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HappyChristmas

生きよと叫ばれるかたの真理

大切なことは、人間として尊厳を持つことです。
体が飢えるよりも、 心や愛の飢えの方が重病です。
マザー・テレサ

女性の自死が増えているという報道がありました。
人が生きる希望をなくした時、闇が誘導をはじめます。

人生のなかで人は何回死にたいと思うのでしょうか?

「一度も死にたいと思ったことはありません。」
そういわれる牧師先生もいます。
神の愛に感動し、救われ、すべての人生を捧げられた人の言葉です。
この牧師の働きは多くの人々をキリストの愛に導き、
キリストの似姿となっています。
宗教のキリスト教ではなく、
ほんものの神、キリストに出会われた方のことばです。
わたしもこうありたいと思ってお手本にしています。

わたしは過去に3回、
死にたいと思って自殺しかけたことがありました。
そのたびに不思議なことが起こりました。
すべてに神さまが関与して下さって助けてくださいました。

そのひとつは殺人も起こす寸前のできごとでした。
愛する娘を共にして車ごと海に飛び込もうとしたからです。

結婚生活に失望していたわたしは、クリスチャンというステイタスを持っていた夫にも失望していました。
出会った時からクリスチャンだった夫を過剰、過大評価していたわたし自身にも罪がありました。

わたしが海岸に車で飛び込む死の瀬戸際にいた時、夫は教師になったばかりでした。
その夫の不貞の限りない苦しみに
病も多く抱えていたわたしは耐えられなくなっていました。
今では日本の男性社会を変えることを思いますが、当時はそんな社会ではありませんでした。
離婚も罪で、女性は社会の端っこで生きなさいというような時代でした。

目の前には暗く冷たい冬の夜の海。
アクセルを踏めば一瞬でこの世と切れる。
苦しむことなく死ぬことができる。

最期に、助手席に座っていた愛する娘の顔をもう一度見ました。
その娘が
「ママ、イエス様が呼んでるの?」
とわたしにたずねました。

当時、小学3年生だった娘の輝く瞳は真剣でした。

わたしは愛する娘を見て、
何という恐ろしい罪を犯そうとしているのかと気づきました。
ことばにならない思いで
ただ、ごめんね、ごめんねと娘を抱きしめて泣きながら謝りました。

娘はわたしを犯罪者の罪から救ってくれました。
娘はわたしのいのちの恩人にもなりました。

翌日、わたしは教会に行って牧師先生にすべてを話しました。
(今は天国から見守って下さっています。)
牧師先生は心を痛められて一緒に祈ってくださいました。

”明日のことを思い煩うな、
明日のことは明日自身が思い煩うであろう。
(マタイ6:34)”

牧師先生はイエス様が仰った野の花の信仰のことばを贈ってくださいました。
マタイによる福音書の6章は、主の祈りを始め、とても大切なことをイエス様が語られています。

わたしは泣きながら、イエス様に着いていくことと、
もう一度夫を信じてやり直せる道を祈りながら歩くことを牧師先生に告げました。

それでも夫にはあらゆる誘惑がありました。
新しい地で塾講師としてスタートした夫でしたが、変わりなく苦しみは続きました。

娘が6年生の時、
12月のある日の深夜のことでした。

わたしは当然、部屋いっぱいに輝く眩い光を見ました。
わたしはお迎えの光だと思ってしまいました。
思わず光に向かって
「お願いですから今は連れて行かないでください。
娘を置いていくことはできません。」
と言いました。
光はしばらく輝いていましたが、
やがて人の形になってとどまり、すっと消えていきました。

わたしはそのまま眠ってしまいました。
朝起きると、右の目が太陽を肉眼で見たときのように真っ白になっていることに気づきました。
起きてきた夫と娘に、深夜に起きた光のことを話しました。
二人は不思議そうにわたしの目を見て食事をしていました。
二人を見送ったあと、わたしは一人で部屋に座って祈りました。

なぜか、とても深い平安が訪れました。
「神さまがご一緒でしたら大丈夫ですね。」

そして決断をしました。

帰宅した娘に離婚を決断したことを告げると、
「やった~、チャラとノンタンとママで暮らすんだね!」
と、思いがけないことばでした。

その時にはわたしの目も普通に戻っていました。
病院に行くのではないと思いがきていました。
そのままにして祈りの一日を過ごしていてよかったと思いました。

帰宅した夫にも伝えました。
彼は了承してくれました。

それから間もなくわたしは娘と二匹の猫を連れて離婚しました。
明日の保証は何もありませんでした。
ただ、イエス様が一緒にいてくださるから大丈夫、
それだけでした。

両親にも伝えると、それまで夫のことでは相談をしたことがなかったので、
よく我慢してきたねと、慰めてくれました。
夫の母親は「息子はいらないからあなたはうちに帰ってらっしゃい」と言ってくれました。

「月に一度はお食事をしようね。」
娘にそう言った人は、一度もその約束を果たすことはありませんでした。

娘を父親の住むマンションに遊びに行かせた時、わたしは車で待っていました。
好きな時間遊んでらっしゃいと行かせましたが、娘はすぐに戻ってきました。
その日以来、娘はひとことも父親のことは言いませんでした。

なにがあったのか、娘はわたしが離婚した理由を12歳のハートで知ったのでした。

不思議なことがその日から起こりました。
その日からイエス様が父親となり、親友となって下さっていることを見せられてきました。
娘には友人や父親、母親、多くの良い人間関係が与えられ続けています。
教会の家族や級友たち、
娘が就職した後は職場の家族、友人・・・
結婚した相手の家族や親族
こんなに知り合いがいる人も珍しいくらい、
愛し愛されるよい人間関係に囲まれて過ごせる環境を与えられてきました。

わたしは離婚して2ヶ月弱のある日、
引っ越しした町で車で買い物に行った帰りに追突事故に遭いました。
夜勤のために急いでいた消防署員の脇見運転事故でした。
検査の結果、娘と友人は何も後遺症がなく、安心しました。
わたしには、翌日から腰と肩に鞭打ちの後遺症が残りました。
次から次へと苦しみが襲う中、他の病も悪化していました。

毎日聖書を読みながら祈りました。
新しく通い始めた教会でも祈っていただいていました。

神さま、あなたが本当にいるんだったら、わたしを助けてください。
あまりに辛くて叫び続けました。

そんなある日、
1993年5月のことでした。
以前、通っていた教会の婦人から電話がありました。
「まだ辛い思いをされてたんですね。
あなた、聖書に描いてあること、信じますか?」
と聞かれましたので、
「はい、信じています。
でも、わたしには聖書に書かれていることが起きないのです。」
するとその婦人は、
「聖霊を信じている婦人の集会があるのですが、行きませんか?」
と言われました。わたしは迷わず
「行きます」
と答えました。

わたしはこの日、人を「ゆるします」と告白しました。
その瞬間に、神さまが生きておられて今も働かれていることを体験し、いやされました。

聖霊の神は、イエス様からの贈り物。
一人ひとりに贈られています。

わたしが心のドアノブを開けない間、
聖霊様はドアの外でノックされ続けておられたのです。

赦さない思いを持っている間、
清い方が入ってこられるドアをあけることはできなかったのでした。

その日、生活習慣から来ていた病以外の病は、すべていやされました。
生活習慣からくる病は、生活を安全に切り替えたらすべていやされました。

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と、聖書に書かれていました。
泣き叫ぶ夜の叫びも、
辛く苦しい痛みからくる叫びも
主は聞かれていました。
どんな祈りも、どんな小さなつぶやきも、
人にではなく、
主に向かって叫び続けました。

主は聞いておられました。
主はすべてを見ておられました。
わたしが一歩、神さまに近づくことを待っておられたのでした。

生きているのはわたしではなく、
わたしの罪のために人となってきて下さった神がご自身を十字架に捧げ、
死んで下さった主、イエス・キリストだったのです。

「わたしが十字架であなたのために死ぬ。
罪も病も孤独も悲しみも・・・すべてを完成するために死ぬ。
あなたは喜んで生きよ!」

イエス様はそう叫んでくださったのです。

イエス様はそう叫んでくださったのです。

全く罪のない方が全人類の罪のために死んで下さった。

真理とは、道とは、希望とは、
死んで3日目によみがえられて今も生きておられる神、
イエス・キリストのことだったのです。

あの日、初めて神さまのお声を聴きました。
その半年後、
今の教会(聖霊を信じる教会)に導かれて今があります。

この愛を知ってからは、死にたいと思うことはありません。

いまわたしは、生かされているいのちを主にお捧げして歩む人生に変えられています。
小さく足りないカケだらけの愚かなものを
天の救いの働きに加えて下さった神の恵と憐れみ、いつくしみに心から感謝しています。

一人も滅びない永遠のいのちを与えられる主の恵みが
すべてのいのちに注がれています。

それは、一人も漏れることがない十字架の贖いによる救い、ゆるしの愛です。

希望はこの神さまの愛の中にあります。
明日が見えなくても、神さまが共におられるから
全ては神さまの手の中で起きていることだから、必ず道が開かれます。

「生きよ!
わたしがあなたと共にいる!」

その声を聴く朝の静寂の時間をどんな人にも持ってほしいと祈ります。

すべての尊いいのちが守られますように。
インマヌエルの主に心からの感謝をお捧げします。
NameJesus,Amen.


”わたしは道であり、真理であり、命である。
誰でもわたしによらないでは、
父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネ14:6)”

9月21日の花言葉
カンナ
永続・堅実な未来・快活・情熱・妄想
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