○高橋智『書誌学のすすめ:中国の愛書文化に学ぶ』(東方選書) 東方書店 2010.9
たとえば静嘉堂文庫や五島美術館が「古籍」を特集する展覧会を開催すると、私は欠かさず見に行く。日本の古書、華やかな料紙に散らされた古筆も美しいが、中国の古籍、四角い漢字が並んだだけの素っ気ない版面にも、「美」というか「迫力」というか、何か独特の、人を惹きつける力が存在することが感得される。
中国では、こうした魅力に富む古籍を「善本」と呼ぶ。日本語の「貴重書」に相当する単語だが、単に年代が古ければ貴重というわけではない。「真(偽物でなく)・精(精緻で)・新(新品のように保存がよい)」かつ、歴代の蔵書家が、版面に調和した美しい蔵書印を押し、校勘を書き入れ(※「書き込み」は本を汚すものを言う)、著名人の序跋を加えることによって、書物の価値は増す。この奥深い定義を知るだけでも、本書を読む価値があると思う。
本書には多数の図版があって、文章の理解を助けている。版面の美しさを引き立てる蔵書印とはどんなものか、著者が街の篆刻屋で彫ってもらった蔵書印と、これを中国の文献家(書誌学者)に見せたところ、「全然よくない」と言って、あらためて字を選んでもらった別の蔵書印の写真が並んでおり、素人にも、なるほどと腑に落ちる感じがする。
善本の極みといえば宋版だが、地域によって字様に特色があり、ぼってりした顔真卿の書体を学んだ四川刊本は「字大如銭、墨光似漆」と讃えられる。私はこの字様がいちばん好きだ。杭州刊本は、欧陽詢ふうの秀麗な美しさを持ち、福建刊本の鋭利で整然とした線の細さは柳公権の書風に比べられる。江西刊本にはこれといった特徴がないが、顔真卿・欧陽詢・柳公権の三者を兼ねると評されている。これも写真図版と見比べると、非常に分かりやすい説明だ。
また、本書には、古籍を求めて東奔西走する著者の、さまざまな(摩訶不思議な)実体験が生き生きと語られており、学術書の域を超えたユーモアと潤いを感じさせてくれる。江南の小さな村で鉄琴銅剣楼という蔵書楼を探していた著者が、橋のたもとで川魚を売っている男性に尋ねると、それが蔵書楼の管理人だったいうのは、まるでお伽噺のようだ。古書の即売会で、勤め先の大学の貴重書庫で、あるいは台北の故宮で、神出鬼没の仙女のように、忽然と著者の前に現れる書物。見たい、会いたいという著者の一念が貴重な書物を呼びよせるのか。いや、著者は謙虚に「書物が人を呼ぶ」と説いている。
今日に伝わる多くの古籍は、集積と離散を繰り返し経験してきた。海を渡って日本に至り、数百年を経て、また故国に還っていった書物も多い。その痕跡をかすかに伝えているのが蔵書印や跋文である(※湖北省図書館の蔵書に「尾府内庫図書」(尾張徳川家)の印があるとか、広州中山大学の蔵書に松崎慊堂の手跋があることを初めて知った。驚き!)。しかし、図書館で独立したコレクションとして扱われていない書物の由来を突き止めるのは困難を極めるという。そうだろうなあ…。
けれども朗報があって、中国では今、「古籍普査」が進行中だという。この「空前の大事業」によって、あらゆる古籍に押された印章の情報が集積されれば、古籍全体の流伝の歴史(それも国境を超えた)が明らかになるだろう。そして「善本」に関しては、デジタルデータを取得するばかりでなく、紙質・装丁に至るまで原本に似せた複製を「再造」し、国内の各図書館に善本の分身を配置する「中華再造善本」プロジェクトが立ちあがっているという。Googleブックスを凌駕する独創的な事業だと思う。中国文献学の伝統、畏るべし。
いま、書物は情報の器に過ぎず、情報は人間に使われるためにある、という考え方が大勢であろうと思う。それは一面では正しい。けれど私は、「書物の下に自らを置く」書誌学という著者の言葉に、内心深く共感するものである。
たとえば静嘉堂文庫や五島美術館が「古籍」を特集する展覧会を開催すると、私は欠かさず見に行く。日本の古書、華やかな料紙に散らされた古筆も美しいが、中国の古籍、四角い漢字が並んだだけの素っ気ない版面にも、「美」というか「迫力」というか、何か独特の、人を惹きつける力が存在することが感得される。
中国では、こうした魅力に富む古籍を「善本」と呼ぶ。日本語の「貴重書」に相当する単語だが、単に年代が古ければ貴重というわけではない。「真(偽物でなく)・精(精緻で)・新(新品のように保存がよい)」かつ、歴代の蔵書家が、版面に調和した美しい蔵書印を押し、校勘を書き入れ(※「書き込み」は本を汚すものを言う)、著名人の序跋を加えることによって、書物の価値は増す。この奥深い定義を知るだけでも、本書を読む価値があると思う。
本書には多数の図版があって、文章の理解を助けている。版面の美しさを引き立てる蔵書印とはどんなものか、著者が街の篆刻屋で彫ってもらった蔵書印と、これを中国の文献家(書誌学者)に見せたところ、「全然よくない」と言って、あらためて字を選んでもらった別の蔵書印の写真が並んでおり、素人にも、なるほどと腑に落ちる感じがする。
善本の極みといえば宋版だが、地域によって字様に特色があり、ぼってりした顔真卿の書体を学んだ四川刊本は「字大如銭、墨光似漆」と讃えられる。私はこの字様がいちばん好きだ。杭州刊本は、欧陽詢ふうの秀麗な美しさを持ち、福建刊本の鋭利で整然とした線の細さは柳公権の書風に比べられる。江西刊本にはこれといった特徴がないが、顔真卿・欧陽詢・柳公権の三者を兼ねると評されている。これも写真図版と見比べると、非常に分かりやすい説明だ。
また、本書には、古籍を求めて東奔西走する著者の、さまざまな(摩訶不思議な)実体験が生き生きと語られており、学術書の域を超えたユーモアと潤いを感じさせてくれる。江南の小さな村で鉄琴銅剣楼という蔵書楼を探していた著者が、橋のたもとで川魚を売っている男性に尋ねると、それが蔵書楼の管理人だったいうのは、まるでお伽噺のようだ。古書の即売会で、勤め先の大学の貴重書庫で、あるいは台北の故宮で、神出鬼没の仙女のように、忽然と著者の前に現れる書物。見たい、会いたいという著者の一念が貴重な書物を呼びよせるのか。いや、著者は謙虚に「書物が人を呼ぶ」と説いている。
今日に伝わる多くの古籍は、集積と離散を繰り返し経験してきた。海を渡って日本に至り、数百年を経て、また故国に還っていった書物も多い。その痕跡をかすかに伝えているのが蔵書印や跋文である(※湖北省図書館の蔵書に「尾府内庫図書」(尾張徳川家)の印があるとか、広州中山大学の蔵書に松崎慊堂の手跋があることを初めて知った。驚き!)。しかし、図書館で独立したコレクションとして扱われていない書物の由来を突き止めるのは困難を極めるという。そうだろうなあ…。
けれども朗報があって、中国では今、「古籍普査」が進行中だという。この「空前の大事業」によって、あらゆる古籍に押された印章の情報が集積されれば、古籍全体の流伝の歴史(それも国境を超えた)が明らかになるだろう。そして「善本」に関しては、デジタルデータを取得するばかりでなく、紙質・装丁に至るまで原本に似せた複製を「再造」し、国内の各図書館に善本の分身を配置する「中華再造善本」プロジェクトが立ちあがっているという。Googleブックスを凌駕する独創的な事業だと思う。中国文献学の伝統、畏るべし。
いま、書物は情報の器に過ぎず、情報は人間に使われるためにある、という考え方が大勢であろうと思う。それは一面では正しい。けれど私は、「書物の下に自らを置く」書誌学という著者の言葉に、内心深く共感するものである。