○末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』 平凡社 2008.10
鴎外は、どうも好きになれない。陸軍軍医総監として国家に生涯を捧げたように見えて、近代的自我に根ざしたロマンチシズムの表現者でもあるし、権威主義的な家父長の顔と、でれでれに家庭的なパパの顔が同居している。医者の冷酷さ、洋行帰りのバタ臭さ、漢詩文の東洋趣味、そして、無学な読者を遮断するような、史伝小説の文体。どの座標軸から論評しても何かがはみ出してしまう、厄介な文学者だと私は感じる。
著者の末延芳晴氏には、『荷風のあめりか』の著書がある。アメリカ女性との恋愛体験(性愛)を通じて「非戦」の思想を獲得した永井荷風を論じた好著である。著者は、同じように鴎外文学についても、「奥底にかすかに流れる『非戦』の通奏低音」を聴こうと試みている。しかし、その分析は、荷風ほどには成功していないと思う。著者が真摯に鴎外を読み解こうとすればするほど、それは「深読み」あるいは「贔屓の引き倒し」じゃない?と首を傾げたくなる。鴎外の仕掛けた韜晦があまりに深すぎるのだ。
鴎外は、少なくとも公的な生涯において「国家>個人」という図式を疑うような素振りは見せなかった(と思う)。けれども、一方、鴎外には、いくつかの”問題作”があることを、私は本書を読んで初めて知った。そのひとつが、日露戦争の従軍体験を歌った『うた日記』である。特に「罌粟(けし)、人糞(ひとくそ)」は衝撃的。日本兵にレイプされた少女が、罌粟の花を大量に食べて自殺を図るが死に切れない、母親は人糞を食べさせて罌粟を吐かせようとするが吐けない、という母娘にとって地獄のような顛末を淡々と叙した長詩である。
短編『鼠坂』は、読んだとき感心しなかったが、考えてみると、日本人従軍記者が(←兵士ではない!)現地女性に性的暴行を働いていた(帰国後、その幻影に苦しめられて頓死する)という、ものすごい告発小説である。本書によれば、日清戦争に従軍した東京日日新聞の記者も、旅順において住民虐殺に加わったことを告白しているというが、こういうジャーナリストの直接的「犯罪」について、今の新聞社はどういう見解を持っているんだろう。なお、軍医である鴎外は、軍人の蛮行を告発できないため、従軍記者の犯罪として書いた、という指摘があることも附記しておこう。
一転して「扣鈕(ボタン)」は、いい詩だなあ。「ますらをの 玉と砕けし/ももちたり それも惜しけど/こも惜し扣鈕/身に添ふ扣鈕」と詠んで、百千万の兵士の生命と、失くした袖口のボタンを、並列に置いてみせる。ちょっと、井上陽水の「傘がない」を連想した。
日露戦争後、鴎外が文学者として復活を遂げる上で、田山花袋の『蒲団』が与えた影響を重視する視点も面白いと思った。正宗白鳥は「ばかばかしいような花袋文学にしらずしらず感化されたために、後年の豊富な鴎外文学が栄えたのである」と、いささか冷笑的に述べているが、著者は、白鳥の見解を一歩進めて、漱石の『道草』や藤村の『春』など、日本文学のさまざまな果実が、花袋文学の影響下に生まれたものと考えている。こういう役回りの文学者もいるのだなあ。
鴎外は、どうも好きになれない。陸軍軍医総監として国家に生涯を捧げたように見えて、近代的自我に根ざしたロマンチシズムの表現者でもあるし、権威主義的な家父長の顔と、でれでれに家庭的なパパの顔が同居している。医者の冷酷さ、洋行帰りのバタ臭さ、漢詩文の東洋趣味、そして、無学な読者を遮断するような、史伝小説の文体。どの座標軸から論評しても何かがはみ出してしまう、厄介な文学者だと私は感じる。
著者の末延芳晴氏には、『荷風のあめりか』の著書がある。アメリカ女性との恋愛体験(性愛)を通じて「非戦」の思想を獲得した永井荷風を論じた好著である。著者は、同じように鴎外文学についても、「奥底にかすかに流れる『非戦』の通奏低音」を聴こうと試みている。しかし、その分析は、荷風ほどには成功していないと思う。著者が真摯に鴎外を読み解こうとすればするほど、それは「深読み」あるいは「贔屓の引き倒し」じゃない?と首を傾げたくなる。鴎外の仕掛けた韜晦があまりに深すぎるのだ。
鴎外は、少なくとも公的な生涯において「国家>個人」という図式を疑うような素振りは見せなかった(と思う)。けれども、一方、鴎外には、いくつかの”問題作”があることを、私は本書を読んで初めて知った。そのひとつが、日露戦争の従軍体験を歌った『うた日記』である。特に「罌粟(けし)、人糞(ひとくそ)」は衝撃的。日本兵にレイプされた少女が、罌粟の花を大量に食べて自殺を図るが死に切れない、母親は人糞を食べさせて罌粟を吐かせようとするが吐けない、という母娘にとって地獄のような顛末を淡々と叙した長詩である。
短編『鼠坂』は、読んだとき感心しなかったが、考えてみると、日本人従軍記者が(←兵士ではない!)現地女性に性的暴行を働いていた(帰国後、その幻影に苦しめられて頓死する)という、ものすごい告発小説である。本書によれば、日清戦争に従軍した東京日日新聞の記者も、旅順において住民虐殺に加わったことを告白しているというが、こういうジャーナリストの直接的「犯罪」について、今の新聞社はどういう見解を持っているんだろう。なお、軍医である鴎外は、軍人の蛮行を告発できないため、従軍記者の犯罪として書いた、という指摘があることも附記しておこう。
一転して「扣鈕(ボタン)」は、いい詩だなあ。「ますらをの 玉と砕けし/ももちたり それも惜しけど/こも惜し扣鈕/身に添ふ扣鈕」と詠んで、百千万の兵士の生命と、失くした袖口のボタンを、並列に置いてみせる。ちょっと、井上陽水の「傘がない」を連想した。
日露戦争後、鴎外が文学者として復活を遂げる上で、田山花袋の『蒲団』が与えた影響を重視する視点も面白いと思った。正宗白鳥は「ばかばかしいような花袋文学にしらずしらず感化されたために、後年の豊富な鴎外文学が栄えたのである」と、いささか冷笑的に述べているが、著者は、白鳥の見解を一歩進めて、漱石の『道草』や藤村の『春』など、日本文学のさまざまな果実が、花袋文学の影響下に生まれたものと考えている。こういう役回りの文学者もいるのだなあ。