見もの・読みもの日記

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ユーラシアを駆ける/モンゴル帝国と長いその後(杉山正明)

2010-10-11 20:39:17 | 読んだもの(書籍)
○杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史09) 講談社 2008.12

 この夏、中国の内モンゴル自治区を旅行してきた。ジンギスカンの陵墓を訪ね、内蒙古博物院でモンゴルの歴史に関する出土文物や民俗資料を多数見た。そこで、この機会に少しモンゴル史を学ぼうと思って本書を手に取った。

 タイトルから想像して、まず13世紀初頭のモンゴル帝国建国の物語があって、引き続き「長いその後」が描かれるのだろうと思っていた。ところが、本書の著述は、はるか古代、前6世紀、黒海の北側に出現した、ギリシア語でスキタイと呼ばれる遊牧複合連合体から始まる。次いで顕著な遊牧国家は、前200年前後の匈奴。以後、ユーラシアの東西で大小さまざまな遊牧国家が興亡し、その伝統の上に、ようやくモンゴル帝国が出現する(なお、著者はモンゴルの記録が一度も「帝国」を名乗っていないことに注意を促している)。

 ひそかに期待していたチンギス・カンの神話的な伝記物語は、ほとんど記述されない。その代わり、私が全く知らなかった歴史叙述、第二代オゴデイの企てたバトゥの西征(ロシア・東欧遠征)、第四代モンケ政権下のフレグの西征(中東侵攻、アッバース朝を滅ぼし、バグダードを開城する)などは、息を呑むような面白さだった。あと、金の中都(のち元の大都→北京)に生まれたオングト族、ネストリウス派キリスト教徒のサウマーが、ローマ、パリに至る大旅行の物語も。

 かと思えば、突如場面は中世ヨーロッパに転じ、フランス王(聖王)ルイ九世が十字軍を率いて地中海に乗り出す。何故?モンゴルと何の関係が?と思っていると、キプロス島に滞在中のルイ九世のもとに、モンゴルからの使節が訪ねてくる。その後の複雑な情勢の変化と思惑のすれ違いはさておき、13世紀当時、モンゴル皇帝とフランス王が互いの存在を認識し、書簡を交わし合っていたというのは、私には驚きだった。さらに、モンゴル皇帝の「国書」がヨーロッパの公文書館に残っているということも!

 つくづくモンゴル史を専門にするのは大変だろうなあ。モンゴル語文献はもとより、東は日本・韓国・中国など漢字文化圏の資料から、根本史料の『集史』(モンゴル帝国の正史)はペルシア語でつづられ、中東・ヨーロッパの古文書まで渉猟しなければならないのだから。しかし、それは当然のことだ。モンゴル帝国こそは人類史上はじめての「世界帝国」なのだから。14世紀初頭、モンゴル時代のアフロ・ユーラシアは海陸ともに「空前の交流・交易の波」に包まれ、現実的な世界認識が東西にもたらされた。この重要な「世界史へのステップ」を無視して、「大発見の時代」や「大航海時代」を大げさに言いつのる従来の常識に対して、著者は厳しい苦言を呈している。

 同様のことは、ヨーロッパにおけるモンゴル兵の悪鬼の如きイメージについても言える。著者によれば、モンゴル軍は常に周到な調略工作を行い、戦わずして敵が崩れるように仕向けた。今に伝わる大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージは、「モンゴル自身が演出し、あおりたてた戦略」であった。けれども、たとえばバトゥ軍の侵攻を受けたロシアの被害は、ロシア人史家によって過大に成長してきた。モンゴルが悪逆非道であればこそ、その災厄からロシアを救い出したツァーリの権力は正当化される。「ロシアにとってモンゴルは愛国の炎を燃えさせる便利な手立てのひとつなのである」って、どこかでも聞いたような話である。

 時間軸では紀元前からモンゴル帝国、そしてモンゴル王家の「婿どの」たちの16~17世紀まで、空間軸では極東の日本(終章にちょっとだけ登場)から西ヨーロッパまでを自在に駆け抜ける本書は、「ユーラシア史」という、日本人があまり体験したことのない歴史を垣間見せてくれる。それは、普段われわれが「歴史」と呼んでいるものが、どれだけ「断片」化した歴史であるか、反省を迫るものでもある。
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