○羽田正『新しい世界史へ:地球市民のための構想』(岩波新書) 岩波書店 2011.11
著者が信頼のおける歴史学者であることは百も承知だが、本書のタイトルには少し引いてしまった。理念だけ先走ったトンデモ本だったらどうしよう、と思って、読み始めるのをためらっていた。
そんなとき、東大本郷キャンパスで行われた『デジタル化時代における知識基盤の構築と人文学の役割-デジタル・ヒューマニティーズを手がかりとして-』というシンポジウム(11月29日)を聞きに行き、結局、長尾真氏(国立国会図書館長)の講演「国会図書館のデジタル・アーカイブへの取り組みと人文学への期待」しか聞けなかったのだが、図書館・ミュージアム・アーカイブズ等が、横断的なデジタル・アーカイブを形成することによって、全く新しい人文学の誕生が期待できること、羽田正氏が提唱する「新しい世界史」なども、そのひとつと言えるかもしれない、みたいな言及を、ちらっと長尾館長がなさったのである。そうか、そこにつながるのなら読んでみよう、と腹が決まった。
本書の構成はきわめて明快である。はじめに、私たち(日本人)が知っている「世界史」がどのように形成されてきたかを、帝国大学における「日本史」「東洋史」「西洋史」三講座の鼎立や、学習指導要領の変遷に従って述べる。現代人に必要な「新しい世界史」は、グローバル化した世界で起きる様々な出来事を理解し、地球市民として問題に取り組むための教養でなければならない。そう考えたとき、現行の世界史は、以下の点で時代に合わなくなっている。
(1)日本人の認識に基づく世界史である。→世界の人々と共通認識を形成できない。
(2)自と他の区別や違いを強調する性格を持つ。→世界の諸地域の問題を「彼らの」ではなく「自分たちの」問題として捉える姿勢が弱い。
(3)ヨーロッパ中心史観から自由でない。→地理的なヨーロッパと、概念的な「ヨーロッパ」が区別されずに用いられている。概念的な「ヨーロッパ」は、進歩、民主主義、科学などあらゆる正の価値を付与され、その対抗概念として「オリエント」や「アジア」が想定されており、自他の区別と「ヨーロッパ」の優位を主張する点で、第二の問題点を含有する。
そこで、新しい世界史をめざす試みは、「中心性の排除」と「関係性の発見」という二つの着眼点が重要になる。前者の最大の課題は、ヨーロッパ中心史観からの脱却である。しかし、ヨーロッパ中心史観を解体しようとして、別の中心(イスラームとか中国とか)を持ち込むのでは、もとも子もない。また中心を相対化するために周縁に視点を据えようとして「逆に周縁を中心とする世界史を構想してしまう」ことも避けるべきである(そうそう! よくぞ言ってくれた)。ジェンダーやサバルタンについても同様のことが言える。女性史という研究分野は存在してよいが、女性だけに焦点を絞って世界史を語ろうとすれば、それは逆の意味での中心史観になりかねない(同意。羽田先生、周到でバランスがいいな~)。
後者では、具体的なモノ(原料・産品)の生産・流通に着目した世界史や、海域世界史が、一定の成果をあげている。しかし、研究者に、つねに開かれた空間を描く構想力がなければ、従来の世界史認識にとどまってしまうことは、前者と同断である。著者は、「現行の世界史は、政治的、経済的、文化的を問わず、世界のどこかに中心を置いてストーリーを語ろうとする傾向がある」と述べているけれど、「中心」への依存って、現代人の宿痾みたいなものかな…。伝統的な道徳律とか信仰みたいな内面化された規範がないから、外に「中心」を必要とするのかもしれない。
最後は、著者自身が書こうとしている、新しい世界史の構想ノート。(1)ある時期の世界の人間集団を横に並べて見取り図を描く。(2)いくつかの時代について作られた見取り図を現代世界と比較する。時系列にはこだわらない。(3)モノや情報を通じた横のつながり(影響関係)を意識する。素人の感想を言えば、私はこういう世界史に、とても親近感を抱く。私が学校教育で習った世界史は、当然ながら時系列史だった。しかし、ひとたび学校を出てしまうと、小説やテレビドラマ、あるいは展覧会などを契機に、意外なモノや人物が同時代の地球上に存在していたこと、相互に影響を与えていたことが分かって、わくわくすることは少なくない。
終章の、世界史をジクソーパズルにたとえた比喩は感銘深かった。「イスラーム世界」というひとつのピースの色やデザインをいくら論じても、「世界史」という全体の図柄の中にそのピースを置いた途端に「人々のイスラーム理解は、もとに戻ってしまう」。ああ、こういうことってあるな、と思った。だから、全体のデザインを根本的に変えなければいけないのだ。長尾真先生のいう「デジタル化時代における知識基盤」の構築も、単なる効率化や量的拡大ではなく、人文社会科学知の刷新を支えるものでありたい、あってほしい、と思った。
著者は冒頭で「歴史学に元気がない」と書いているけれど、本書を読む限り、そんなことはない。法人化やら少子化やら、日本の高等教育(特に人文科学)をめぐって、最近、景気のいい話を聞いたことはないけれど、にもかかわらず、日本の大学、人文科学は十分に「熱い」と思った。
なお、本書だけでは、叙述が観念的で理解しにくいと感じる向きには、同じ著者の『東インド会社とアジアの海』(講談社、2007.12)の一読を勧めたい。本書を読みながら、4年前の、手に汗握るようなスリリングな感動が随所でよみがえり、ヨーロッパ中心主義から自由になるって、つまりあの解放感のことか、と思った。『イスラーム世界の創造』(東大出版会、2005)は、学術書だし、私の苦手分野だから…と思って敬遠していたが、あらためて読んでみようかと考えている。
著者が信頼のおける歴史学者であることは百も承知だが、本書のタイトルには少し引いてしまった。理念だけ先走ったトンデモ本だったらどうしよう、と思って、読み始めるのをためらっていた。
そんなとき、東大本郷キャンパスで行われた『デジタル化時代における知識基盤の構築と人文学の役割-デジタル・ヒューマニティーズを手がかりとして-』というシンポジウム(11月29日)を聞きに行き、結局、長尾真氏(国立国会図書館長)の講演「国会図書館のデジタル・アーカイブへの取り組みと人文学への期待」しか聞けなかったのだが、図書館・ミュージアム・アーカイブズ等が、横断的なデジタル・アーカイブを形成することによって、全く新しい人文学の誕生が期待できること、羽田正氏が提唱する「新しい世界史」なども、そのひとつと言えるかもしれない、みたいな言及を、ちらっと長尾館長がなさったのである。そうか、そこにつながるのなら読んでみよう、と腹が決まった。
本書の構成はきわめて明快である。はじめに、私たち(日本人)が知っている「世界史」がどのように形成されてきたかを、帝国大学における「日本史」「東洋史」「西洋史」三講座の鼎立や、学習指導要領の変遷に従って述べる。現代人に必要な「新しい世界史」は、グローバル化した世界で起きる様々な出来事を理解し、地球市民として問題に取り組むための教養でなければならない。そう考えたとき、現行の世界史は、以下の点で時代に合わなくなっている。
(1)日本人の認識に基づく世界史である。→世界の人々と共通認識を形成できない。
(2)自と他の区別や違いを強調する性格を持つ。→世界の諸地域の問題を「彼らの」ではなく「自分たちの」問題として捉える姿勢が弱い。
(3)ヨーロッパ中心史観から自由でない。→地理的なヨーロッパと、概念的な「ヨーロッパ」が区別されずに用いられている。概念的な「ヨーロッパ」は、進歩、民主主義、科学などあらゆる正の価値を付与され、その対抗概念として「オリエント」や「アジア」が想定されており、自他の区別と「ヨーロッパ」の優位を主張する点で、第二の問題点を含有する。
そこで、新しい世界史をめざす試みは、「中心性の排除」と「関係性の発見」という二つの着眼点が重要になる。前者の最大の課題は、ヨーロッパ中心史観からの脱却である。しかし、ヨーロッパ中心史観を解体しようとして、別の中心(イスラームとか中国とか)を持ち込むのでは、もとも子もない。また中心を相対化するために周縁に視点を据えようとして「逆に周縁を中心とする世界史を構想してしまう」ことも避けるべきである(そうそう! よくぞ言ってくれた)。ジェンダーやサバルタンについても同様のことが言える。女性史という研究分野は存在してよいが、女性だけに焦点を絞って世界史を語ろうとすれば、それは逆の意味での中心史観になりかねない(同意。羽田先生、周到でバランスがいいな~)。
後者では、具体的なモノ(原料・産品)の生産・流通に着目した世界史や、海域世界史が、一定の成果をあげている。しかし、研究者に、つねに開かれた空間を描く構想力がなければ、従来の世界史認識にとどまってしまうことは、前者と同断である。著者は、「現行の世界史は、政治的、経済的、文化的を問わず、世界のどこかに中心を置いてストーリーを語ろうとする傾向がある」と述べているけれど、「中心」への依存って、現代人の宿痾みたいなものかな…。伝統的な道徳律とか信仰みたいな内面化された規範がないから、外に「中心」を必要とするのかもしれない。
最後は、著者自身が書こうとしている、新しい世界史の構想ノート。(1)ある時期の世界の人間集団を横に並べて見取り図を描く。(2)いくつかの時代について作られた見取り図を現代世界と比較する。時系列にはこだわらない。(3)モノや情報を通じた横のつながり(影響関係)を意識する。素人の感想を言えば、私はこういう世界史に、とても親近感を抱く。私が学校教育で習った世界史は、当然ながら時系列史だった。しかし、ひとたび学校を出てしまうと、小説やテレビドラマ、あるいは展覧会などを契機に、意外なモノや人物が同時代の地球上に存在していたこと、相互に影響を与えていたことが分かって、わくわくすることは少なくない。
終章の、世界史をジクソーパズルにたとえた比喩は感銘深かった。「イスラーム世界」というひとつのピースの色やデザインをいくら論じても、「世界史」という全体の図柄の中にそのピースを置いた途端に「人々のイスラーム理解は、もとに戻ってしまう」。ああ、こういうことってあるな、と思った。だから、全体のデザインを根本的に変えなければいけないのだ。長尾真先生のいう「デジタル化時代における知識基盤」の構築も、単なる効率化や量的拡大ではなく、人文社会科学知の刷新を支えるものでありたい、あってほしい、と思った。
著者は冒頭で「歴史学に元気がない」と書いているけれど、本書を読む限り、そんなことはない。法人化やら少子化やら、日本の高等教育(特に人文科学)をめぐって、最近、景気のいい話を聞いたことはないけれど、にもかかわらず、日本の大学、人文科学は十分に「熱い」と思った。
なお、本書だけでは、叙述が観念的で理解しにくいと感じる向きには、同じ著者の『東インド会社とアジアの海』(講談社、2007.12)の一読を勧めたい。本書を読みながら、4年前の、手に汗握るようなスリリングな感動が随所でよみがえり、ヨーロッパ中心主義から自由になるって、つまりあの解放感のことか、と思った。『イスラーム世界の創造』(東大出版会、2005)は、学術書だし、私の苦手分野だから…と思って敬遠していたが、あらためて読んでみようかと考えている。