見もの・読みもの日記

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クレオールの楽園/魔都上海(劉健輝)

2010-09-06 22:56:15 | 読んだもの(書籍)
○劉健輝『増補:魔都上海:日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2010.8

 本書は、2000年6月、講談社から同じ題で刊行されたというが、私の記憶にはなかった。文庫版を見て、はじめて本書の存在を知った。調べたら、選書メチエか(さすが)! しかし、近年は品切れ入手不可になっているらしかった。

 本書を見て、何より興味を掻き立てられたのは、「魔都」と言い、オビの「爛熟と流転の軌跡」あるいは「日本人の憧れ」と言い、いかにも使い古されたキャッチコピーではあるけれど、それが中国人の著者に使われていたことだ。巻末の解説に海野弘氏が書かれている「ようやく、中国人研究者による『魔都上海』が書かれるようになった。中国の現代史も世界史の中に開かれてきたことに、私はうれしいおどろきを感じた」という感慨を、私も瞬間的に嗅ぎ取っていたのである。

 本書は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、「上海」体験、もしくは「上海」という存在が、日本人に与えた影響を丹念に解明しようとした労作である。幕末、上海は既に西洋列強の最前線だった。多くのサムライが、洋行の途上、上海で西洋文明の華やかさと資本主義(植民地主義)の苛烈さを目の当たりに体験した。また、上海をベースにした宣教師たちの出版活動は、日本にさまざまな情報をもたらした。1840年代の墨海書館では、牛の動力で活字の印刷機械をまわしていた、なんて話は初めて聞いた! 面白いなあ。

 「永遠の漂民」(著者)として生きた「にっぽん音吉」の物語も興味深く読んだ。日本という国が、国際感覚を得て戻ってきた日本人に冷淡なのは、どうも昔から変わらない気がする。また、幕末日本に多大な足跡を残した商人グラバーが、生涯、上海と深いかかわりを持ち続けたということも初めて知った。

 このように、幕末日本に西洋の情報を与え続けた上海であるが、明治維新以後、日本が西洋から直接、制度と文物を輸入するようになると、情報の中継地としての意味は急速に色褪せてしまう。しかし、列国の利害が複雑に入り込んだ上海には、「国民国家」の枠に収まらない「クレオール」な近代性があった。それゆえ、「国民国家」や「ナショナリズム」の統制に閉塞感を抱く日本人知識人の、格好の逃げ場となっていく。おお~。「租界」時代の上海を、単純に「国辱の歴史」とするのではなくて、こういう評価視点で語れる中国人研究者が現れたということに、私は強い感銘を受けた(私の感覚がもう古いのかしら)。

 上海に耽溺した日本人は多いが、その惹きつけられかたはさまざまである。「租界」の近代性には憧れても「県城」の伝統的空間を嫌悪した者もいれば、むしろ伝統的空間に郷愁を感じる日本人(永井荷風の父など)もいた。芥川は上海の「混沌」を徹底的に拒絶した(むしろ北京の「単純」さを愛した)が、横光利一に上海行きを勧めたのは芥川だという。このあたりの広汎で丹念な研究は、とにかく面白い。そして、その合い間に、日中ツーリズムの成立と進展、中国の月份牌に描かれた女性身体の解放=消費など、1冊で語ってしまうのは勿体ないような豊富な話題が詰め込まれている。

 けれども、半世紀以上にわたって「近代日本の離脱者」の憧れだった上海は、次第に「近代日本の追随者」に侵食され、戦争によって最終的に「内地」に抱き込まれてしまう。本書が描こうとした、近代日本の「他者」としての上海のスケッチは、これでひとまず終焉を迎える。

 最後の「補論」は、まことに慌ただしく、日本軍占領下→共産党中国→文革→80~90年代の上海の変貌をたどっているが、これは本当に「付けたり」に過ぎない。戦中、戦後、そして現在に至る(もしかしたら近未来までの)上海と日本の関係については、十分に想を練った著者の新稿に期待したいと思う。
コメント
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