○飯泉太子宗『時をこえる仏像:修復師の仕事』(ちくまプリマー新書) 筑摩書房 2011.12
『壊れても仏像:文化財修復のはなし』(白水社、2009)の著者の飯泉太子宗さんの新著である。前著と重なる話題が多いが、前著が基本的に「仏像」(いつ、誰が、どんなふうに作ったの?)をテーマにしていたのに比べると、本書は、より多く「修復師という仕事」を語ることが主題になっている。
著者自身のことも少し詳しく語られていて、中学生か高校生の頃、西岡常一さんの『木のいのち木のこころ』を読んだのが、文化財の修理という仕事を初めて知ったきっかけだという。それで、一気に修復師になろうと決意したわけではなく、「世の中にはいろいろな仕事があるな、と思った程度」だったが、一方で、今でもぼんやり内容を覚えているのは、どこで影響をうけたのかもしれない、ともいう。まあ、そんなものかもしれない。
むしろ、祖父母が築200年(ええ!)の茅葺きの古民家に住んでいて、小中学生の頃は、父親に修繕の手伝いをやらされた、という話に感銘を受けた。修復師という仕事を選ぶべくして選んだ、という感じがした。面白かったのは高校時代。キリスト教の全寮制の高校で「営繕部」に所属し、窓とか棚とか、学校の備品を修理していたという。変わった学校だけど、こういう教育はいいな。修道院の伝統を引いているのだろうか。あと、ものを造るのが好きな人には「創作(自己表現)好き」と「修理好き」タイプがあり、著者は後者であるという。当然といえば当然だが、いまどきは、前者ばかりが脚光を浴びて、後者を軽んじ過ぎではないかと思う。
大学卒業後は、美術院国宝修理所で経験を積み、現在は関東の田舎(茨城県桜川市)で仕事をしている、というのは前著にも書かれていた。国宝や重文を扱う機会の多い国宝修理所のほうが、修復師として、やりがいがあるのじゃないか、と勝手に憶測するのだが、著者は、今の仕事が自分に合っている、という。大企業や大学病院に勤めるばかりが仕事じゃなくて、町工場や町医者という選択もあるのだと思う。美術院時代に、唐招提寺の千手観音の修理にも関わったらしいが、1000本近い脇手を外して、ひたすら表面の漆箔の剥落止め(1日何本も進まない)という単調な仕事はきつかった、という回想には苦笑してしまった。
著者は、自分の修理が100年は保ってほしい、と書いている。100年というのは、自分の人生よりも長い射程で、自分の仕事の責任を考えるということだ。あらゆる「仕事」のサイクルが短くなって、1年とか半年とか、甚だしいと1ヵ月かそこらで、結果を出し、評価されることが当たり前になってる現在、こういう仕事があることを思い出すのは、なんだか嬉しい。
別の言い方では、著者は修復師の仕事を「バトンリレー」に喩えている。外れた部材を接着剤でくっつけてしまうような修理は、よくない修理の代表例に挙げられるが、もとの部材が紛失せず、次の修理のタイミングまで伝わる利点もある。常に万全の修理を受けられればいいが、戦争や災害など緊急の際は仕方ない。次の修理者はぶつぶつ言いながら修理したとしても、それはそれでいいのではないか、というのは、いかにも現場に立った、大らかな意見で、いいなあと思った。
『壊れても仏像:文化財修復のはなし』(白水社、2009)の著者の飯泉太子宗さんの新著である。前著と重なる話題が多いが、前著が基本的に「仏像」(いつ、誰が、どんなふうに作ったの?)をテーマにしていたのに比べると、本書は、より多く「修復師という仕事」を語ることが主題になっている。
著者自身のことも少し詳しく語られていて、中学生か高校生の頃、西岡常一さんの『木のいのち木のこころ』を読んだのが、文化財の修理という仕事を初めて知ったきっかけだという。それで、一気に修復師になろうと決意したわけではなく、「世の中にはいろいろな仕事があるな、と思った程度」だったが、一方で、今でもぼんやり内容を覚えているのは、どこで影響をうけたのかもしれない、ともいう。まあ、そんなものかもしれない。
むしろ、祖父母が築200年(ええ!)の茅葺きの古民家に住んでいて、小中学生の頃は、父親に修繕の手伝いをやらされた、という話に感銘を受けた。修復師という仕事を選ぶべくして選んだ、という感じがした。面白かったのは高校時代。キリスト教の全寮制の高校で「営繕部」に所属し、窓とか棚とか、学校の備品を修理していたという。変わった学校だけど、こういう教育はいいな。修道院の伝統を引いているのだろうか。あと、ものを造るのが好きな人には「創作(自己表現)好き」と「修理好き」タイプがあり、著者は後者であるという。当然といえば当然だが、いまどきは、前者ばかりが脚光を浴びて、後者を軽んじ過ぎではないかと思う。
大学卒業後は、美術院国宝修理所で経験を積み、現在は関東の田舎(茨城県桜川市)で仕事をしている、というのは前著にも書かれていた。国宝や重文を扱う機会の多い国宝修理所のほうが、修復師として、やりがいがあるのじゃないか、と勝手に憶測するのだが、著者は、今の仕事が自分に合っている、という。大企業や大学病院に勤めるばかりが仕事じゃなくて、町工場や町医者という選択もあるのだと思う。美術院時代に、唐招提寺の千手観音の修理にも関わったらしいが、1000本近い脇手を外して、ひたすら表面の漆箔の剥落止め(1日何本も進まない)という単調な仕事はきつかった、という回想には苦笑してしまった。
著者は、自分の修理が100年は保ってほしい、と書いている。100年というのは、自分の人生よりも長い射程で、自分の仕事の責任を考えるということだ。あらゆる「仕事」のサイクルが短くなって、1年とか半年とか、甚だしいと1ヵ月かそこらで、結果を出し、評価されることが当たり前になってる現在、こういう仕事があることを思い出すのは、なんだか嬉しい。
別の言い方では、著者は修復師の仕事を「バトンリレー」に喩えている。外れた部材を接着剤でくっつけてしまうような修理は、よくない修理の代表例に挙げられるが、もとの部材が紛失せず、次の修理のタイミングまで伝わる利点もある。常に万全の修理を受けられればいいが、戦争や災害など緊急の際は仕方ない。次の修理者はぶつぶつ言いながら修理したとしても、それはそれでいいのではないか、というのは、いかにも現場に立った、大らかな意見で、いいなあと思った。