○大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書) 岩波書店 2008.4
相前後して出た『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)が面白かったので、大澤真幸をもう1冊。しかし、こっちのほうが、やや難解で重かった。
著者は、見田宗介に倣って、日本の戦後を「理想→(夢→)虚構」という見取り図で描き出す。戦後の日本人にとって、「理想」とは、アメリカの視点にとって肯定的なものとして現れた。端的には「戦後民主主義」のことである。しかし、1960年代から70年代にかけて、『砂の器』『飢餓海峡』『人間の証明』という同工モチーフのミステリーが人気を呼んだ。これらは、過去からの来訪者(戦死者の代理人)が、理想の時代の成功者たちを糾弾する、という構造を持っている。1970年代、経済成長は終わり、現実の生活に深くコミットしない「新人類」が現れる。現実を基礎づけるものは「理想」から「虚構」に切り替わった。
ここまでは比較的わかりやすい。私自身は、まさにこの「虚構の時代」の世代であるが、その前に、実は地続きの熱い「理想の時代」があったことも、感覚的に理解できる。しかし、このあと著者は、今日の日本社会を指して「虚構の時代がすでに終わろうとしている――あるいはすでに終わった段階の中にいるのではないか」と指摘する。
では、何が始まっているのか。提示されるのは「リスク社会」という概念である。リスクとは、人が何事かを自己決定・選択した結果として現れる(と認知される)不確実な損害のことである。詳細は略すが、たとえば、便利で安逸な生活か/地球温暖化の防止か。市民的自由と人権か/テロへの対抗策か。多くの場合、予想される被害は計り知れないが、それが起こり得る確率はきわめて小さい。その結果、「リスク社会は、古代ギリシア以来の倫理の基本を否定してしまう」。つまり、どれほど可能性は低くても、テロの発生を防止するためには、極端で徹底した対策を取らなければならない。中庸とか平均は、何もしないに等しい。よって「多数派が支持する意見」は、正義や真理の近似ではなくなってしまう。なるほど。今、どうしてこれほど民主主義が無力に感じられるのか、少し分かったような気がした。でも、とても寒々しい納得である。
このように、われわれは「第三者の審級」(普遍的な真理や正義)の撤退した時代を生きている。しかし、一方で「第三者の審級が裏口から回帰している」とも著者はいう。別の言葉でいえば、「虚構の時代」の後にきたのは、虚構への耽溺(リベラルな多文化主義=物語る権利)と現実への回帰(原理主義=真理への執着)が対立・共存する奇妙な「不可能性の時代」である。
と、乱暴にまとめてみた。最後に著者は、この閉塞的な状況を「愛」によって克服するというアクロバティックな提言で筆を擱く。それも「裏切りを孕んだ愛」こそが、普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないかという。ここは難しい。社会学を遠く離れて、哲学、むしろ宗教の領分である。ゆっくり考えてみたい。
相前後して出た『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)が面白かったので、大澤真幸をもう1冊。しかし、こっちのほうが、やや難解で重かった。
著者は、見田宗介に倣って、日本の戦後を「理想→(夢→)虚構」という見取り図で描き出す。戦後の日本人にとって、「理想」とは、アメリカの視点にとって肯定的なものとして現れた。端的には「戦後民主主義」のことである。しかし、1960年代から70年代にかけて、『砂の器』『飢餓海峡』『人間の証明』という同工モチーフのミステリーが人気を呼んだ。これらは、過去からの来訪者(戦死者の代理人)が、理想の時代の成功者たちを糾弾する、という構造を持っている。1970年代、経済成長は終わり、現実の生活に深くコミットしない「新人類」が現れる。現実を基礎づけるものは「理想」から「虚構」に切り替わった。
ここまでは比較的わかりやすい。私自身は、まさにこの「虚構の時代」の世代であるが、その前に、実は地続きの熱い「理想の時代」があったことも、感覚的に理解できる。しかし、このあと著者は、今日の日本社会を指して「虚構の時代がすでに終わろうとしている――あるいはすでに終わった段階の中にいるのではないか」と指摘する。
では、何が始まっているのか。提示されるのは「リスク社会」という概念である。リスクとは、人が何事かを自己決定・選択した結果として現れる(と認知される)不確実な損害のことである。詳細は略すが、たとえば、便利で安逸な生活か/地球温暖化の防止か。市民的自由と人権か/テロへの対抗策か。多くの場合、予想される被害は計り知れないが、それが起こり得る確率はきわめて小さい。その結果、「リスク社会は、古代ギリシア以来の倫理の基本を否定してしまう」。つまり、どれほど可能性は低くても、テロの発生を防止するためには、極端で徹底した対策を取らなければならない。中庸とか平均は、何もしないに等しい。よって「多数派が支持する意見」は、正義や真理の近似ではなくなってしまう。なるほど。今、どうしてこれほど民主主義が無力に感じられるのか、少し分かったような気がした。でも、とても寒々しい納得である。
このように、われわれは「第三者の審級」(普遍的な真理や正義)の撤退した時代を生きている。しかし、一方で「第三者の審級が裏口から回帰している」とも著者はいう。別の言葉でいえば、「虚構の時代」の後にきたのは、虚構への耽溺(リベラルな多文化主義=物語る権利)と現実への回帰(原理主義=真理への執着)が対立・共存する奇妙な「不可能性の時代」である。
と、乱暴にまとめてみた。最後に著者は、この閉塞的な状況を「愛」によって克服するというアクロバティックな提言で筆を擱く。それも「裏切りを孕んだ愛」こそが、普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないかという。ここは難しい。社会学を遠く離れて、哲学、むしろ宗教の領分である。ゆっくり考えてみたい。