〇台東区立書道博物館 企画展『王羲之書法の残影-唐時代への道程(みちのり)』(2019年1月4日~3月3日)
東京国立博物館の『顔真卿』展がよかったので、久しぶりに書道博物館に行ってみた。自分のブログで調べると2012年秋に訪ねたのが最後で、6年ぶりらしい。そうかー札幌で暮らしたり、つくばで暮らしたり、東京を離れている間、訪ねる機会がなかったのだ。
本展は16回目となる東博と書道博物館の連携企画展。中国の書の歴史において、王羲之が活躍した東晋時代(317-420)と、虞世南・欧陽詢・褚遂良・顔真卿らが活躍した唐時代(618-907)は、書が最も高い水準に到達したと考えられている。2つの時代を結ぶ懸け橋となるのが、南北朝時代(439-589)。今回は東晋時代から唐時代までの書の道のりを拓本や肉筆資料で紹介する。
ひとことで言うなら、洗練された南朝の書と、逞しさを感じさせる北朝の書。この構図は、2010年の書道博物館の企画展『墓誌銘にみる楷書の美』で教えてもらって、以後、中国の古い書を見るときに思い出している。本展では展示品に「北朝」「南朝」の区別が表示されていて分かりやすかった。とりあえず一番大きなケースに展示された巨大な拓本2点に近づく。左は北魏(北朝)の鄭道昭による『鄭羲上碑』。規則正しい正方形の構えで線質は重厚である、というが、文字のひとつひとつはあまりよく見えなかった。右は梁(南朝)の陶弘景による『瘞鶴銘』。ああ~鎮江の焦山に行ったけど、瘞鶴銘の石碑は見られなかったなあと懐かしく思い出す。大きな文字が、ふわふわと勝手気ままに踊っているようで、のびのびして華やか。なお、魏の太祖・曹操(155-220)が豪華な石碑の建立を禁じた影響で(200年くらい経っているけど?)この時代は大きな石碑が珍しいのだそうだ。
北朝は、文化的に南朝の後塵を拝していた。北魏の寇謙之の功績を刻んだ『中岳嵩高霊廟碑』は隷書と楷書が混在しているのが面白い。でも武骨だけど堂々として好きな字姿。これも登封の中岳廟でたぶん見ているはずだ。南朝ではやがて大きな石碑が復活するが、北朝では石碑に代わって、小型の墓誌銘が発達する。そして、北魏・孝文帝の漢化政策によって、北朝の書は6世紀に入ると急速に発達し、北朝の力強さに南朝の洗練というか品格が加わる。この時期の墓誌銘、すごくよい。一方、洛陽の龍門石窟に残る北魏の造像記は、同時代なのに墓誌銘とはずいぶん字姿が違う。どれも北朝本来の力強さと鋭さが際立っていて個性的。これはこれで、とても好き。龍門は石仏ばかり気にしていたが、石碑も楽しめるなあ。
そして隋から唐へ。隋代には、さまざまな書風が混在しているが、次第に南北融合の書風が初唐の公式書体へと発展していく。これを日本は受容したのだな。唐の四大家の書風も分かりやすく解説されていた。顔真卿は44歳の『千福寺多宝塔碑』と、72歳の『顔氏家廟碑』が出ていた。年齢を重ねたほうが、自由度と迫力を増していてすごい。
それから、二王(王羲之・王献之)の書法を受け継ぐという唐・玄宗の代表的な作例として『鶺鴒頌』(拓本)が出ていて、あっと驚いた。年末に台湾故宮博物館の『国宝再現』展で本物を見てきたものではないか! そんなに感心せずに見てしまって、申し訳なかったかもしれない。
企画展のあと、本当に久しぶりに本館の常設展示も見てきた。南北朝時代の代表的な墓誌『司馬昇墓誌』は「四司馬墓誌」の1つだという。また「楷書」という名称が普及したのは宋以降で、それ以前だと、どう見ても楷書なのに「隷書」と書かれている例があった。漢代の副葬品で陶器の瓶に故人の氏名や墓を造った日を記したものがいくつもあった。文字は赤漆(たまに黒漆)で書かれている。あまり他所で見たことのないもので珍しかった。
書道博物館は、撮影禁止などの館内掲示がものすごく達筆で、しかもユーモアありということで、最近SNSで話題になっている。確かに肩の力が抜けて、楽しかった。どなたが書いていらっしゃるのだろう。あとマンガみたいな中村不折のマークもよい。次回は、あまり間を空けずに再訪したい。
東京国立博物館の『顔真卿』展がよかったので、久しぶりに書道博物館に行ってみた。自分のブログで調べると2012年秋に訪ねたのが最後で、6年ぶりらしい。そうかー札幌で暮らしたり、つくばで暮らしたり、東京を離れている間、訪ねる機会がなかったのだ。
本展は16回目となる東博と書道博物館の連携企画展。中国の書の歴史において、王羲之が活躍した東晋時代(317-420)と、虞世南・欧陽詢・褚遂良・顔真卿らが活躍した唐時代(618-907)は、書が最も高い水準に到達したと考えられている。2つの時代を結ぶ懸け橋となるのが、南北朝時代(439-589)。今回は東晋時代から唐時代までの書の道のりを拓本や肉筆資料で紹介する。
ひとことで言うなら、洗練された南朝の書と、逞しさを感じさせる北朝の書。この構図は、2010年の書道博物館の企画展『墓誌銘にみる楷書の美』で教えてもらって、以後、中国の古い書を見るときに思い出している。本展では展示品に「北朝」「南朝」の区別が表示されていて分かりやすかった。とりあえず一番大きなケースに展示された巨大な拓本2点に近づく。左は北魏(北朝)の鄭道昭による『鄭羲上碑』。規則正しい正方形の構えで線質は重厚である、というが、文字のひとつひとつはあまりよく見えなかった。右は梁(南朝)の陶弘景による『瘞鶴銘』。ああ~鎮江の焦山に行ったけど、瘞鶴銘の石碑は見られなかったなあと懐かしく思い出す。大きな文字が、ふわふわと勝手気ままに踊っているようで、のびのびして華やか。なお、魏の太祖・曹操(155-220)が豪華な石碑の建立を禁じた影響で(200年くらい経っているけど?)この時代は大きな石碑が珍しいのだそうだ。
北朝は、文化的に南朝の後塵を拝していた。北魏の寇謙之の功績を刻んだ『中岳嵩高霊廟碑』は隷書と楷書が混在しているのが面白い。でも武骨だけど堂々として好きな字姿。これも登封の中岳廟でたぶん見ているはずだ。南朝ではやがて大きな石碑が復活するが、北朝では石碑に代わって、小型の墓誌銘が発達する。そして、北魏・孝文帝の漢化政策によって、北朝の書は6世紀に入ると急速に発達し、北朝の力強さに南朝の洗練というか品格が加わる。この時期の墓誌銘、すごくよい。一方、洛陽の龍門石窟に残る北魏の造像記は、同時代なのに墓誌銘とはずいぶん字姿が違う。どれも北朝本来の力強さと鋭さが際立っていて個性的。これはこれで、とても好き。龍門は石仏ばかり気にしていたが、石碑も楽しめるなあ。
そして隋から唐へ。隋代には、さまざまな書風が混在しているが、次第に南北融合の書風が初唐の公式書体へと発展していく。これを日本は受容したのだな。唐の四大家の書風も分かりやすく解説されていた。顔真卿は44歳の『千福寺多宝塔碑』と、72歳の『顔氏家廟碑』が出ていた。年齢を重ねたほうが、自由度と迫力を増していてすごい。
それから、二王(王羲之・王献之)の書法を受け継ぐという唐・玄宗の代表的な作例として『鶺鴒頌』(拓本)が出ていて、あっと驚いた。年末に台湾故宮博物館の『国宝再現』展で本物を見てきたものではないか! そんなに感心せずに見てしまって、申し訳なかったかもしれない。
企画展のあと、本当に久しぶりに本館の常設展示も見てきた。南北朝時代の代表的な墓誌『司馬昇墓誌』は「四司馬墓誌」の1つだという。また「楷書」という名称が普及したのは宋以降で、それ以前だと、どう見ても楷書なのに「隷書」と書かれている例があった。漢代の副葬品で陶器の瓶に故人の氏名や墓を造った日を記したものがいくつもあった。文字は赤漆(たまに黒漆)で書かれている。あまり他所で見たことのないもので珍しかった。
書道博物館は、撮影禁止などの館内掲示がものすごく達筆で、しかもユーモアありということで、最近SNSで話題になっている。確かに肩の力が抜けて、楽しかった。どなたが書いていらっしゃるのだろう。あとマンガみたいな中村不折のマークもよい。次回は、あまり間を空けずに再訪したい。