それは、一人一人の人間の中にあるのです。
マザー・テレサ
2月17日に灰の水曜日でレント(受難節)に入りました。
今年は4月4日がイースターです。
イエス様が全人類の救いのために十字架にかかられ、死んで3日目によみがえられるまでのこの期間、
イエス様の苦難を覚え、悔い改めて祈り、断食をし、苦しみと復活の喜びを共にします。
断食というより、質素に控えたお食事と受け取ると、誰でもできそうです。
断食できる人は深い祈りを続けます。
「自分の十字架を背負って着いてきなさい」と言われたことばを聴いた時、
2つの受け取り方があると思いました。
ひとつは、
広い門からはいる道
わたしに従ってくれば楽な人生を過ごせるよ、
もうひとつは、
狭い門からはいる道
わたしと同じ十字架の道を歩む苦難の道になるよ。
楽な人生を過ごせるなら、誰でも広い門から入って着いていくでしょう。
サタンが荒野でイエス様を試みた時と同じです。
それは簡単に言葉で言えるような浅薄なものではなく、
人生は誰でもがキリストの十字架を共に背負い、
苦しい人生を何度か通過していくことを示唆しています。
苦しみのなかでも絶えず十字架を見あげ、
キリストと共に生きる平安を得てほしい、
信じてほしいと願われる神の願いを聴くようになります。
神さまはどんな時でも苦難を乗り越えられる信仰を与えてくださる神、
この神さまと一緒だからこそ、
どんな荒れた嵐の海の中でも歩けると言われます。
”今のこの時の苦しみは
やがてあらわされようとする栄光に比べると取るに足りない(ローマ8:18)”
とパウロが語ったみことばがあります。
わたしも眠る前によくこのみことばを祈ります。
やがてという時、
その日その時がいつなのか、
苦難の中で祈るたびに、
神の栄光であって、
わたしの願いではないということを知らされます。
人として生かされている中にあって、
あなたは何を見るのか?
神さまはいつも問われています。
十字架でキリストが完成した愛とゆるしの奇跡を信じ、
どんなことがあっても、
この愛の光のあるところを見て歩きなさいと。
十字架の苦しみを人間の誰が同じように体験できるでしょうか。
なんでもおできになる神さまが
父なる神のご計画に100%、
0.00001の隙間もないほど従順に従われた十字架の道があるから、
「すべてが大丈夫なのです」と言える人生に変えられるのです。
イエス様がベタニヤのらい病人シモンの家におられた時、
マリアは高価で純粋なナルドの香油を持ってきました。
そして壺を割ってイエス様の頭にかけました。
このシーンは4つの福音書に書かれています。
ルカ14章ではパリサイ人の家での出来事。
罪深き女が接吻して香油をイエスの足にかけて髪の毛でぬぐったとあります。
ヨハネ12章では、シモンの家でマリアが香油をイエスの足にかけて髪の毛をぬぐったとあります。
そこにいた人たちはマリアを責めました。
香油は男性が働いて得た一年分の生活費に換算することができるほどの高価なものだったそうです。
とんちんかんな責め方をするユダが想像できるほどに、
このシーンはマリアと対象的に目に浮かびます。
お金や見栄に執着する人たちの責め方、
「もったいない」という言葉が残ってしまいました。
弟子であっても、これからイエスに起こることを想像もしていないで何を見ていたか。
罪をゆるされ神の本物の愛を知ったマリアがとった行動は何にも変えられない救い主の葬りのため。
イエス様はどちらもその心の奥深くにある思いも知っておられました。
たった一人だけ、
マリアが埋葬の用意をしてくれました。
このことは、イエス様にとってはどんなに嬉しかったことでしょう。
聖霊の一致による思いが通じる人だとわかる人です。
マリアは自分の最高の捧げものをして仕えました。
この行為は2000年以上経ったいまでも語られています。
神さまにわたしの最高をおささげします。
あなたの栄光だけがあらわされますように。
祈り続けます。
NameJesus,Amen.
”この女はできる限りのことをしたのだ。
すなわち、わたしのからだに油を注いで、
あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、
この女のした事も記念として語られるであろう。
(マルコ14:8~9)”
2月23日の花言葉
ジンチョウゲ
栄光・喜びを下さい・自然の美しさを失う
不死・不滅
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