○丸山真男『日本の思想』(岩波新書) 岩波書店 1961.11
たぶん、いや絶対、むかし読んだことがあるよなあ、と思いながらの再読。本書は2つの論文と2つの講演からなる。冒頭の「日本の思想」は、日本思想史の不幸な特質を論じたもの。日本では、伝統思想が外来思想に対話や対決を迫ることがなく、逆に、伝統思想が変革や再生を経験することもなく、あらゆる思想が無時間的に雑居してきた。それゆえ、日本人は、どんな新思想でも(あるいは芸術様式でも)手持ちのストックから「よく似たもの」を都合よく「思い出す」ことができるのである。
さて、機軸(思想的伝統)なしに憲法政治(民主政治)を始めることの恐ろしさを認識していた伊藤博文は、「我国ニ在テ機軸トスベキハ、独リ皇室アルノミ」というフィクションを打ち立てる。この「国体」は、帝国臣民に厳しい「無限責任」を要求するように見えて、実は「巨大な無責任への転落の可能性」を内包していた。
前段は、いかにもジャーナリズム受けしそうな、皮肉の効いた、颯爽とした文体である。高校生くらいで読んでいるとすれば、必ず前段を面白がったに違いない。しかし、今読むと、史料に基づいた後段のほうにむしろ惹かれる。臣民の権利をめぐる、伊藤博文と森有礼のやりとりが興味深い。伊藤の「抑憲法ヲ制定スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」という発言を読むと、やっぱりこのひとは、日本のリベラリストの祖だなあ、と思った。
2番目の「近代日本の思想と文学」は、いちばん読みにくかった。残念ながら、「プロ(レタリア)文学論」とか「ナップ」とか「文芸戦線」の用語がピンとこないのである。
次の「思想のあり方について」はよく分かる。タコツボ型とササラ型なんて、例によって、うまい比喩だ。しかし、戦前にタコツボの間をつないで国民的意識の統一を確保していた天皇制に代わって、マスコミの役割が期待されているけれど、この点は、近い将来、マスコミの影響力が低下すると、分からなくなるかもしれない。あと、本来、マスコミとは孤立・受動的な個人に働きかけるもので、組織体と組織体の間をつなぐ力には乏しい、という細やかな分析には、感心させられる。
最後が「『である』ことと『する』こと」。教科書や入試問題によく出ていた文章だが、いまはどうなのかな。「である」価値(身分、家柄)から「する」価値(実用)へという移行を、基本的には肯定的に捉えながら、研究者の昇進が論文の内容よりも本数で判断される趨勢を嘆き、文化的創造とは不断に忙しく働くことではないと断じて、「教養」や「休止」「静閑」の価値に注意を喚起するところに、むしろ現代性を感じる。
たぶん、いや絶対、むかし読んだことがあるよなあ、と思いながらの再読。本書は2つの論文と2つの講演からなる。冒頭の「日本の思想」は、日本思想史の不幸な特質を論じたもの。日本では、伝統思想が外来思想に対話や対決を迫ることがなく、逆に、伝統思想が変革や再生を経験することもなく、あらゆる思想が無時間的に雑居してきた。それゆえ、日本人は、どんな新思想でも(あるいは芸術様式でも)手持ちのストックから「よく似たもの」を都合よく「思い出す」ことができるのである。
さて、機軸(思想的伝統)なしに憲法政治(民主政治)を始めることの恐ろしさを認識していた伊藤博文は、「我国ニ在テ機軸トスベキハ、独リ皇室アルノミ」というフィクションを打ち立てる。この「国体」は、帝国臣民に厳しい「無限責任」を要求するように見えて、実は「巨大な無責任への転落の可能性」を内包していた。
前段は、いかにもジャーナリズム受けしそうな、皮肉の効いた、颯爽とした文体である。高校生くらいで読んでいるとすれば、必ず前段を面白がったに違いない。しかし、今読むと、史料に基づいた後段のほうにむしろ惹かれる。臣民の権利をめぐる、伊藤博文と森有礼のやりとりが興味深い。伊藤の「抑憲法ヲ制定スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」という発言を読むと、やっぱりこのひとは、日本のリベラリストの祖だなあ、と思った。
2番目の「近代日本の思想と文学」は、いちばん読みにくかった。残念ながら、「プロ(レタリア)文学論」とか「ナップ」とか「文芸戦線」の用語がピンとこないのである。
次の「思想のあり方について」はよく分かる。タコツボ型とササラ型なんて、例によって、うまい比喩だ。しかし、戦前にタコツボの間をつないで国民的意識の統一を確保していた天皇制に代わって、マスコミの役割が期待されているけれど、この点は、近い将来、マスコミの影響力が低下すると、分からなくなるかもしれない。あと、本来、マスコミとは孤立・受動的な個人に働きかけるもので、組織体と組織体の間をつなぐ力には乏しい、という細やかな分析には、感心させられる。
最後が「『である』ことと『する』こと」。教科書や入試問題によく出ていた文章だが、いまはどうなのかな。「である」価値(身分、家柄)から「する」価値(実用)へという移行を、基本的には肯定的に捉えながら、研究者の昇進が論文の内容よりも本数で判断される趨勢を嘆き、文化的創造とは不断に忙しく働くことではないと断じて、「教養」や「休止」「静閑」の価値に注意を喚起するところに、むしろ現代性を感じる。