イエス様の祈りがどのような実を結んだかを示しています。
この祈りは強盗が聞いた福音であり説教でした。
そこから強盗は、「主キリストは神様の御子であり、
この世全体のあらゆる罪を肩代わりするために、
肉体の死の後に父なる神様と共に永遠に生きて支配なさるために、
今十字架につけられた」、ということを学んだのです。
(マルチン・ルター)
今日は私の洗礼記念日です。
イースターは春分の日の次の満月の次の日曜日です。
お月様の周期に従って決められる日曜日です。
2000年ほど前、全人類の救いのために、神が人となって来られて33年の人間の生活をされました。
貧しい人、病の人、罪人、したげられている人たちのところに住んでくださいました。
旧約聖書、イザヤの預言のとおりに、33年後、キリストはすべての人に捨てられ、裏切られ、罵りを受け、つばまで吐きかけられて、頭にはいばらの冠を被せられ、血を流し、釘で両手を十字架に打ち付けられて十字架につけられました。
「待ち望んでいた救い主が現れた」
と喜んでいた人々は、その惨めな姿を見て絶望して離れて行きました。
イエス様の両側で十字架につけられた強盗のひとりは、
「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエス様に悪口を言い続けました。
もうひとりの強盗はそれをたしなめて「自分たちは悪いことをした報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。けれど、この方は何も悪いことはしていない。」と言いました。そして、「主よ、あなたが御国においでになる時はわたしを思い出してください」と言いました。
イエス様はその強盗に、
「今日あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」
と言われました。
このシーンで気付かされること。
それは、最初にイエス様と一緒に天国に入った人がこの強盗であったことです。
罪の悔い改めは一瞬にして神に認められ、
無条件であることを知らされるシーンです。
Jesus,RememberMe.
テゼの有名な賛美が朝起きた時から耳元で響いていました。
強盗の改心こそ、神が願われる砕けた魂です。
どのシーンでも、イエス様は罪人を前にして、
「もうこれからは罪を犯さないように」とおっしゃっています。
責めない咎めない神の愛。
悔い改めたらすべて終わったとされるのです。
テテレスタイ、ギリシャ語で「完了した」と言われた十字架の最期の言葉で締めくくられた神の救い、贖いの成就です。
この方を通して救いが全人類にもたらされました。
この方を通して救われるという神のご計画でした。
神は人に自由意志を与えられていますので、信じない人もいます。悔い改めても罪を犯す愚かな私たち、それでも、悔い改めて神の愛に帰るなら迎えてくださるのです。この愛は人が知らないアガペーの愛です。
信じると一瞬に変えられるのは、すべての人が神の子どもとしてつくられているからです。
迷子の羊が飼い主に見つけ出されて喜んで眠れるように世界が平安に変えられます。
生きてるうちに信じた人はしあわせな一生を送れます。
イエス様は神のご計画を成就するためにすべてを受け入れて従われ、
十字架の上で6時間ほど経ってから息を引き取られました。
昼間なのに空は真っ暗になって神殿の天幕が真っ二つに裂かれました。
それから3日目の朝に復活してマグダラのマリアに現れ、
次に弟子たちに現れてその後、聖霊を送ってくださいました。
十字架で死なれた日が金曜日だったことで、
神が天地創造をされてお休みされた日と同じ日曜日に復活された日をイースターとしてお祝いするようになりました。
いのちが復活する日。
クリスマス、ペンテコステ(聖霊降臨日)と3つの重大な記念日のひとつです。
日本は鎖国や迫害をしていた期間が長くあって、もったいない恵みのロスがありました。
今年のイースターは4月17日になっています。
私が洗礼を受けた年のイースターは4月3日でした。
名古屋のバプテスト教会で偶然(偶然は一つもないと言われます)にも高校の先輩が牧師をされている教会での洗礼式でした。
当時、大きなトラブルを起こした元夫は、やり直し人生を決断し2度目の大学進学を計画していました。
自分が学びたい学部が名古屋にあるからと言って5年間の朝日新聞の奨学生の道を進めていたのでした。
教会に新聞を配達していた彼は、高校生の時に洗礼を受けていたこともあって同じ九州出身の牧師と親しくなっていました。
家族で牧師館に招待されて話を聞いているうちに、私も教会に行きたくなりました。
こうして私たち家族は毎週、教会の礼拝に通うようになりました。
牧師は私に聖書を読むようにと勧めて下さいました。
毎日少しでも良いからと、新約聖書から読むことを勧めてくださいました。
改めて聖書を読んでいると、今まで不思議だと思っていたことが理解納得できるようになりました。
当時は仏教徒の家庭でお経を読むように父から言われていました。私が先祖の因縁を背負っていると教祖からいわれていたことで、何代目まで供養すれば救われるのかと尋ねましたが、誰からも答えはなく苦しんでいました。
聖書には一瞬で変えられる神の愛とゆるしが書かれていて心が軽くされていくのを感じました。人にはできないことを神が介入して解決してくださることで、人間は人間でしかないことや、それでも愛されている恵みを知りました。
私は当時働いていました。その仕事の会議に向かう電車の中で聖書を読んでいた時、罪なき神の子が十字架にかかられる箇所で涙が止まらなくなって号泣しました。
そのことを牧師に伝えると、「洗礼の時が来ていますよ、イースターに洗礼式をしましょう」と言われました。
それからイースターまで、礼拝の始まる前の時間に毎週聖書を学ぶ時間を牧師と過ごしました。
イースターの日、私は白いガウンを着せていただき、教会の講壇の下にある水槽で浸礼(全身を水につける洗礼)を受けました。まだ寒かったのでお湯を入れていただいていました。
なぜか、洗礼を受けていたはずの元夫も一緒に洗礼を受けました。彼の受洗していたという教会に籍がなかったという理由からでした。
新しく天国への切符(永遠の命)を手にした私たち夫婦を教会員の方々が温かく神の家族として迎えて下さいました。歓迎会をしていただき、天国ってこんな感じ?と思ったほど素敵な空気に包まれた時間でした。
以後は教会学校の教師として夫婦で奉仕をして働くようになりました。
イースターの訪れは、人生の復活でもあったように思います。霊的出発と言われます。神様との和解の時、春のめぐみのように思えます。
クリスチャンになったから苦しみや悲しみがなくなったわけではありません。
神の子が十字架の上で、あれほどの苦しみと死を体験されたのですから、人間でしかない私たちはこの基本を忘れないようにと思っています。
もっと辛く苦しいことがその数年後に起こりました。
離婚という道を選択せざるをえないことが起きて、娘を母子家庭にしてしまいました。
当時の私はストレスによる病気がメインで10以上もの病気を抱えていましたが、娘に理解してもらって猫2匹を連れて離婚しました。(この時も神様のご介入がありました。)
その直後に交通事故で夜勤に急ぐ方の車に追突されて後遺症に苦しむ数年を過ごしました。まるでヨブ記に書かれているようにヨブが味わった試練のような苦しみもありました。
それでも教会には毎週欠かさず通いました。一緒に祈ってくれる姉妹や牧師たちに支えられて天の家族が与えられていることは感謝でした。教会では私が知らない人も祈ってくれていました。とりなしの祈りという祈りの力も知るようになりました。
神がいるならなぜ?
私は救いようのない悪い人間。
聖書に書かれていることは私には起きない、それほどの罪人、でも奇跡が起きて欲しい。いやされたい。神様助けてください。
自分を責め、相手を責め、人を許せない思いを持っていた私は当時、ロシアに聖書を届けているというオーストラリア人の宣教師がゲストで来日していた婦人集会に誘われました。
「聖書に書いてあることを信じますか?」
教会のお世話好きな婦人からの電話に「信じます。でも私には奇跡が起きません」と言いながら参加しました。
男性の宣教師は優しい口調で神の愛を語られていました。
すべて英語でした。
横で通訳をされている方がいましたが、「この言葉が理解できるようになる」という声を直接耳元で聞いた気がしました。
集会が終わって「祈ってほしい方・・・」と言われたとき、いつも控えめな私でしたが、この時は一番最初に手をあげて前に出て行きました。
そこで手を置いて祈られました。
その時、「許していない人がいますね?あなたもゆるされているのですよ。ゆるしますと言いなさい。」と、イギリス人でミッションスクールの宣教師に言われました。
長い時間がかかりましたが、「ゆるします」と口にした時、私は人前で初めて号泣しました。
それと同時に私を縛り付けていたとしか言いようのない重い鎖が外れたような解放感を覚えました。
そして2日後、今度は日本人の伝道者の集会に行って祈られて完全ないやしを受けました。
身体の中から病や悪い感情の塊が一気に出て行ったような感覚でした。
この奇跡体験から私の娘がまず救われました。
次に友人、家族、親戚、仕事関係者たち、娘の友人たちも含めて、次々と救われていく奇跡が始まりました。神様のご計画されたドラマは今に至って続いており、救いの感動が尽きない働きを見せられています。
”神のなさることは皆、その時にかなって美しい。”
祈った祈りはどんな小さな祈りも欠かさず神さまが聞いてくださっていることを知りました。
春は草木が一斉に芽吹き、花が咲き、鳥が歌い、自然界は踊っているかのような美しいいのちが輝く季節になります。
いのち受けよ
生きよ、生きよ。
天から響いてくる愛のメロディがいくつもの曲になって流れています。
争いのない世界へ
平和な世界へ
立ち直った時には兄弟たちを力づけてやりなさい
そんな御言葉が聖書に書かれています。
できません・・・わたしなんかにできっこありません。
そう言うと、
あなたが口を開けば、わたしが語るから心配しなくていいんだよ。
そんな声まで聞こえてくる気がして、無理しないで一歩ずつ歩いています。
小さなことばも聖書の中に書いてあるのを発見する時、すごい書物だと思います。歴史も預言もすべて書かれている本は生きる道しるべです。
離婚した元夫には一度も会うことはありません。愛娘に約束したことも彼は一度も果たしていませんが。
娘が信仰を持ち救われたことで神様が切ってくださったのでしょう。彼が教会に連れて行ってくれたことを感謝する方の大きなかけがえのない恵みを受け止めています。
子どもの頃、東京に出稼ぎに行った父がお土産にしてくれた名犬ラッシーの本を読んで憧れていた教会。
日曜日は教会へ家族揃って礼拝に行くシーンが何とも感動的で憧れでした。
私も大人になってから、その教会で愛とゆるし、平和の主に出会えました。
これ以上の感謝な人生はありません。
「洗礼記念日おめでとう!」
今朝、愛娘からのメッセージに洗礼を受けた日を思い出しながら、すべてが神のご計画の中にあった始まりを思いだしています。
信仰の姉妹となった愛娘がいることは何よりの感謝です。
親として、子どもに遺す最高の信仰の遺産の願いが叶えられました。
春の光がキラキラと輝いているいのちの世界です。
”あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。
神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
(第一コリント10:13)”
感謝しきれない神様の憐れみに心からの感謝をこめて。
”Jesus ,remember me
when You come Into Your Kingdom.
イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください
(ルカ23:42)”
4月3日の花言葉
ラッパスイセン
心づかい・尊敬
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