3月14日(金)に仕事で大阪に行くことが決まった。会議に続き、懇親会が終わるのが19時過ぎ。2時間あれば、奈良に落ち延びて、修二会の最終日を聴聞できるじゃないか、と気づいた。予定より少し遅れたが、21時半頃にはJR奈良駅にたどり着くことができた。ホテルのチェックインを済ませ、まだ動いていた市内循環バスで東大寺に向かう。
バス停から南大門へ延びる参道には、さすがに人の姿がないが、ほどよく街灯が整備されているので、怖いとは感じなかった。オレンジ色のライトの下で、鹿の群れが悠々と草を食んでいる。暗闇を通して、車のライトが何度かほの見えた。
二月堂や三月堂のある高台に上がると、ざわざわと人声が満ちている。二月堂の下までタクシーで乗り付ける人、逆に車に乗って帰っていく人もいる。正面は騒がしくて落ち着けそうにないので、お堂の裏(東の局)に直行する。入口ぎりぎりまで人が座っていて、混雑ぶりに閉口したが、暗闇に目が慣れてくると、中央付近に空きがあることが分かった。そろそろと這うように移動して、格子戸かぶりつきの最前列をキープ。高い三角襟を立てた練行衆たちが内陣を行き来する姿がよく見える。やがて力強く「南無最上」を繰り返す声明が始まる。しばらく待つと「南無観」も聴くことができた。
この東の局は、比較的マナーのいいお客さんが多い。それでも低い声で会話したり、断続的に携帯のライトを使用して手元を確認するお客さんがいたりすると気になる。あと最前列で立ったり中腰になっては駄目だと思う。後ろにもお客さんがいるんだから。それにもまして、外陣の特別拝観を許された男性客には、いらいらすることが多い(格子戸の前に立たれると邪魔なんだよ)。今回、私の格子の前には、お父さんに連れられた中学生くらいの男子ふたりが行儀よく座っていた。
音楽性豊かな行法が一段落して、いよいよ達陀(だったん)かな?と思って身構えていると、内閣総理大臣○○○○、国務大臣△△△△…と、政治家の名前を連ねた祈願文(?)の読み上げが聞こえてくる。ああ、修二会は国家鎮護を祈願する行法だったということに思いを致す。このとき、私の前にいた男子ふたりが、俄然立ち上がって、興味津々の面持ちで内陣の隅を注視している。何が気になるのかと思ったら、一部の練行衆が達陀帽をかぶり、袈裟を脱ぎ(?)「変装」を始めていたのだった。
それから、いつの間にか達陀の行法が始まっていた。お松明に火がつくと同時に、甘い香りが堂内に満ちたこともあったような気がするが、今回は気づかなかった。水天の登場もよく分からなかった。やがて火天と水天の掛け合いが始まるのだが、裏側に引っ込むと「もっと下向けて!下!」など、先輩からの指示の声が聞こえたり、やや興ざめな光景を見ることになってしまう。指示の後に「オッケー!」と言っていたのに苦笑してしまった。いや、別に英語を禁止する行法ではないし。意外と自然体なんだよな、練行衆とそれを支える東大寺のみなさん。でも本当は、達陀は正面から見るほうが面白いと思う。
今回は、法螺貝の掛け合いの迫力がいまいちだったように思う。そのかわり、声明の音頭をとる方は、素晴らしい美声だった。私は、前回2011年3月4日に聴聞したときも「今年の錬行衆は声がいい」と記録に書いているが、同じ方だろうか。
達陀が終わると、外陣のお客さんが一斉に立ち上がって引き揚げ始める(しかも私語をしながら)のも少し腹立たしい。まだ行法は終わっていなくて、静かな唱えごと、鐘の音とともに、修二会はデクレッシェンドで終わっていく。余韻を胸に局の外に出たときは、北側の出口のまわりは人垣ができていて、退出する錬行衆の姿は、ほとんど見えなかった。
でも楽しかったな。次回は、達陀もお水取りもなくていいから、普通の日に普通の声明だけ、静かに聴聞したい。
バス停から南大門へ延びる参道には、さすがに人の姿がないが、ほどよく街灯が整備されているので、怖いとは感じなかった。オレンジ色のライトの下で、鹿の群れが悠々と草を食んでいる。暗闇を通して、車のライトが何度かほの見えた。
二月堂や三月堂のある高台に上がると、ざわざわと人声が満ちている。二月堂の下までタクシーで乗り付ける人、逆に車に乗って帰っていく人もいる。正面は騒がしくて落ち着けそうにないので、お堂の裏(東の局)に直行する。入口ぎりぎりまで人が座っていて、混雑ぶりに閉口したが、暗闇に目が慣れてくると、中央付近に空きがあることが分かった。そろそろと這うように移動して、格子戸かぶりつきの最前列をキープ。高い三角襟を立てた練行衆たちが内陣を行き来する姿がよく見える。やがて力強く「南無最上」を繰り返す声明が始まる。しばらく待つと「南無観」も聴くことができた。
この東の局は、比較的マナーのいいお客さんが多い。それでも低い声で会話したり、断続的に携帯のライトを使用して手元を確認するお客さんがいたりすると気になる。あと最前列で立ったり中腰になっては駄目だと思う。後ろにもお客さんがいるんだから。それにもまして、外陣の特別拝観を許された男性客には、いらいらすることが多い(格子戸の前に立たれると邪魔なんだよ)。今回、私の格子の前には、お父さんに連れられた中学生くらいの男子ふたりが行儀よく座っていた。
音楽性豊かな行法が一段落して、いよいよ達陀(だったん)かな?と思って身構えていると、内閣総理大臣○○○○、国務大臣△△△△…と、政治家の名前を連ねた祈願文(?)の読み上げが聞こえてくる。ああ、修二会は国家鎮護を祈願する行法だったということに思いを致す。このとき、私の前にいた男子ふたりが、俄然立ち上がって、興味津々の面持ちで内陣の隅を注視している。何が気になるのかと思ったら、一部の練行衆が達陀帽をかぶり、袈裟を脱ぎ(?)「変装」を始めていたのだった。
それから、いつの間にか達陀の行法が始まっていた。お松明に火がつくと同時に、甘い香りが堂内に満ちたこともあったような気がするが、今回は気づかなかった。水天の登場もよく分からなかった。やがて火天と水天の掛け合いが始まるのだが、裏側に引っ込むと「もっと下向けて!下!」など、先輩からの指示の声が聞こえたり、やや興ざめな光景を見ることになってしまう。指示の後に「オッケー!」と言っていたのに苦笑してしまった。いや、別に英語を禁止する行法ではないし。意外と自然体なんだよな、練行衆とそれを支える東大寺のみなさん。でも本当は、達陀は正面から見るほうが面白いと思う。
今回は、法螺貝の掛け合いの迫力がいまいちだったように思う。そのかわり、声明の音頭をとる方は、素晴らしい美声だった。私は、前回2011年3月4日に聴聞したときも「今年の錬行衆は声がいい」と記録に書いているが、同じ方だろうか。
達陀が終わると、外陣のお客さんが一斉に立ち上がって引き揚げ始める(しかも私語をしながら)のも少し腹立たしい。まだ行法は終わっていなくて、静かな唱えごと、鐘の音とともに、修二会はデクレッシェンドで終わっていく。余韻を胸に局の外に出たときは、北側の出口のまわりは人垣ができていて、退出する錬行衆の姿は、ほとんど見えなかった。
でも楽しかったな。次回は、達陀もお水取りもなくていいから、普通の日に普通の声明だけ、静かに聴聞したい。