見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2024年10月関西旅行:大津祭2024巡行前

2024-10-17 20:02:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

 10月13日(日)の朝、大津祭の曳山は朝9時に天孫神社に集合すると聞いていたので、8時前にホテルをチェックアウトして町に出てみる。まだ人が集まっていない曳山もあるが、既にお囃子方が乗り込んで、出発準備完了の曳山もある。たまたま、源氏山が動き始めるところだったので、天孫神社まで着いて歩いた(今年の一番籤である)。綱の引手は源氏香マークの揃いの半纏。

 四つ角で90度方向転換する「辻廻し」。祇園祭では巨大な山車もビルの谷間に埋もれてしまうが、ここは、まわりが2~3階建ての住宅ばかりなので視界が広い。大津祭の曳山は三輪車スタイルで、かなり力づくで前輪を持ち上げて方向転換させていた。そして、曳山が集合する朝の時間帯は、特に車の流れを止めないのだな。曳山優先で、後ろをゆるゆる着いてくる自動車もいて面白かった。

 天孫神社へ向かう道で見つけた神輿。布袋と並んで「ねりもの」のひとつとされている。これは飾り物のきれいな側面の写真。会所の人たちは出払っていて、おばさんが一人で見守っていた。

 天孫神社には、源氏山に先んじて「籤取らず」の西行桜狸山がすでに到着していた。引手は「狸」の一文字を染め抜いた半纏。そして曳山の屋根の上にはタヌキ~。思い出した。昨夜、会所で見たときは、なんか変な剥製がいると思っていたが、コイツは巡行の先頭に立つのである。

 曳山の集合を待つ道端で、おじいちゃんが「去年も一昨年も雨でねえ」と話していた。その前は新型コロナ禍で2年間中止だったはずだから、本当に待ちに待った秋晴れだと思う。屋根のタヌキもさぞ嬉しかろう。

 9時が近づくにつれ、徐々に曳山が集まってくる。明るい空の下で聞くお囃子は、宵宮とはまた違った雰囲気だった。鯉山の見送りは「トロイア戦争」のタペストリー(おそらく複製)。

 この日は丸一日かけた曳山巡行と同時に、滋賀県の酒蔵が集まる「秋の大おさけ日和」も開催されることを現地に来て初めて知ったのだが、次の予定があったので断念し、まずは大津市歴史博物館へ向かう。

※竹生島~大津祭の写真はフォトチャンネルで。

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2024年10月関西旅行:大津祭2024宵宮

2024-10-16 21:27:19 | 行ったもの(美術館・見仏)

 彦根から宿泊地の大津へ移動。今年は早くから旅行の計画を立てていたこともあって(どうせカレンダーどおりの連休しか休めないだろうと思って)大津祭宵宮の土曜日に、大津のビジネスホテルを取ることができたのである。JR大津駅に下りると、駅前に大津銘菓や記念品を売るテントが出ていて、意外にも賑やかだった。前回来訪時(2016年)は駅前がこんなに盛り上がっていた記憶がない。

 フレンドマート(平和堂)でお寿司と缶ビールを購入してホテルにチェックイン。部屋で簡単に食事を済ませて、そろそろ暗くなったところで町へ出ていく。

 ホテルから一番近かった石橋山。ここのお囃子は比較的ゆったりしたリズムで典雅な趣き。笛の音が耳に残る。大津祭は「聞く」お祭りなのである。

 その先、孔明祈水山はもう少しリズムが早く、鉦と太鼓が華やか。口で「ぴーひゃら、ぴーひゃら」と合いの手を入れるのが面白かった(他の山でも聞いた)。西宮蛭子山は、鉦と太鼓の激しい連打が腹にこたえて、軍楽隊を思わせた。鉦はどこの山でも幼い男の子が一生懸命叩いている。「チョーライ、チョーライ」という掛け声も、いくつかの山で聞いた。

 たぶん一番長い時間、立ち止まって聞いていたのは源氏山。山車と会所の間の橋の上に和太鼓(宮太鼓)を2台しつらえ、気合を入れて叩きまくる。ノリノリの若い男子が多くて楽しそうだった。

 ちなみに今年の大津祭で目についたのは、自分の「山」にちなんだ絵柄の長襦袢を羽織った人々。これは猩々山だろう。

 源氏山のノリノリ男子の背中には、艶やかな宮廷女房(紫式部)が描かれていた。

 大津祭の始まりを語る上で欠かせないのが西行桜狸山。狸の面も健在。なお、西行桜狸山のお囃子は、ほかの山とはリズムやテンポが随分違うように感じたが、うまく言葉で説明できない。

 江戸時代には、曳山(山車)のほかに「ねりもの」の巡行が行われたことが分かっている。この布袋はその名残り。張り子づくりで、内部に背負い紐のようなものがあり、人がこれを被って巡行したと考えられている。『江戸の見世物』の籠細工だ!とすぐに思い当たった。

 2時間くらい、ぐるぐる町を歩きまわったが一向に飽きなかった。町の灯りが少ないので曳山の提灯が映える。ベビーカーや車椅子でもなんとか回れる込み具合で、1932年に建立された大津聖マリア教会が礼拝堂の見学に招き入れてくれたのも嬉しかった。大津、JRの駅前を離れたところに意外としゃれたお店もあるんだな~。また違う機会にも訪ねてみたい。

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2024年10月関西旅行:竹生島宝厳寺ご開帳

2024-10-14 21:54:15 | 行ったもの(美術館・見仏)

 先週は職場のイベントやあれやこれやで多忙を極めた。私的な時間が全く取れなかったわけではないのだが、ブログを書く気力が残っていなかった。そんな状態だったが、三連休はかねてからの計画によって、関西方面で遊んできた。今回の最大の目的は、開創千三百年記念・竹生島宝厳寺観音堂本尊秘仏御開扉(2024年10月12日~10月21日)である。実は、5月には辯才天堂の本尊秘仏大弁才天の御開扉(2024年5月18日~27日)があったのだが、行き逃してしまった。今月は観音堂本尊・千手観世音菩薩の御開扉である。私は2009年に西国三十三所の特別御開扉があったときに拝観しており、好きな観音さまなのでお会いしたかったのだ。

 1週間前くらいに計画を固めて、長浜から観光船に乗ろうと思ったら、希望の便が全て埋まっていて慌てた。彦根発のオーミマリンは幸い余裕があったので、12:00発の便を予約した。連休初日、東京から名古屋、米原で乗り継いで10:00頃に彦根駅着。時間に余裕があったので、彦根城博物館にちょっと立ち寄ってみる。

彦根城博物館 テーマ展『金のきらめき-輝きの日本美術-』(2024年10月2日~11月4日)

 仏画や金地屏風など、多様な作品が展示されていたが、印象に残ったのは能装束。白地に金糸で文様を縫い取ったものや、装束全体に金糸を織り込んだものなど豪華絢爛。それから井伊家の大旗(馬印)も赤地に金の「井」の字が映える。彦根は好きな町なので、もっとゆっくりしたいなあと思いながら、この日はこれだけ、

 再び彦根駅に戻って、11:30発の無料シャトルバスで彦根港へ。待っていたのは赤備え船「直政」!これは井伊家推しとしてはテンションが上がる。ホームページによれば、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の縁で改装されたらしい(写真は竹生島港にて)。広々した湖面には青空と雲の林が映って、夢のように美しかった。

厳金山宝厳寺(滋賀県長浜市)

 竹生島に到着。確か、港から宝厳寺の本堂まで長い石段を登るんだよなあ…という記憶はあったものの、こんなにしんどいとは覚えていなかった。最後は手すりにすがりつくようにして登った。あとで案内チラシを見たら165段あるとのこと。

 階段を登り切ると本堂(弁才天堂)の横に納経所がある。以前、ものすごく並んだ記憶があるのだが、今回はそれほど混雑していなかった。観音堂開扉を目指して来たので「大辯才天」と「千手観音(大悲殿)」のご朱印をいただく。しかし、実は観音堂ではこの期間だけの限定御朱印も頒布しているのでよく考えたほうがよいかもしれない。

 さらに短い石段を登って、三重塔と宝物館を拝観。次は石段を下って、華やかな唐門の前に出る。この奥が観音堂である。

 「唐門」「観音堂」「舟廊下」は、2013~2019年度に檜皮屋根の全面葺き替え・彩色塗り直しなどの修理保存事業が行われたそうで、目に鮮やかで美しかった。「長浜市シルバー人材センター」の蛍光色のジャンパーを着たおじいちゃんが自慢げに話してくれた。

 秘仏観音は、外陣から遠目に拝することもできるが、特別拝観料1,000円を払うと内陣に入れてもらえる。等身大の大きな観音様だが、お厨子の扉が上半分しか開かない(?)ので、腰から下は見ることができない(観音の身の丈はお厨子の扉よりも大きい。つまりお厨子は像が安置された後、その周りを取り囲むように築造されたと考えられている)。それでも前回(2009年)は、上半身はよく見えた記憶があるのだが、今回はお厨子の内部に錦の幔幕が垂れており、残念ながらお姿が見づらかった。厚みのある体躯、みなぎる力強さは、六波羅蜜寺のご本尊を思わせ(前回も同じことを書いている)私の好きなタイプの観音像である。

 解説のお坊さんが「岩の上にお立ちになっていると言われています」と言っていたのも気になった。竹生島、深い湖底から立ち上がる独立峰のような地形も独特だし、いろいろ面白い。

 舟廊下を渡って、竹生島神社(都久夫須麻神社)にも参拝した。名物のかわらけ投げは若者や外国人旅行客で賑わっていた。

 次の秘仏ご開帳予定は2037年とのこと。13年後か。シルバー人材センターのみなさんは「ぜひまたいらしてくださいね、我々は無理だけど」と笑っていらしたけれど、いやー次回も本堂までの石段を登れるくらいの健康と筋力を保っていられるかな、私…。

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2024都会のヒガンバナ

2024-10-06 20:53:20 | なごみ写真帖

今年も近所の小学校のまわりにヒガンバナが咲いた。東京近郊では9月中旬~下旬が見ごろの花だと思っていたので、10月に花を見るのは、少し遅い気がする。真夏のような猛暑がいつまでも続いていたので、そのしわ寄せを受けているのかもしれない。

これは門前仲町駅そばの植え込みで見たもの。日本のヒガンバナは種を作らず、分球で増えるらしいのだが、誰かが植えたのだろうか?

10月に入って、かなり仕事が立て込み気味だが、10月も11月も関西旅行の予定を入れているので、それを糧に頑張りたい。

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紫式部日記絵巻も特別公開/一生に一度は観たい古写経(五島美術館)

2024-10-05 21:13:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 館蔵・秋の優品展『一生に一度は観たい古写経』(2024年9月3日~10月14日)

 今期は『紫式部日記絵巻』の特別展示(10月5日~14日)を待っていたので、今日、ようやく行ってきた。展示室1がかなり混んでいたので、順番を変えて、展示室2から見ることにした。おそらく『紫式部日記絵巻』は展示室2に出ているのだろう、と思っていたのだが、予想は外れた。

 展示室2は、大東急記念文庫創立75周年記念特集展示・第2部「絵巻・絵本」と題して19件を展示する(ちなみに同特集展示・第1部「古文書・古記録」は、今年5月11日~6月16日に行われた。このときはメインの展示が近代日本画だったので見逃してしまった)。大東急記念文庫、漢籍や国書の稀覯本のイメージが強かったのだが、実は近世文学・江戸資料に優れているのだな。それにしても、美麗でサイズの大きい奈良絵本をたくさん持っていて驚いた。奈良絵本は、絵画史的には特に注目もされていないのだろうけれど、このこってりした濃彩の美学が、どこから来てどこへ流れていくのかには興味がある。また文学作品としても「くまのの本地」「おたかのほんち(ものぐさ太郎)」「十二段草子」等々、どれもストーリーがぶっとんでいて面白い。いまどきの中国ドラマの古装ファンタジーに匹敵するんじゃないかと思う。『北野天神縁起絵巻断簡(弘安本)』は「菅公贈位」と「銅細工娘受福」を見ることができた。

 あらためて展示室1に戻って古写経を見ていく。奈良時代の写経では『金光明最勝王経』に目が留まる。奥書に「大周長安三年」「三蔵法師義浄」が「長安西明寺」で制作したという漢訳の事情が記されており、そのまま写されていた。長安3年(703)は則天武后の晩年にあたるとのこと。漢訳に携わった僧侶の名前は「沙門〇〇寺△△」という形式で記されているが、一部「婆羅門」と書かれた者もいた。『中阿含経 巻三十四』には「善光」という朱印(枠無し、古様な字体)があり、法華寺の寺主であった善光尼ではないかと推測されている。

 平安時代の写経では、埼玉県・慈光寺伝来の『大般若経』。奥書に阿倍小水麻呂という人物が災害や悪疫の除去を願って奉納したとあるが、発願者の事蹟は不明で、ただ写経だけが伝わっているのが奥ゆかしい。『紺紙金字観普賢経(平基親願経)』は、見返し絵が着彩。常闇のような紺色を背景に二菩薩(普賢と観音?)が歩いている。ほかに眷属も連れず、舞い散る蓮弁などの装飾もないので、なんだか寒々しい孤独を感じる。これは、慶応義塾(センチュリー赤尾コレクション)所蔵とあった。もう1点、同じ「平基親願経」で、紺紙に雅楽の胡蝶に扮した童子二人を描いたもの(東京国立博物館所蔵)も並んでいた(こっちは、かつて「夢石庵コレクション」展で見ているようだ)。写経の本文は平基親の自筆と見られ、写経生や能書家と異なる素朴な(自然な)文字が並ぶ。

 鎌倉時代の写経では『華厳経(高山寺尼経)』の存在を初めて知った。承久の乱で処刑された貴族の妻たちが明恵を頼って高山寺に集まったのを機縁として善妙寺(この名前!)という尼寺が設けられたらしい。明恵の入寂後、善妙寺の尼たちが追善のために華厳経を書写したもの。幅の狭い冊子(粘葉装?)で、変わったかたちをしていた。

 肝腎の『紫式部日記絵巻』は、展示室のいちばん奥に展示されていた。五島本は、大正9年(1920)に森川勘一郎(如春庵)が発見した巻子本の一部で、全5段の第1、2、4段目にあたる。第5段目は森川家を経て、現在は個人蔵。第3段目は、益田鈍翁を経て、現在は東博所蔵。残りの3段分は、戦後、高梨家を経て五島美術館が収蔵することになったという。展示は原本の詞書・絵画に、加藤純子氏による現状模写も並べてあって、細部まで味わうことができた。何度も見ている作品なのだが、やっぱり大河ドラマの影響で(見てはいないのだが)、斉信といえば、あ~はんにゃか、実資といえば、ロバート秋山か、と役者さんの顔が浮かんでしまうのには苦笑した。あと、酒がまわって乱れた宴会場面、顕光=65歳、斉信=42歳、実資=52歳、公任=43歳、という解説を読んで、ちょっと興醒めしてしまった。

 藤原道長筆『紺紙金字法華経(金峯山埋経)』が展示されていたことも付け加えておこう。ただし、上から7~8文字までで、下半分が欠損している。元禄4年(1691)に出土したと伝わるが、当時はどのくらいのニュースバリューだったのかなあ、知りたい。

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百合はどこから/夏と秋の美学(根津美術館)

2024-10-01 22:46:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『夏と秋の美学-鈴木其一と伊年印の優品とともに』(2024年9月14日~10月20日)

 江戸琳派の異才・鈴木其一と、琳派の祖である俵屋宗達に始まる工房の優品を中心に据え、美術作品によって初夏から晩秋まで移ろう季節の情趣を楽しみながら、そこにうかがわれる美意識の諸相に迫る。

 展示室に入ると「夏の訪れ」→「真夏の情趣」→「夏から秋へ」→「涼秋の候」と、季節の移ろいを意識して作品が並べられていることが分かる。しかし連日の猛暑に苦しめられたこの夏を思うと、冷泉為恭が『時鳥図』や『納涼図』に描いたように、衣をしどけなく着崩したり、釣殿で水面を渡る風に吹かれたりする程度で、夏がしのげた時代は、もはや別世界に思われる。

 本展の見どころの1つとなっているのは鈴木其一筆『夏秋渓流図屏風』。江戸絵画らしからぬ、迷いのない明確な濃彩の作品で、白いヤマユリの一群が印象に残る。今回の展示、草花図がいくつか出ているのだが、あちこちにユリの姿があった。尾形光琳筆『夏草図屏風』は、金地の背景に晩春から夏にかけての草花を描いたもの。紅白のタチアオイが中心だが、左隻の白のタチアオイの後ろに白いユリが描かれている。また、伊年印『夏秋草図屏風』は、墨を多用し、色数を抑えて静謐な雰囲気を醸し出しているが、夏景にはたくさんの白ユリ(山百合と鉄砲百合?)が咲き乱れている。この時代、博物学の流行とも相まって、夏の草花への関心が高まったのではないかという解説が添えてあった。

 そうかー。百合は古事記や万葉集にも登場する古い植物だが、絵画の題材としては再発見があったのかしら。なお、万葉集に詠まれた百合の種類を特定することは難しいようだ(参考:万葉の植物 ゆりを詠んだ歌

 本展で初めて認識して好きになった作品は松村景文筆『花鳥図襖』で、展示の4面のうち2面に合歓の木とスズメ、そして白いユリが描かれている。金砂子の霞の中に描かれた草花の嫋やかで上品なこと。松村景文は、本展にもう1件『栗小禽図』が出ていたが、その解説に「絶大な人気を誇った」といいうのが分かる気がした。こうして、ひたすら百合の花を愛でる展示だったわけだが、冒頭に野々村仁清の『銹絵染付百合形向付』が並んでいたことも記録しておきたい。

 展示室2は、「武蔵野は月の入るべき山もなし」と詠まれた歌枕・武蔵野をモチーフにした屏風や工芸品が出ていた。仁清の『色絵武蔵野図茶碗』はよいなあ。左隻のみ展示という『武蔵野図屏風』(江戸時代)は、解説に「月が描かれた左隻」とあるのに、画面は草むらばかりで月の姿がないので戸惑ったが、全体に金色に輝く空が月の存在を示している、と思うことにした。

 展示室5は「やきものにみる白の彩り」。中国、朝鮮半島、日本の白いやきものを特集する。冒頭にあった『白釉突起文碗』(中国・北斉時代、個人蔵)は、西域のうつわの形態を真似たものと考えられるが、やきものと思えない繊細な細工に驚いた。

 展示室6は「名残の茶」。全体を通して、超級ビッグネームの作品が出ているわけではないが、今の日本人が理解・共感できる「伝統」美学をゆっくり吸収することができ、活力のもとになる展覧会だった。

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怪物も怨霊も大集合/浮世絵お化け屋敷(太田記念美術館)

2024-09-29 20:02:08 | 行ったもの(美術館・見仏)

太田記念美術館 『浮世絵お化け屋敷』(2024年8月3日~9月29日)

 歌川国芳や月岡芳年の名品をはじめ、妖怪や幽霊を描いた浮世絵約170点を紹介する。前後期で完全展示替えだったので、前期に続いて後期も見てきた。いや楽しかった! 浮世絵といえば、伝統的にコレクターに愛されてきたのは美人画や役者絵だと思うが、いま一番人気があるのは、スペクタクルな怨霊・妖怪画ではないかと思う。会期末にあたるこの週末、小さな美術館は大混雑で、若者や外国人の姿も多かった。

 後期の見ものは歌川国芳『相馬の古内裏』。一度見たら忘れない、背を丸めて覗き込む巨大な髑髏が巨神兵みたいなやつ。しかし私はこの原作にあたる山東京伝作『善知鳥安方忠義伝』は、いまだ機会がなくて読んでいない。昨年、歌舞伎座で見た『新・陰陽師』に将門の復権を企む滝夜叉姫が登場したので、お、あの滝夜叉姫!と思ったが、だいぶ改変された物語だった。

 後期展示で好きなのは、月岡芳年の『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』と『平維茂戸隠山鬼女退治之図』。どちらも縦長の構図を巧く使って、化けものと英雄をそれぞれクローズアップで描いている。髭のおじさんがどちらもカッコいい。

 歌川芳艶『丹波国山中は数千年越し蜘蛛あまたの人なやますと聞源頼光四天王お召つれ遂にたいししたまふ図』は3枚組の中央を占める(左右の2枚にはみ出している)土蜘蛛の怪物感が半端ない。確か「新収作品」という注記が付いていたが、他館を含めて初見かどうかは不確実。四天王が蓆を編んだような籠に乗って谷底に吊り下ろされている様子は見た記憶がある。しかし背中に八ツ眼のような模様を持ち、大蛇を難なく抑え込んでいる土蜘蛛の迫力、爽快に感じるくらいにすごい。

 本展は、長く語り継がれてきた日本の怨霊・妖怪の物語をあらためて確認する機会にもなった。その中で、私が再認識したもののひとつが、大森彦七(盛長)。南北朝時代、足方尊氏に与し、湊川の戦いにおいて南朝方の楠木正成を敗死させた後、正成の怨霊に遇う。伊予国の矢取川で川を渡してほしいと美女に頼まれ、背負って渡ろうとすると、川の中程で、怨霊の正体をあらわしたという。武将の怨霊(平将門、源義平、新田義興)って荒ぶるイメージが強いので、美女に化けるのは、かなり異質ではないかと思った。

 将門といえば、芳年には戯画『東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強』(明治14/1881年)がある。明治の東京に現れた平将門の写真撮影の図で、七人の影武者がいたという伝承に基づき、背後に7つの顔が浮かんでいるのだが、怒っているもの、あくびしているもの、妙ににこやかな顔もあって、かわいい。

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付藻と松本/眼福(静嘉堂文庫美術館)

2024-09-27 22:18:43 | 行ったもの(美術館・見仏)

静嘉堂文庫美術館 特別展『眼福-大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋』(2024年9月10日~11月4日)

 三菱第2代社長・岩﨑彌之助とその嗣子で第4代社長の岩﨑小彌太の父子二代によって収集された茶道具の名品展。静嘉堂としては8年ぶりの茶道具展で、将軍家、大名家旧蔵の由緒ある茶入や名碗をはじめ、著名な茶人たちの眼にかなった、格別の名品が一堂に会する。

 ギャラリー1は、建窯の油滴天目(デカい)に始まり、灰被天目、井戸茶碗、楽茶碗、織部、高取などが1~2点ずつで、茶碗の種類を学ぶ教科書の趣き。私は、いわゆる井戸茶碗は、持ち重りしそうであまり好きでないのだが、つるっとした玉子手茶碗(銘:小倉山)は触ってみたいなと思った。

 ギャラリー2は茶入。それぞれ仕覆やら木箱やら、大量の付属品が一緒に並んでいて面白かった。本展は、すべて展示品の伝来(旧蔵者)の系譜をパネルで添えているのだが、特に茶入は、複雑で長い伝来経路をたどっているように思った。なかでも代表格は、唐物茄子茶入の「付藻茄子」と「松本茄子(紹鷗茄子)」だろう。どちらも信長、秀吉、家康が手にしたもの。豊臣秀頼所持の際に、大坂夏の陣で罹災したが、土灰の中から掘り出された。家康の命を受けて、茶器塗師(ぬし)の藤重藤元・藤厳が修理に当たり、成果に満足した家康は、2つの茶入を藤重家に下賜した。この話は、2013年に静嘉堂の『曜変・油滴天目 茶道具名品展』で知ったもので、X線写真のパネルが強く印象に残っている。本展では、さらに写真が増えていると思ったら、1994年のX線撮影に次いで、本年(2024年)東京国立博物館で最新の機器によるX線CTスキャンをおこなったのだそうだ。

 なお、2つの茶入は、明治17年(1884)彌之助が歳末の給料を前借りして購入したもので、「付藻」が旧土佐藩の「九十九商会」と同名だったことも、彌之助を決心させた一因だったのではないかという。彌之助、33歳かな。しかし兄・彌太郎の訓戒を受け、2つの茶入は彌太郎の預かりとなって、最晩年まで彌之助の手元に戻ってこなかったという。岩崎家の兄弟、おもしろいな。本展は「曜変天目以外、撮影可」だったので、2つの茶入を撮影させてもらった。

大名物『唐物茶入 松本茄子(紹鴎茄子)』

大名物『唐物茶入 付藻茄子』

 付藻茄子のほうが少し頸が長いのだな。そして、この「茄子」というかたちは、よくある肩衝茶入に比べて、自然に手になじみそうで好き。

 ギャラリー3は、青磁花入やら虚堂智愚の墨蹟やら仁清の色絵やら、多様な名品が入り混じる中に同工異曲の『猿曳棚』4件が並んでいるのは目を引いた。形式的には「紹鴎棚」と呼ばれるもので、地面に接する引き違い戸の袋戸棚の上に、柱で支えられた天版(棚)が載っている。この袋戸棚の板戸に猿曳と紐でつながれた猿が描かれているのだ。最も古いものは、伝・狩野元信筆、室町時代の作で、江戸時代、さらに明治時代の狩野派絵師が「写し」の棚を作成している。「写し」と言っても、猿曳というモチーフを継承しているだけで、図様はけっこう変えていた。

 最後はギャラリー4で、いつもの曜変天目。茶碗の中に差し込む照明が、ちょっと明るすぎるんじゃないかと危惧している。

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鉄道と家族の現代史/中華ドラマ『南来北往』

2024-09-25 23:12:16 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『南来北往』全39集(中央電視台、愛奇藝他、2024年)

「南来北往」は、あちこち、せかせか動き回ることをいう成語である。ドラマの始まりは1978年、主人公の汪新(白敬亭)は中国東北地方の寧陽駅の管区内で「乗警」として働き始めたばかりの若者。私は80~90年代によく中国旅行に行っていたのだが、長距離列車に乗ると、必ずこわもての乗警(鉄道警察官)が乗っていて、身分証や切符をチェックにまわってきた。今は知らないが、なつかしい。

 汪新は幼い頃から父親と二人暮らし。父親は列車長で、鉄道関係者の社宅のようなところに住んでいる。機関士見習いの牛大力、牛大力の憧れである服務員の姚玉玲らもご近所住まい。汪新は、中学の同級生だった馬燕(金晨)のことをいつも気にかけていた。馬燕の父親・馬魁は経験豊富な乗警だったが、あるとき犯人を取り逃がし、しかも犯人が列車から転落して死亡したため、殺人罪に問われて12年間投獄されていたのである。母一人娘一人で苦労をしてきた馬燕。ようやく服役を終えて戻って来た馬魁は、乗警の仕事に復帰し、汪新の師父となる。

 こそ泥、人さらい、刃傷沙汰など、さまざまな事件に遭遇しながら警官として成長していく汪新。馬魁も汪新の素質を認め、期待をかけるようになる。しかし馬燕と汪新の結婚だけはどうしても許さない。馬魁が殺人罪に問われた事件の日、汪新の父親・汪永革は同じ列車に乗務しており、馬魁に落ち度がないことは証言できたはずなのだ。それをしなかった汪永革を、馬魁はどうしても許せなかった。

 【ややネタバレ】あるとき、馬魁に詰問されたショックで昏倒した汪永革は、健忘症を発症してしまう。記憶を失う前に真実を明らかにする決意を固めた汪永革は、事件の日、誤って犯人を突き落としたのは自分だったと告白する。母親のいない汪新をひとりにすることができず、汪永革は事件を黙秘したのだった。動揺する汪新と馬燕。しかし、少しずつ時間をかけて、過去のできごとを受け入れ、馬魁の許しを得て結婚にこぎつける。これが90年代初頭(二人とも30代?)だったと思う。

 1996年の旧正月、馬魁と汪新は麻薬密売組織の黒幕を追って、沿線都市の哈城にいた。黒幕とは、常連の乗客として馬魁たちと旧知の間柄で、汪新の同僚・姚玉玲と結婚した資産家の賈金龍だった。手下とともに逃亡した賈金龍は、列車の車内で馬魁と汪新と対決することになる。そして賈金龍は捕えられたが、揉み合いの末、馬魁は刺殺されてしまう。いや、最終話ですよ。ここでハッピーエンドにしないところが中国ドラマらしい…。最後は2017年、馬魁の墓参に集まった家族・友人たちと、最新鋭の鉄道車内で、定年退職を迎えた蔡小年(汪新の同僚)が、鉄路の発展を祈念するスピーチで全編が終わる。

 実際は、もっとさまざまな人々が入り乱れ、70年代末から90年代の地方都市の生活風景がリアルに展開する。80年代半ばくらいまで、列車内のカオスなこと(座席の下や網棚で寝ていたり)は凄まじいのだが、人情の濃密さには、ちょっと憧れを感じる。攫われた娘を探すため、いつも列車に乗っている盲目の爺さん(倪大紅)(もちろん無賃乗車)と、それを許容する服務員とか。車内に置き去りにされた赤ん坊を実子同然に育てることになる馬魁夫婦とか。近所住まいの人々が家族のように一緒に祝う結婚式の描写もよかった。

 姚玉玲に振られた牛大力が、一念発起して深圳に渡り、ひとまずの成功を収めたらしいのに対して、賈金龍になびいた姚玉玲は、最後にちらりと零落した姿を見せる。こういう運命のすれ違いは、実際に中国社会のあちこちであったのだろう。

 馬燕は、自分で商売をやりたいと父親に懇願し続けるのだが、昔気質の馬魁はなかなか許さない。どうして馬燕は、こんな父親を棄てて飛び出さないんだろうと何度か思ったが、やっぱり中国人にとって家族の重要さは日本人とは違うのだろうか。なお、頑固一徹の馬魁だが、料理や掃除など、家のことは当たり前にする父親である。このドラマ、本当の主人公は馬魁(丁勇岱)だったように思う。そして裏主人公は汪永革(劉鈞)で、もうろくしてヨボヨボしながら、馬魁よりも長生きするのがおもしろかった。どちらも、いま中国ドラマで父親役には欠かせない俳優さんだと思う。

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伴大納言絵巻上巻を見る/物、ものを呼ぶ(出光美術館)

2024-09-23 21:37:43 | 行ったもの(美術館・見仏)

出光美術館 出光美術館の軌跡 ここから、さきへIV『物、ものを呼ぶ-伴大納言絵巻から若冲へ』(2024年9月7日~10月20日)

 休館を控えたシリーズ展もいよいよ最終章になってしまった。本展は、同館が所蔵する2つの国宝、『伴大納言絵巻』と古筆手鑑『見努世友』をはじめ、やまと絵、風俗画、仏画、文人画から古筆まで、書画コレクションの粋を展観する。

 私は2016年の展示以来となる『伴大納言絵巻』をゆっくり見たくて、日曜の朝イチに入館しようと計画を立てていた。ところが家を出るのが遅れて、到着したのは開館の10分後くらい。展示室内が見るからに混雑していたので、あっマズい!と思った。ところが、人混みを突っ切って先に進むと、奥はまだ人がいない。みんな、冒頭の若冲と江戸絵画で滞留しているのだ。私のお目当て『伴大納言絵巻』は、第3展示室の奥の壁際にあった。まだほとんど他に人がいなかったので、行きつ戻りつ20分くらい眺めていた。

 冒頭は、まだどこかのんびりした検非違使たちの巡行。黒い小札を赤い糸で綴じた揃いの鎧を身に着けている。馬上の人々は弓矢を携え、徒歩の従者たちが剣を持っている様子。剣は直刀っぽい。何人かが松明を持っているのは、夜であることを示すのだろう。

 次第に人々の足取りが早くなり、注意が前方に向けられる。朱雀門を潜って、群衆が大騒ぎをしながら眺める先には、凄まじい炎と黒煙に包まれた応天門(よく見ると瓦屋根が見える程度)。反対側(大極殿側)でも貴族たちが呆然と眺めている。これ、同じ野次馬でも、門の内外の身分の対比を、けっこう意識して描き分けているように思う。外の群衆の中には女性がいない(たぶん)が、内側には、垂髪の女性が二人混じっている。なお、今回の展示は上巻のみ。え~中巻、下巻も見たくなってしまった。この作品が出光コレクションに入ったのは、2代目館長・出光昭介のときというのも初めて知ったので書き留めておこう。

 さて冒頭に戻って、鑑賞スタート。プライスさん、若冲の『鳥獣花木図屏風』を日本に譲ってくれて、本当にありがとうございます。縁取り模様が緑と茶色で、唐三彩のタイルみたいだと思った。仙厓『双鶴画賛』は出光佐三氏が最後に収蔵した作品で、賛に「鶴は千年、亀は万年、我は天年」という。鈴木其一『蔬菜群虫図』は、上からキュウリ、ナス、ヘビイチゴの重なりを描いているが、視点の位置がヘンで、非現実的な雰囲気を漂わせる。クールなシュールレアリスム絵画みたいで江戸絵画畏るべし。

 酒井抱一は『風神雷神図屏風』(光琳作品を写したもの)に加えて、『十二ヵ月花鳥図貼付屏風』と『十二ヵ月花鳥図』(元プライスコレクション)を同一展示室内で見比べる楽しみあり。たとえば1月はどちらも梅だが、後者には赤い太陽が添えられている。10月はどちらも柿の木だが、前者は目白(?)、後者はカラスを配する、など。

 山水画では与謝蕪村『山水図屏風』に見惚れてしまった。いやー本場の明清の山水図みたいに巧い。それに比べると、池大雅や田能村竹田は和風な感じがする。こっちが好きな人もいるだろうけれど。

 『祇園祭礼図屏風』は学生の頃に見て、派手な母衣武者の出で立ちに驚き、風俗画の面白さを知った作品。『江戸名所図屏風』は、もちろん黒田日出男先生の『江戸名所図屏風を読む』が副読本(向井将監邸を見つけてニヤリ)だが、男女問わず、描かれた人々の目もとが妙にくっきりしているのも好き。

 古筆は、高野切第一種と継色紙(むめのかの)を堪能。ほかに久松切倭漢朗詠集や中務集が出ていたのは、出光佐三の好みに従ったセレクションだったようだ。いま、出品リストを見直したら、江戸絵画以外は全て国宝・重文・重美指定という、とんでもない展覧会だった。

 丸の内の出光美術館に入れるのは、これが最後になるだろうか?と、ちょっと感傷的になっていたのだが、11月~12月にまだ次の展覧会があるらしい。よかった。お別れはもう少し先。

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