
してましたね。ツッチーと話していた流れでいうと、ひとつ良い事例があって。以前、期間限定で汐留PITってライブハウスができたじゃないですか? あれはもともとBOOWYチームの発想でもあったんですよ。「BOOWYのツアーを全国各地に期間限定でテントをたてて巡ろう!」なんて話がありました。それで僕もテント屋さんに相談したりして、その話は立ち消えになったんだけど、ピット自体はそこから派生して残っていますね。いろいろな面で、やっぱり時代の先をいってたのかもしれないですね。
――BOOWYチームの「新しいことを!」っていう感覚が中西さんとも波長が合ったんですかね。
そうですね。「何か新しいことをやりたい!」っていうのはいつも思っていたことなので。
――振り返らずにどんどんどんどん前へ進んでいくという印象がBOOWY。
1985年以降は売れていくスピードが速かったので、スタッフの僕らもスピードに追いつかないと振り落とされてしまうので大変でした。規模や予算が大きくなってくるので、スタッフも成長しないと追いつけなくなっちゃうんですよね。
――BOOWYのマネージャーだった、土屋さんと話をされていたなかで印象的だったこととかありますか?
いっぱいありますよ。あの頃は、すごい一緒にいたから。……もう亡くなっちゃいましたが、一言でいえば最高で最悪な男ですね(苦笑)。あんな男、他にいないですよ。
――なるほどです。そして、BOOWY は1987年、さらにステップアップしていきました。
神戸(7月31日)と横浜(8月7日)で『CASE OF BOOWY』という、これまでのバンドの歴史を振り返るコンサートがありました。全39曲というこの企画は、ネーミングを含めてすごい発想だったと思います。当時こんなライブを考える人は誰もいなかったので。ネーミングも最高じゃないですか? で、大変だったのが会場探しですよね。糟谷さんが「横浜と神戸でやりたい!」って言うワケですよ。当時、横浜アリーナがない時代ですよ? 「東京と大阪じゃないんですか?」って聞いたら「それはお前、中西、意味がないんだよ!」って言われ。「どう意味がないんですか?」って聞き返したら「意味のないことに意味はないんだよ!」って(苦笑)。でも、たしかに武道館じゃなかったんですよね。なんかあるんですよ。ニュアンスというか、感覚が。
――会場の横浜文化体育館は、どんなところだったんですか?
本当に体育館なんです。なので、設備を全部作らないといけないっていう。でもロックな感じがしましたよ、すごく。でも、これまでやったことのない企画だったから「この時に解散するんじゃないか?」っていうニュアンスをちょっとだけ感じたりしました。「なんで今振り返るの?」って普通に疑問に思いますよね。
――なのに、このライブの直前、7月22日にチャート初登場1位を記録した6thシングル『Marionette』がリリースという。世の中的にはここからってタイミングなんですよね。
さらに勢いが出てきた時期なんですね。その後、8月22日、23日グリーンピア南阿蘇アスペクタで行われたライブ・イベント『BEAT CHILD』がまた、記録的な台風で伝説のライブになって。あの時のBOOWYの盛り上がり方はすごかったですよ。しかも、8月9日、スポーツランドSUGOでのイベント『ROCK'N'ROLL OLYMPIC'87』の時も雨が降ってるんですよね(苦笑)。
――基本的に雨なんですよね。そして、9月5日には6thアルバム『PSYCHOPATH』をリリース。これまでのBOOWYのアルバムとはガラッと雰囲気が変わりました。
変わったんですよ。ビートルズが晩年変わっていった感に近いものを当時感じていました。ああこっちにいくんだって。アルバム自体も完成度が高く、素晴らしいアルバムでした。ただ、前作の『BAET EMOTION』がわかりやすいアルバムだった分、大衆を裏切るアルバムであったかもしれないですよね。ところがセールスは伸びていくという。
――それこそ、『PSYCHOPATH』ってタイトル自体、80年代には早すぎるセンスですよね。
早すぎますよね。というか、あらためてBOOWYのタイトルを振り返ってみると全部カッコいいんですよ。この時期、BOOWYのライブは売り切れが当たり前でチケットがまったく買えない状態でした。だからBOOWYのライブを生で観た人って異常に少ないんです。そのぐらい半端ない動員力でした。受け入れられるキャパシティのハコが追いついてませんでした。もともと動員力の方が先にいっていたバンドなんですよね。しかも、年表を見ればわかるんですけど、同会場での2Days公演とかやってないんですよ。もったいない(苦笑)。今だったら絶対ありえないじゃないですか? でも、まだ効率を考えるような時代じゃなかったんですよね。
――最後のツアー『DR.FEELMAN'S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』の頃、BOOWYをどんな風にみられていましたか?
解散の話を、僕らは知っていました。メンバーの考えだし、受け止めていましたけど「ちょっとあまりにも早すぎない?」って葛藤がありました。もちろん誰にも話せないし、ものすごい苦しかったですよ。
――シングルもアルバムも1位で、ツアーが大成功という状況のなかなんですよね。
12月24日のクリスマスになんとか渋谷公会堂を抑えられたんです。そこで発表しようという話になりました。でも、当日渋公の周りに人が集まって大騒ぎになっちゃったんですね。渋公のロビーのガラスが割れたり、ライブ中も会場の外にいるファンが増えつづけて。暴動になっては困るので、ライブ最後のヒムロックのMCを一字一句書き留めて、そのまま外にいるファンに伝えました。でも「解散すんじゃねえよ!」とか罵声が飛びかっていて「俺も同じ気持ちだよ!」って(苦笑)。この騒動で、ライブも観れてないですからね。
――そんな渋谷公会堂も昨年解体されました。そして、4月4日、5日の東京ドーム『LAST GIGS』へ。
1988年は、東京ドームが完成した年なんです。最初は1日だったんだけど、2日にした方がいいんじゃない?ってなりました。東京ドームの話をもらったのはツアー中かな。渋公を発表するにあたって、最後の締め方が課題となりました。『LAST GIGS』という今や伝説になった言葉は、僕が『LAST GIG』と提案して、ツッチーがGIGSにしたんです。そっちの方が収まりいいねって。
――2人で決められたのですね。
そういえば、当初は武道館2Daysって案もありました。でも、さすがにこの勢いじゃ受け止められないでしょって。『LAST GIGS』のチケットの発売日はNHKニュースになりましたからね。新聞にも載りました。「都内の電話がつながりません、パンクしました」って。主催はディスクガレージって報道されて(苦笑)。「どうもすみません!」って。この時、思いましたけど、ドーム10Daysもできたなって。そのぐらい求められている感がありました。
――東京ドームでのライブって、まだノウハウもなくて大変だったんじゃないですか?
『LAST GIGS』の前に、THE ALFEEとHOUND DOGがやってるんですよ。なので僕らはそこで学んでましたね。東京ドームでの思い出は、初日終わったあと即出して打ち上げで赤プリ(赤坂プリンスホテル)に行って。そこで、布袋さんがまこっちゃんに「『IMAGE DOWN』のリズム早いんじゃない?」ってシーンがあって。「あれ、解散するんだっけ?」って、なんかよくわからなくなりましたよね。ライブの内容を本気で話し合ってるんですよ。明日、最後をむかえるバンドが。
――ライブバンド、BOOWYらしいお話ですね。
ライブが基軸になってますからね。それこそ、ライブ時代の先駆けだったと思います。新宿LOFT?渋谷公会堂?武道館?東京ドームへ駆けあがっていく物語。でも、東京ドームって1年早かったらまだ無かったワケで。「じゃあ、最後どこで終わっていたんだろう?」って思うと、BOOWYというバンドの引きの強さを感じますね。
――ここまで振り返ってみて、メンバーとの思い出って何かありますか?
いろいろありますよねぇ。まぁ、BOOWYが他のバンドと違うのは、馴れ合いが少なかったんですよね。常に、前向きな話をしていました。お互い20代で若かったし、たくさん夢を語っていましたね。あまりおちゃらけた話しをしませんでした。そんな意味では、ストイックなバンドだったのかもしれません。
――バンドをどう成功させようかという目的、目標が一緒だったということなんでしょうね。
だと思います。それとやっぱり、ステージに立った瞬間のスイッチの入り方がすごかった。スイッチが入ったら全然違う人になるんですよね。そんなスイッチを持っている人が、アーティストとして成功するんでしょうね。
――中西さんの中で、BOOWYの楽曲で思い入れのあるナンバーは?
それはすごく難しい質問ですね。……MCのセリフ付きで「DREAMIN'」かな? あと、はじめて「NO N.Y」を聴いた時も「なんじゃこの曲は!」って驚かされましたね。「BAD FEELING」や「ホンキー・トンキー・クレイジー」も、新たなBOOWYを作っていく曲に聞こえたし。「CLOUDY HEART」も名曲だしね。いっぱいありすぎますね。
――ライブMCでの曲紹介のかっこよさとか、BOOWYの発明ってありますよね。
「DREAMIN'」とか泣きますよね。「夢を見ているヤツらに送ります」なんて言われたたら……。みんなカラオケでセリフ付きで歌うじゃないですか? すごいですよね。ヒムロックのMCって、1対多ではなくて、1対1なんですよ。みんな自分に言ってくれているって聞こえるんですよ。そこがズキッとくるポイント。でかいハコでも1対1で勝負されてるような気がするんですよね。
――では最後に、あらためて今回BOOWYというバンドを振り返ってみていかがでしたか?
こんなバンドとは、もう二度と出会えないんでしょうね。あの4人のキャラクターが集まった奇跡だと思います。あの時代でしかありえなかった。だから、もう復活なんてないんでしょうね。
――それこそ今、米米CLUBもプリンセス プリンセスも、TM NETWORKやレベッカも復活していて。でも、BOOWYだけは復活していません。
そうですね、僕も本音でいうと、復活してほしいのかほしくないのかわからないです。昔は絶対復活してもらいたいって思っていたんだけど、今はどうなんだろうなぁと思いますよね。もちろん絶対に観たいですよ。観たいんですけど、どうなんでしょう? 複雑な心境ですよね。
――中西さんが観てきたBOOWYのライブで、忘れられないワンシーンはどれですか?
横浜で観たライブかな。繰り返しちゃうけど、1時間で20曲以上やったライブを観た時に「気持ちいい!」って思ったんです。僕はその日はずっとPA席で観ていました。たぶん、1985年の『BOOWY’S BE AMBITIOUS TOUR』での、横浜市教育会館ですね。初めてのホールツアーなんですよ。この時に観たライブが妙に脳裏に残っています。
――布袋さんが「DANCE CRAZE」を披露したツアー。そういえば中西さんは、ベルリンやロンドンへは行ってないんですか?
行ってないんですよ。糟谷さんに「行く?」って言われたんだけど、「ベルリン?」って思っちゃって。ほら、当時は特に遠いじゃないですか? でも今から考えるとなんてもったいないことしたんだろうって(苦笑)。
――BOOWYと一緒にお仕事されたことで中西さんにはどんな影響がありましたか?
大きいですよ。「BOOWYをやっていた方ですね?」というステータスを頂けたことは大変ありがたかったです。その後、いろんなバンドと話しをするときに、若いバンドも含めて共通のキーワードになるんですよ。自分にとっての財産ですね。携われたことが自分の音楽人生にとって宝物になりました。
――BOOWYに影響を受けたバンドやアーティストっていっぱいいますもんね。
あの4人4様のキャラクターと、音楽性、そして時代背景。そして、トップになった瞬間に終わったという伝説。BOOWYのようなバンドっていないですよね。すごい意識レベルの高い集団だったんじゃないですか。BOOWYも、周りのスタッフも含めて。
<インタビューを終えて>『BOOWY STORY ARCHIVE』第3弾、株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫 氏への1万5千字インタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWY躍進のきっかけとなった数々のプロモーション戦略。知る人ぞ知るコンサート秘話。ライブを中心に、イベンター視点からの貴重なトークを語って頂きました。引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWY伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告: 現在交渉中
https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=3
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①┃ BOΦWY FILM EVENT JUST A HERO SPECIAL ┃
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BOΦWYが街にやって来る! 入場整理券
1986(昭和61)年02月24日(月) 札幌ペニーレーン
お問い合わせ先・・・東芝EMI WESS
1986(昭和61)年02月26日(水) 仙台フォーラス
お問い合わせ先・・・東芝EMI GUID
1986(昭和61)年02月28日(金) 福岡コッズ
お問い合わせ先・・・東芝EMI フラッグスタッフ
1986(昭和61)年03月04日(火) 名古屋ハートランド
お問い合わせ先・・・東芝EMI サンデーフォーク
1986(昭和61)年03月06日(木) 大阪バナナホール
お問い合わせ先・・・東芝EMI 夢番地・大阪
‡1986(昭和61)年03月07日(金) 広島ウィズ
お問い合わせ先・・・東芝EMI 夢番地・広島
最新シングル・ビデオクリップ、渋谷公会堂ライブ、未発表のVTRを含むビデオ大公開、ファン参加、BOΦWY参加の待望のイベント!
★全スケジュール共 OPEN⇒18:00(17:30) START⇒18;30(18:00)
※当日、この入場整理券入場料(¥1,000)をそえてご入場下さい。尚、整理券は1枚につき1名様とさせていただきます。先着順で満員の場合は、入場出来ない事がありますので、あらかじめ御了承下さい。
②「BOΦWY FILM EVENT - JUST A HERO SPECIAL」と題されたフィルムコンサート。
1984(昭和59)年03月30日(金) 新宿ロフト
01.INTRODUCTION
02.MASS AGE
03.IMAGE DOWN
04.GIVE IT TO ME
05.ON MY BEAT
1982(昭和57)年09月24日(金)『太陽にほえろ』ラガーのラブレター出演VTR
ハイウェイに乗る前に(PV)
1985(昭和60)年12月24日(火) 渋谷公会堂
06.NO.NEW YORK
1986(昭和61)年04月06日(日) 日比谷野外音楽堂
07.Dreamin'
MC
08.BLUE VACATION
09.JUSTY(歌詞間違い)
10.WELCOME TO THE TWILIGHT(レア)
11.TEENAGE EMOTION
12.LONDON GAME(GIGS武道館、LIVEアルバム告知)
BOΦWYの歴史を1本の映像作品として構成。中でも♪WELCOME TO THE TWILIGHT♪の演奏はレア!
コレクターズアイテムにつきノークレーム・ノーリターンでお願い致します。
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①https://www.amazon.co.jp/dp/B089YB599M
②https://aucfree.com/items/q274924405
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https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j739343986
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┃ 生活ん役立つ?⑦つの方法だヨ(=^◇^=) ┃
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射幸心を捨て、現実と向き合い、成功を引き寄せる7つの方法http://thechange.jp/hikiyose-5-8131.html
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