○小林美希『ルポ保育崩壊』(岩波新書) 岩波書店 2015.4
ひとり身の私には不似合いな本だが、気になる書評を目にしたこともあって、読んでみた。もしかすると、全くおかど違いの感想を述べて失笑されてしまうかもしれないが、まあ仕方ない。当初、「保育崩壊」というのは、いくらなんでも煽り過ぎの宣伝文句ではないかと思ったが、読み終えてみると、決して誇張と言えない、寒々とした恐ろしさが残る。
保育所には、運営形態によっていくつかのタイプがあるが、著者が特に問題視するのは、補助金(公費)を受けた株式会社が運営する民設民営タイプの認可保育所だ。民間企業が保育を事業化し利益を出そうとすれば、人件費を削るしかない。その結果、子どもの数に対して保育士の数が十分でなかったり、単価の高いベテランの保育士が敬遠されたりしている。待機児童を解消した自治体のニュースを聞くと、単純に喜んでいたのだが、実は保育所が乱立する中で、新規の保育所では質の担保ができくい状況にあるというのだ。さらに公立保育所では、待機児童解消のため、定員オーバーでも園児を受け入れるよう、役所から命じられる場合があるそうだ。それは本末転倒というものだろう…。
高まる保育の需要に対して保育士の人材確保が追いつかないため、現場の保育士の労働実態は過酷なものになっている。給料は安く、仕事は多い。女性の多い職場なのに、職場流産も多い。耐えきれずに辞め、二度と職場に戻らないケースが多く、保育士不足は一向に解消されない。ううむ…間違っている。介護士不足と同じ構造だ。
補助金で運営されている民間の認可保育所の場合、運営費に見積もられている人件費も安すぎるという。保育士の配置は各年齢の児童数を基礎とするのだが、計算の過程で端数を四捨五入すると、最終的に本来の年齢別の基準を守れない場合が出てきてしまう。開園時間は11時間以上なのに、人件費の算定が保育士一人あたり8時間でされているため、はじめから3時間分が不足しているという問題に至っては、どうして暴動が起きないのかと思う。この上に「利益を上げよう」という企業の意思が働くのだから、たまったものじゃない。
人手不足の保育所では、「エプロン・テーブルクロス」と言って、ハンドタオルでつくったエプロンの先をテーブルに敷き、その上に食器を置いて、食事をさせることがあるそうだ。食事をこぼしても片づけやすく、タオルの上なら、また食器に戻して食べさせることもできる。しかし、これは子どもの人権を無視した食事方法ではないか、と著者はいぶかる。また、食べるのが遅い子がいると、保育士が後ろに立って、茶碗とスプーンを持ち、子どもの口にかきこむ、というレポートも本書にはある。子どものいない私でも、さすがにそれはいかんだろうと思うが、ベテランの指導を受ける機会もない若い保育士は、そんなものかと受け入れてしまうらしい。
子どもの情操教育には、二歳だか三歳だかまで母親が一緒にいることが必要、という説を聞いたことがある(うろ覚え)。これは全く信じられないが、逆に、毎日こんな虐待まがいの保育を受けていたら、悪影響がないはずはないと思う。母親であると他人であるとにかかわらず、責任をもって子どもを見守る保護者(保育者)の存在は重要だ。そして、私は全く分かっていなかったけど、保育士の仕事は、預かった子どもの安全を保証するだけではない。健康な生活習慣を身につけるため、適度に運動させたり睡眠を取らせたり(寝かせ過ぎもダメ)、楽器や遊具の使い方を覚え、ほかの子や先生とコミュニケーションを取ることで、集団生活の準備を促すなど、親に代わって子供を「育てる」ことにも責任を負わなければならないのだ。保育士は高度な専門職だと、あらためて認識した。
保育に限らないけど、共同体の未来を左右する大切な仕事を、損得勘定で動く「企業」に投げ与えてしまって、この国はどこまで堕ちようとしているのか。
ひとり身の私には不似合いな本だが、気になる書評を目にしたこともあって、読んでみた。もしかすると、全くおかど違いの感想を述べて失笑されてしまうかもしれないが、まあ仕方ない。当初、「保育崩壊」というのは、いくらなんでも煽り過ぎの宣伝文句ではないかと思ったが、読み終えてみると、決して誇張と言えない、寒々とした恐ろしさが残る。
保育所には、運営形態によっていくつかのタイプがあるが、著者が特に問題視するのは、補助金(公費)を受けた株式会社が運営する民設民営タイプの認可保育所だ。民間企業が保育を事業化し利益を出そうとすれば、人件費を削るしかない。その結果、子どもの数に対して保育士の数が十分でなかったり、単価の高いベテランの保育士が敬遠されたりしている。待機児童を解消した自治体のニュースを聞くと、単純に喜んでいたのだが、実は保育所が乱立する中で、新規の保育所では質の担保ができくい状況にあるというのだ。さらに公立保育所では、待機児童解消のため、定員オーバーでも園児を受け入れるよう、役所から命じられる場合があるそうだ。それは本末転倒というものだろう…。
高まる保育の需要に対して保育士の人材確保が追いつかないため、現場の保育士の労働実態は過酷なものになっている。給料は安く、仕事は多い。女性の多い職場なのに、職場流産も多い。耐えきれずに辞め、二度と職場に戻らないケースが多く、保育士不足は一向に解消されない。ううむ…間違っている。介護士不足と同じ構造だ。
補助金で運営されている民間の認可保育所の場合、運営費に見積もられている人件費も安すぎるという。保育士の配置は各年齢の児童数を基礎とするのだが、計算の過程で端数を四捨五入すると、最終的に本来の年齢別の基準を守れない場合が出てきてしまう。開園時間は11時間以上なのに、人件費の算定が保育士一人あたり8時間でされているため、はじめから3時間分が不足しているという問題に至っては、どうして暴動が起きないのかと思う。この上に「利益を上げよう」という企業の意思が働くのだから、たまったものじゃない。
人手不足の保育所では、「エプロン・テーブルクロス」と言って、ハンドタオルでつくったエプロンの先をテーブルに敷き、その上に食器を置いて、食事をさせることがあるそうだ。食事をこぼしても片づけやすく、タオルの上なら、また食器に戻して食べさせることもできる。しかし、これは子どもの人権を無視した食事方法ではないか、と著者はいぶかる。また、食べるのが遅い子がいると、保育士が後ろに立って、茶碗とスプーンを持ち、子どもの口にかきこむ、というレポートも本書にはある。子どものいない私でも、さすがにそれはいかんだろうと思うが、ベテランの指導を受ける機会もない若い保育士は、そんなものかと受け入れてしまうらしい。
子どもの情操教育には、二歳だか三歳だかまで母親が一緒にいることが必要、という説を聞いたことがある(うろ覚え)。これは全く信じられないが、逆に、毎日こんな虐待まがいの保育を受けていたら、悪影響がないはずはないと思う。母親であると他人であるとにかかわらず、責任をもって子どもを見守る保護者(保育者)の存在は重要だ。そして、私は全く分かっていなかったけど、保育士の仕事は、預かった子どもの安全を保証するだけではない。健康な生活習慣を身につけるため、適度に運動させたり睡眠を取らせたり(寝かせ過ぎもダメ)、楽器や遊具の使い方を覚え、ほかの子や先生とコミュニケーションを取ることで、集団生活の準備を促すなど、親に代わって子供を「育てる」ことにも責任を負わなければならないのだ。保育士は高度な専門職だと、あらためて認識した。
保育に限らないけど、共同体の未来を左右する大切な仕事を、損得勘定で動く「企業」に投げ与えてしまって、この国はどこまで堕ちようとしているのか。