○橋本健二『階級社会:現代日本の格差を問う』(講談社選書メチエ) 講談社 2006.9
たまたま、本屋で手に取って、パラパラめくっている際、『愛と誠』に言及した部分が見えた。不良少年・大賀誠と財閥の令嬢・早乙女愛の純愛を描いた1970年代の少年マンガである。懐かしい! そうだ、あの時代、一億総中流意識なんて言われ出す前、日本は確実に階級社会だった。貧困も格差も、当然のようにそこらに転がっていたではないか。そんなノスタルジーに動かされて、本書を読み始めた。
私の見るところ、本書の読みどころは2箇所ある。前半では、戦前から高度経済成長期までの日本における「階級」の意味を総ざらいする。今和次郎の見た『東京銀座街風俗記録』に始まり、戦後青春映画『いつでも夢を』『下町の太陽』に階級上昇と階級適応の物語を読む。
圧巻は『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』等の原作者、梶原一騎を論じた段。『あしたのジョー』の終幕近く、財閥令嬢の白木葉子が、リングに向かおうとするジョーを制し、「すきなのよ矢吹くん あなたが!」と告白する場面は、「ドヤ街の孤児であり都市下層だったジョーが、財閥令嬢に対して決定的な優位に立ち、資本家階級に勝利した瞬間」であり、「愛を得ることによって資本家階級に勝利する」というテーマは、梶原の「作品」だけでなく、人生そのものの主題にもなっている。
しかし、現実の社会において階級が見えにくくなり、階級闘争が成立しなくなった80年代以降、梶原の活躍の場はなくなり、作家として自滅していった。面白い。思えば、1960年生まれの私は、幼少時代、梶原一騎原作のマンガにずぶずぶにハマッて育った。にもかかわらず、思春期以降(1970年代半ば~)は、てのひらを返したように、梶原マンガを忘れていた。そこには、戦後文化論として、また作家論として、非常に面白い問題があるように思った。
後半は、一転して社会経済学の立場から、「アンダークラスとしてのフリーター・無業者層」を読み解く。これがまた面白い。著者によれば、マルクスは、技術革新が進むと、一定量の生産手段を運用するために必要な労働者の数は減少するので、「資本が必要とする労働者の数を超える部分は、失業したり、あるいは不安定就業の状態におかれる」ことを予言しているという。これを読むと、マルクスの労働理論って、決して過去の遺物ではないのだなあ、と思う。
しかし、マルクスもアダム・スミスも、失業とは、労働者(=労働力の所有者)が一時的に陥る状態と考えていた。これに対して著者は言う。企業が高卒者を雇用しない理由として最も多いのは「高卒の知識・能力では業務が遂行できないから」である。つまり、労働内容の変化(IT化、専門化)によって、単なる肉体労働力しか持たない者は、「搾取不能な労働力」あるいは「労働力の非所有者」に転落してしまった。これは過酷な宣告であるが、真実だと思う。フリーターや無業者を救済するには、最低限、彼らのステイタスを「資本家による搾取可能な労働力」にまで引き上げなければならないのだ。
このほか、女性の階級所属、階級移動と機会不平等について論じた段も読み応えあり。
たまたま、本屋で手に取って、パラパラめくっている際、『愛と誠』に言及した部分が見えた。不良少年・大賀誠と財閥の令嬢・早乙女愛の純愛を描いた1970年代の少年マンガである。懐かしい! そうだ、あの時代、一億総中流意識なんて言われ出す前、日本は確実に階級社会だった。貧困も格差も、当然のようにそこらに転がっていたではないか。そんなノスタルジーに動かされて、本書を読み始めた。
私の見るところ、本書の読みどころは2箇所ある。前半では、戦前から高度経済成長期までの日本における「階級」の意味を総ざらいする。今和次郎の見た『東京銀座街風俗記録』に始まり、戦後青春映画『いつでも夢を』『下町の太陽』に階級上昇と階級適応の物語を読む。
圧巻は『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』等の原作者、梶原一騎を論じた段。『あしたのジョー』の終幕近く、財閥令嬢の白木葉子が、リングに向かおうとするジョーを制し、「すきなのよ矢吹くん あなたが!」と告白する場面は、「ドヤ街の孤児であり都市下層だったジョーが、財閥令嬢に対して決定的な優位に立ち、資本家階級に勝利した瞬間」であり、「愛を得ることによって資本家階級に勝利する」というテーマは、梶原の「作品」だけでなく、人生そのものの主題にもなっている。
しかし、現実の社会において階級が見えにくくなり、階級闘争が成立しなくなった80年代以降、梶原の活躍の場はなくなり、作家として自滅していった。面白い。思えば、1960年生まれの私は、幼少時代、梶原一騎原作のマンガにずぶずぶにハマッて育った。にもかかわらず、思春期以降(1970年代半ば~)は、てのひらを返したように、梶原マンガを忘れていた。そこには、戦後文化論として、また作家論として、非常に面白い問題があるように思った。
後半は、一転して社会経済学の立場から、「アンダークラスとしてのフリーター・無業者層」を読み解く。これがまた面白い。著者によれば、マルクスは、技術革新が進むと、一定量の生産手段を運用するために必要な労働者の数は減少するので、「資本が必要とする労働者の数を超える部分は、失業したり、あるいは不安定就業の状態におかれる」ことを予言しているという。これを読むと、マルクスの労働理論って、決して過去の遺物ではないのだなあ、と思う。
しかし、マルクスもアダム・スミスも、失業とは、労働者(=労働力の所有者)が一時的に陥る状態と考えていた。これに対して著者は言う。企業が高卒者を雇用しない理由として最も多いのは「高卒の知識・能力では業務が遂行できないから」である。つまり、労働内容の変化(IT化、専門化)によって、単なる肉体労働力しか持たない者は、「搾取不能な労働力」あるいは「労働力の非所有者」に転落してしまった。これは過酷な宣告であるが、真実だと思う。フリーターや無業者を救済するには、最低限、彼らのステイタスを「資本家による搾取可能な労働力」にまで引き上げなければならないのだ。
このほか、女性の階級所属、階級移動と機会不平等について論じた段も読み応えあり。