見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

珍妃?瑾妃の「翠玉白菜」/台北 國立故宮博物院展(東京国立博物館)

2014-07-06 16:39:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『台北 國立故宮博物院-神品至宝-』(2014年6月24日~9月15日)

 もう10年以上前になるが、台北の故宮博物院には行ったことがあり、もちろん「白菜」も見てきた。だから、敢えて東博へ「翠玉白菜」の展示期間(6月24日~7月7日)のうちに行かなくてもいいんじゃないかと思ったが、やっぱりあの「白菜」がどんなふうに展示され、どんな人たちが見に来ているのか、目撃しておきたいと思って、金曜の夜に札幌を発った。

 はじめてJetstarというLCCを使ってみる。札幌-羽田便がないので避けていたが、20:10札幌発→成田空港に飛んで、スカイライナーを使うと、日付が変わる前に上野に到着できることが分かった。

 翌朝(土曜日)目が覚めると、菓子パンの朝食を携帯して、東博に向かう。7:30過ぎに行ってみると、50人~70人くらいの人だかり。まあ穏当なところだと思って並ぶ。8:00を過ぎる頃からどんどん人が増え、四人並びの列は、正門前で三折になる。列に並べるのはチケットを持っている人だけ。チケット売り場は9:00開場のため、「コンビニで前売券を買って来て、列に並ぶほうが早く入館できます!」と係の方は案内していた。最寄りのコンビニまで15分かかるらしかったけど…。

 列に並んでいるうちに簡単な荷物検査(係員の目視)があった。8:30に開門。ちょっと可哀想だったのは、私の隣りにいた女性(中国系)は、後から合流する友人の分もチケットを持っていたので、構内に入れず、門外で待機。列の先頭は、9:00少し前に正面玄関前まで誘導された。私は車寄せの屋根を少し外れるくらいの位置。長い列は、少しずつ区切られ、表慶館の前から法隆寺館のほうへ大きく弧を描くように続いている。

 正規の開館時間は9:30だが、9:15には館内に誘導された。特別5室(大階段の奥)の左手にある特別4室で待機。なるほどね、この部屋は展示室に使ったり(大出雲展とか)入館待ちの待機所に使ったり、両様に使い分けるんだな。

 並んでいるときに渡されたチラシによれば「翠玉白菜」展示室内は、さらに順路がくねくねと折れ曲がっているらしい。『キトラ古墳』のときみたいに、一気に「白菜」までダッシュできないかな、と思ったが、順路が細くて難しかった。展示室内では、大スクリーンで「白菜」紹介ビデオを見せられたあと、人数を区切って、その裏側に誘導され、ようやく「白菜」と対面する。最前列でのひとまわりは急かされるが、後方ゾーンに退けば、何時間滞在してもいいことになっている。

 私は大スクリーンをカットし、さらに最前列のひとまわりも省略し、係員に断って、後方ゾーンに「横入り」させてもらった。これで十分である。360度とはいかないが、240度くらいの角度から、自由にゆっくり眺めることができた。「意外と小さい」というのは、台湾に行く前にも友人から聞かされた覚えがある。それよりも記憶より「薄くて平べったい」ことに驚いた。元来はどんな形状の玉石だったのかなあ。白菜を飾っている台(紫檀?)も優雅で美しい。

 平成館の展示の最後で「翠玉白菜」紹介ビデオを見たら「瑾妃の嫁入り道具だった」という解説があった。あの、丸々した顔で「月餅ちゃん」と呼ばれていたという皇妃さまか! そして、光绪帝が没し、清朝が倒れた後も、ラストエンペラー溥儀とともに紫禁城で暮らし続けた瑾妃のかたわらに、この優美で可憐な白菜はあったのか…。妹の珍妃のように光绪帝に寵愛されることはなかったが、丹青(絵画)と書法を好み、美食家でもあったという瑾妃には親しみが湧く。馮玉祥らの北京進軍(北京政変)によって、宣統帝溥儀が紫禁城を追放されるのが1924年10月。瑾妃の死去は、同じ1924年の「中秋」の直後とあるから、本当の激動を知らずに済んだ、自足した幸せな一生だったかもしれない。

 と感慨にふけっていたら、「白菜轟動日本」(白菜、日本を揺り動かす)大騒動を報じる台湾のニュースが「翠玉白菜が瑾妃の嫁入り道具だというのは証拠に乏しい」とか「元来、珍妃の嫁入り道具だったものが、珍妃の死後に瑾妃のものになったのではないか」などと論じているのを見てしまった。どうだったのかねえ。元来、珍妃の嫁入り道具だったとしたら、それも哀しい来歴である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする