○山口二郎『ポピュリズムへの反撃:現代民主主義復活の条件』(角川Oneテーマ21) 角川書店 2010.10
私は、もともと政治に関心があるほうではない。90年ごろまで日本の政治状況は、素人があれこれ論ずる必要を感じなかった。小さなトラブルや対立はあっても、最後は落ち着くべきところに落ち着くと思っていた。ところが、最近は、政治家も有権者も、それから有権者予備軍である若者も、肝の冷えるような暴走と迷走を繰り返している。「危険な政治家、自殺的な政策」に対する、あの無責任な熱狂は何なのか。
本書は、ポピュリズムという切り口から、この10年間の日本の政治について考えたものである。ただし、小泉構造改革以来の10年間の分析はあまり詳しくない。この1年間が多事多端すぎて(鳩山内閣誕生から退陣、菅内閣誕生、民主党代表選)、その同時進行の分析だけで紙面を使いはたしてしまった感がある。
ポピュリズムとは「大衆のエネルギーを動員しながら一定の政治目標を実現する手法」をいう。いや、むしろ、政治学者バーナード・クリックによる「ポピュリズムとは、多数派を決起させること」「多数派とは、自分たちは今、政治的統合体の外部に追いやられており、教養ある支配層から蔑視され見くびられている(略)と考えているような人々である」という説明のほうが、分かりやすいかもしれない。この不満をバネに「多数派」の人々は、富の再分配、「われわれ」と「奴ら」の線の引き直しを求める。このとき、大きな威力を発揮するのが、メディアによってつくられた「ステレオタイプ」である。
著者は、ポピュリズムやステレオタイプを全否定しているわけではない。19世紀~20世紀半ばまでのポピュリズム(大衆動員)は、圧倒的に実質上の平等を求める運動だった。また、人間はステレオタイプなしに生きていくことはできない。しかし、20世紀半ば以降のポピュリスト的リーダーは、根拠のない(客観的な経済格差や不平等構造と対応しない)「われわれと奴ら」の線引きを描き出すことで、「奴ら」に対する多数派の不信と憎悪を掻き立て、自滅的な「改革」を成功させてしまった。ここに問題がある。
では、どうすればよいか。著者は、もう一度、みんなが理性的になって、意味のある対立軸にしたがって政治的選択をしていく「古典的な民主主義」に戻ることはもうないだろう、とはっきり述べている。え~身も蓋もない…と思ったけど、ムダな期待は抱かせないのが、学者の良心というものか。でも、詳しく読んでいくと、著者が具体的に政治家に求めることは「現実認識に立った政策決定」だったり「各党間の徹底的な政策論議」だったりして、これは、やっぱり理性的で古典的な民主主義に戻れってことじゃないのかな、と首をひねった。
われわれ有権者へのクスリとして、著者は、自由と解放の後に幻滅は不可避である、という堀田善衛氏のことば(『天上大風』)を引用している。嬉しいな。私も堀田善衛さんのこの本、大好きなので。戦後生まれの日本人は、この度の政権交代によって「自由と解放」そして「幻滅」という政治的経験を、ようやく一周したに過ぎない。いまの政治家と有権者に必要なのは、次の選択肢にすばやく乗り換える消費者マインドではなく、幻滅を乗り越え、しつこく、しぶとく政治の変化を追求していく覚悟だと思う。
「民主主義とは優れたリーダーがてきぱきと仕事をこなしてくれる仕組みではありません」というのも、いい言葉だと思った。優れたリーダーを待望する言説には気をつけよう。民主主義は、いつも弱さや幻滅とともにある、本質的にカッコ悪いものなのだ。
私は、もともと政治に関心があるほうではない。90年ごろまで日本の政治状況は、素人があれこれ論ずる必要を感じなかった。小さなトラブルや対立はあっても、最後は落ち着くべきところに落ち着くと思っていた。ところが、最近は、政治家も有権者も、それから有権者予備軍である若者も、肝の冷えるような暴走と迷走を繰り返している。「危険な政治家、自殺的な政策」に対する、あの無責任な熱狂は何なのか。
本書は、ポピュリズムという切り口から、この10年間の日本の政治について考えたものである。ただし、小泉構造改革以来の10年間の分析はあまり詳しくない。この1年間が多事多端すぎて(鳩山内閣誕生から退陣、菅内閣誕生、民主党代表選)、その同時進行の分析だけで紙面を使いはたしてしまった感がある。
ポピュリズムとは「大衆のエネルギーを動員しながら一定の政治目標を実現する手法」をいう。いや、むしろ、政治学者バーナード・クリックによる「ポピュリズムとは、多数派を決起させること」「多数派とは、自分たちは今、政治的統合体の外部に追いやられており、教養ある支配層から蔑視され見くびられている(略)と考えているような人々である」という説明のほうが、分かりやすいかもしれない。この不満をバネに「多数派」の人々は、富の再分配、「われわれ」と「奴ら」の線の引き直しを求める。このとき、大きな威力を発揮するのが、メディアによってつくられた「ステレオタイプ」である。
著者は、ポピュリズムやステレオタイプを全否定しているわけではない。19世紀~20世紀半ばまでのポピュリズム(大衆動員)は、圧倒的に実質上の平等を求める運動だった。また、人間はステレオタイプなしに生きていくことはできない。しかし、20世紀半ば以降のポピュリスト的リーダーは、根拠のない(客観的な経済格差や不平等構造と対応しない)「われわれと奴ら」の線引きを描き出すことで、「奴ら」に対する多数派の不信と憎悪を掻き立て、自滅的な「改革」を成功させてしまった。ここに問題がある。
では、どうすればよいか。著者は、もう一度、みんなが理性的になって、意味のある対立軸にしたがって政治的選択をしていく「古典的な民主主義」に戻ることはもうないだろう、とはっきり述べている。え~身も蓋もない…と思ったけど、ムダな期待は抱かせないのが、学者の良心というものか。でも、詳しく読んでいくと、著者が具体的に政治家に求めることは「現実認識に立った政策決定」だったり「各党間の徹底的な政策論議」だったりして、これは、やっぱり理性的で古典的な民主主義に戻れってことじゃないのかな、と首をひねった。
われわれ有権者へのクスリとして、著者は、自由と解放の後に幻滅は不可避である、という堀田善衛氏のことば(『天上大風』)を引用している。嬉しいな。私も堀田善衛さんのこの本、大好きなので。戦後生まれの日本人は、この度の政権交代によって「自由と解放」そして「幻滅」という政治的経験を、ようやく一周したに過ぎない。いまの政治家と有権者に必要なのは、次の選択肢にすばやく乗り換える消費者マインドではなく、幻滅を乗り越え、しつこく、しぶとく政治の変化を追求していく覚悟だと思う。
「民主主義とは優れたリーダーがてきぱきと仕事をこなしてくれる仕組みではありません」というのも、いい言葉だと思った。優れたリーダーを待望する言説には気をつけよう。民主主義は、いつも弱さや幻滅とともにある、本質的にカッコ悪いものなのだ。