見もの・読みもの日記

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見えないものを見る視点/空海と密教美術(東京国立博物館)

2011-08-01 00:17:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『空海と密教美術』(2011年7月20日~9月25日)

 正直、あまり期待していなかったのである。「この夏、マンダラのパワーを浴びる」「国宝重要文化財98.9%」って、あまりに品のないコピーで、ケンカ売ってんのか?と腹立たしかった。でも、やっぱり行ってみるといい。展示品のひとつひとつは本物だなと感じることができた。

 参観したのは、第2週(~7/31)の最終日。冒頭は、大阪・金剛寺蔵の弘法大師像(平安時代)。赤い唇が生々しい。次週から鎌倉時代の写しに展示替えになる。図録で見ると、保存状態は格段にいいが、妖気は薄れるなあ。

 空海筆『聾瞽指帰(ろうこしいき)』は豪快にべろーんと展開されていた。これって、料紙のつなぎかたが水平でないため、一気に開くと扇型に「斜める」のである。わりと最近、同様のかたちで見たと思うのは、昨年夏に訪ねた高野山霊宝館の記憶だろうか。この空海の字は、縦画のまっすぐな力強さに惹かれる。

 和歌山・普門院の『勤操僧正像』も面白かった。まだ表現が定型化しないうちの高僧像は、どれも個性や表情が豊かだ。兵庫・一乗寺の天台高僧像を思い出す。高僧像といえば、東寺の真言七祖像は「龍猛」と「善無畏」が出ていた。前者は、太い腕、肉厚な額の下の鋭い眼光、ぽっちゃりした赤い唇が印象的である。後者は損傷が著しくてよく見えない(※七祖+空海の、持物・ポーズなど典型的な図像はこちら)。

 大きさに圧倒されるのは、和歌山・有志八幡講十八箇院(※解説)の『五大力菩薩像』。恐ろしげだが、どことなく優美でもある。それから、神護寺の『両界曼荼羅図(高雄曼荼羅)』のうち「胎蔵界」。はじめ、何が描いてあるのか、全然見えない!と思ったが、右端の直下からほぼ垂直に見上げると、照明の加減で、わずかに残った金泥が輝き、仏菩薩の姿がキラキラと浮かび上がってきて、感動した。

 さらに面白かったのは、醍醐寺の『四種護摩本尊並眷属図像』。ヨガのポーズ集みたいで、あまりにも異国的だ。空海の甥の智泉が描いた原本を、転写を重ねたものだという。西大寺の十二天図は、久しぶりだった。京博の常設展で、何度か見ていると思う。「梵天」と「地天」が出ていたが、前者は白鳥(白鵝)が可愛い。図録を見ると、このあとの「帝釈天」「火天」もそそられる。

 絵画に比べると、仏像は「おなじみ」が多かったが、展覧会ならではの位置から鑑賞することができるのはありがたい。東寺の兜跋毘沙門天像は、はじめて背後にまわって、足下の地天女・二鬼の背中を、三角形に波立つ雲が覆っていることを知る。また、毘沙門天像の宝冠の正面に、孔雀らしき霊鳥が描かれて(嵌め込まれて)いるのはよく目立つが、左右にはそれぞれ人物が描かれ(右は腹まわりの太い人物、左は長い棒状の得物を斜めに持つ)、背面は無文であることを確認した。

 金剛峯寺の大日如来像は、以前、京博でも、昨年、高野山霊宝館でも拝見したが、あまりピンとこなかった。それが、照明の効果で、こんなに印象が変わるものかと思った。威厳に圧倒されて、思わず手を合わせている観客を何人も見た。神護寺の蓮華虚空蔵菩薩と業用虚空蔵菩薩もよかった。垂らした髪、背の高い宝冠、密教系の持物などが西or南アジア的なのに、切れ長の目、平板で穏やかな顔つきは東アジア的で、その不思議な融合が魅力的である。いま、神護寺のサイト(※1※2)を見に行って、現地で拝観したことがあるのを思い出した。

 大阪・獅子窟寺の薬師如来、香川・聖通寺の千手観音像は、この展覧会場で拝観することができて「ラッキー」だと思った。東京から遠いだけでなく、ご開帳日の限られた「秘仏」だからである。どちらも穏やかな面相。獅子窟寺のお薬師さんは、手に桃(?)みたいなものを持っていた。図録写真には映ってないけど。

 ぜひコメントしておきたいのは、東寺の西院御影堂にまつられる不動明王の天蓋。黒々して、愛想のない物体だな、と思って通り過ぎてしまいそうになるが、目を凝らすと、敦煌壁画を思わせる飛天図が描かれている。さすがに図録写真ほどには見えてこないが、往時の華やかさを頭の中で再構成していくのは楽しい。

 残る「仏像彫刻」2室のうち、最初の部屋は、入った瞬間に、仁和寺+東寺観智院+醍醐寺だ、と了解してしまったので、省略。いよいよ最後の東寺講堂「立体曼荼羅」に進む。今回、出陳されているのは8体。うーむ、なんか中途半端だなあ。まず、最近、東博がお気に入りの方式で、高いバルコニーから全体を俯瞰する。しかし、端のほうにいる梵天や帝釈天は、遠すぎて、よく見えない。見下ろし方式が効果的なのは、手前の降三世明王くらいか。

 あとは立体曼荼羅の中に降りていく。これは、やっぱり現場ではあり得ない視点が獲得できて、面白かった。右端の持国天は、正面から見ると身体に厚みがあって威圧的だが、側面から見ると、かなりシャープな印象に変わる。向かって右側面は、衣や袖の流れにスピード感があるし、左側面は、振り上げた右手に対し、左手の太刀の引き付け具合(二刀流である)がリアルでカッコいい。

 大威徳明王は、完全にヒンドゥー教の神々の顔だと感じた。水牛は、目の位置がおかしいので、人面牛みたいになっているが。降三世明王は、背後にも顔があることを初めて知った。左足で大自在天(シヴァ)を、右足でその妃ウマを踏みつけているが、苦痛に身もだえするシヴァに対して、静かな表情のウマが、明王の足の甲に指先で触れている芸の細かさに、ぞくっとする。

 その隣り、増長天は生真面目に睨みをきかせているが、左足の下の邪鬼は、いつも参拝者に尻を向けているので、はじめて表情を確認して、笑ってしまった。いかにも、ケッ、やってらんねーやと言いたげである。帝釈天は「美男」とうたわれているが、隙がなさすぎ。武侠ドラマでいうと、主人公というより、主人公のライバルか敵役の顔だと思った。
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