○小熊英二『生きて帰ってきた男:ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書) 岩波書店 2015.6
暇つぶしのつもりで読み始めたら、どんどん夢中になってしまった。万人に勧められるかどうか分からないが、私はこういう本が大好きなのである。思い入れの希薄なノンフィクションの文体で、しかし内容は並みの小説以上の波乱に富んでいて、先の展開が全く予想できない。本書は、一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の生活模様を描いている。主人公は著者の父親である小熊謙二(1925-)。ここまでが表紙カバーの紹介文から得られる情報である。
謙二は、北海道常呂郡佐呂間村(現・常呂町)に生まれた。小熊家は新潟県の素封家だったが、祖父の代に零落し、謙二の父の雄次は、札幌、網走を経て、佐呂間に流れついた。同地で出会った片山芳江と結婚し、男児が三人、女児が三人生まれたが、芳江が結核で病死したことから、子供たちは、東京にいる祖父母(芳江の両親)のもとに送り出された。祖父の片山伊七は、高円寺で零細な菓子屋や天ぷら屋を営みながら、謙二らを育てた。やがて早実中学を卒業し、富士通信機で働いていた謙二は、1944(昭和19)年11月、入営する(19歳)。
副題が「ある日本兵の戦争と戦後」だから、すぐに軍隊の話になるかと思いきや、戦前の北海道と東京の生活描写が淡々と続く。「あとがき」で著者も言及しているが、謙二氏の記憶は非常に細密で、しかも客観的である。まるで記録フィルムを見るように、戦前の暮らしが鮮明に立ち現れてくる。(私はよく知らないが)ドラマや小説に描かれるのは、もう少し裕福な「月給取り」の家庭が多くて、このような零細商店や職人の姿が詳しく描かれることは珍しいのではないか。
入営した謙二は、満洲の寧安近郊に送られたが、本格的な訓練もなくて「ぶらぶら」していた。8月9日、ソ連軍の侵攻で状況は一変する。敗戦を知り、捕虜としてシベリアへ移送される。以後、チタ(※ウランバートルの北東部あたり)の収容所で三年間を過ごし、帰国できたのは1948(昭和23)年8月のことだった。実は、私の大学時代の恩師(故人)もシベリア抑留体験者だった。興に乗ると酒の席でシベリアの話をしてくれることがあって、収容所の外に集団で連れ出され、銃殺かガス室かと覚悟したら、シラミ駆除のための公衆浴場行きだったという「オチ」が十八番だった。本書に全く同じ話が出てきたので懐かしかった。しかし、こんな笑えるエピソードは数えるほどで、収容所生活は苦難の連続である。生活環境は「まるで原始時代」で、仲間が死んでも悲しむ余裕さえなくなってしまう。私の恩師が決して語らなかった体験はいかばかりだったろう、と少しぞっとしている。
帰国後の謙二は、職業を転々としながら必死に生きていく。25歳で結核の診断を受け、30歳まで療養所で過ごす。退所しても、格別な技能も職歴もなく、30過ぎて三畳一間に妹とひとつ布団で寝るような生活だった。しかし、1950年代末、スポーツや文具を外商で販売する会社に誘われ、高度成長の恩恵を受けて、少しずつ生活が好転する。結婚し、英二(著者)が生まれ、鉄筋コンクリートの家を新築して移り住む(43歳)。まもなく高度成長にも陰りが生じ、勤務先の倒産や家族の不幸にも見舞われるが、おおむね安定した生活が続く。
ここまで読みながら、いろいろなことを考えた。戦後の謙二の生活は、軍隊や収容所の体験をきれいサッパリ忘れたように見える。過去を振り返ってなどいたら、今を生き抜くことができない状態だったのだと思う。しかし見方を変えれば、技能や知識を身につけるはずの年代を戦争で棒に振ってしまったから、40歳近くまで安定した生活を手に入れられなかったとも言える。私は高度成長以前の日本をかすかに記憶している世代だが、「月給取り」の家庭に育ったので、生活は安定していた。でも記憶の底を探ってみると、そうだ、日本は貧しかったし、大人が必死で働いていた、ということを久しぶりに思い出した(子供は呑気だったかも)。
さて、還暦を越えた謙二の人生には驚くべき展開が待っている。1988(昭和63)年、ソ連抑留者に対して日本政府が国債10万円の「慰労金」を出すことになった。当初「意地でもいらない」と思っていた謙二だが、同じ収容所にいた朝鮮系の中国人(当時は日本兵)に恩給や慰労金の請求権がないことを知り、自分が受け取った10万円の半額を送った。その後、1996(平成8)年に朝鮮人の元シベリア抑留者たちが日本政府に訴訟を起こすことになり、謙二は、求められるままに共同原告となることを引き受け、自分で書いた陳述書を読み上げた。驚いた。どんな小説家なら、こんな筋書きを構想できるだろうか。くるりと「戦後」に場面転換したはずの舞台に、再び「戦争」の記憶が登場するなんて。訴訟の妥当性や日本政府の主張については、それぞれ本書を読んで考えてもらいたい。
最後に89歳になった謙二氏の言葉がいくつか収録されている。原発事故について。排外的な罵言の横行について。失われた労働のモラルについて。いずれも胸にひびく内容だった。こういう人の生涯を知ることができて幸せに思う。
暇つぶしのつもりで読み始めたら、どんどん夢中になってしまった。万人に勧められるかどうか分からないが、私はこういう本が大好きなのである。思い入れの希薄なノンフィクションの文体で、しかし内容は並みの小説以上の波乱に富んでいて、先の展開が全く予想できない。本書は、一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の生活模様を描いている。主人公は著者の父親である小熊謙二(1925-)。ここまでが表紙カバーの紹介文から得られる情報である。
謙二は、北海道常呂郡佐呂間村(現・常呂町)に生まれた。小熊家は新潟県の素封家だったが、祖父の代に零落し、謙二の父の雄次は、札幌、網走を経て、佐呂間に流れついた。同地で出会った片山芳江と結婚し、男児が三人、女児が三人生まれたが、芳江が結核で病死したことから、子供たちは、東京にいる祖父母(芳江の両親)のもとに送り出された。祖父の片山伊七は、高円寺で零細な菓子屋や天ぷら屋を営みながら、謙二らを育てた。やがて早実中学を卒業し、富士通信機で働いていた謙二は、1944(昭和19)年11月、入営する(19歳)。
副題が「ある日本兵の戦争と戦後」だから、すぐに軍隊の話になるかと思いきや、戦前の北海道と東京の生活描写が淡々と続く。「あとがき」で著者も言及しているが、謙二氏の記憶は非常に細密で、しかも客観的である。まるで記録フィルムを見るように、戦前の暮らしが鮮明に立ち現れてくる。(私はよく知らないが)ドラマや小説に描かれるのは、もう少し裕福な「月給取り」の家庭が多くて、このような零細商店や職人の姿が詳しく描かれることは珍しいのではないか。
入営した謙二は、満洲の寧安近郊に送られたが、本格的な訓練もなくて「ぶらぶら」していた。8月9日、ソ連軍の侵攻で状況は一変する。敗戦を知り、捕虜としてシベリアへ移送される。以後、チタ(※ウランバートルの北東部あたり)の収容所で三年間を過ごし、帰国できたのは1948(昭和23)年8月のことだった。実は、私の大学時代の恩師(故人)もシベリア抑留体験者だった。興に乗ると酒の席でシベリアの話をしてくれることがあって、収容所の外に集団で連れ出され、銃殺かガス室かと覚悟したら、シラミ駆除のための公衆浴場行きだったという「オチ」が十八番だった。本書に全く同じ話が出てきたので懐かしかった。しかし、こんな笑えるエピソードは数えるほどで、収容所生活は苦難の連続である。生活環境は「まるで原始時代」で、仲間が死んでも悲しむ余裕さえなくなってしまう。私の恩師が決して語らなかった体験はいかばかりだったろう、と少しぞっとしている。
帰国後の謙二は、職業を転々としながら必死に生きていく。25歳で結核の診断を受け、30歳まで療養所で過ごす。退所しても、格別な技能も職歴もなく、30過ぎて三畳一間に妹とひとつ布団で寝るような生活だった。しかし、1950年代末、スポーツや文具を外商で販売する会社に誘われ、高度成長の恩恵を受けて、少しずつ生活が好転する。結婚し、英二(著者)が生まれ、鉄筋コンクリートの家を新築して移り住む(43歳)。まもなく高度成長にも陰りが生じ、勤務先の倒産や家族の不幸にも見舞われるが、おおむね安定した生活が続く。
ここまで読みながら、いろいろなことを考えた。戦後の謙二の生活は、軍隊や収容所の体験をきれいサッパリ忘れたように見える。過去を振り返ってなどいたら、今を生き抜くことができない状態だったのだと思う。しかし見方を変えれば、技能や知識を身につけるはずの年代を戦争で棒に振ってしまったから、40歳近くまで安定した生活を手に入れられなかったとも言える。私は高度成長以前の日本をかすかに記憶している世代だが、「月給取り」の家庭に育ったので、生活は安定していた。でも記憶の底を探ってみると、そうだ、日本は貧しかったし、大人が必死で働いていた、ということを久しぶりに思い出した(子供は呑気だったかも)。
さて、還暦を越えた謙二の人生には驚くべき展開が待っている。1988(昭和63)年、ソ連抑留者に対して日本政府が国債10万円の「慰労金」を出すことになった。当初「意地でもいらない」と思っていた謙二だが、同じ収容所にいた朝鮮系の中国人(当時は日本兵)に恩給や慰労金の請求権がないことを知り、自分が受け取った10万円の半額を送った。その後、1996(平成8)年に朝鮮人の元シベリア抑留者たちが日本政府に訴訟を起こすことになり、謙二は、求められるままに共同原告となることを引き受け、自分で書いた陳述書を読み上げた。驚いた。どんな小説家なら、こんな筋書きを構想できるだろうか。くるりと「戦後」に場面転換したはずの舞台に、再び「戦争」の記憶が登場するなんて。訴訟の妥当性や日本政府の主張については、それぞれ本書を読んで考えてもらいたい。
最後に89歳になった謙二氏の言葉がいくつか収録されている。原発事故について。排外的な罵言の横行について。失われた労働のモラルについて。いずれも胸にひびく内容だった。こういう人の生涯を知ることができて幸せに思う。