〇木村幹『全斗煥:数字はラッキーセブンだ』(ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房 2024.9
「あとがき」によれば、著者は2011年から5年間「全斗煥政権期のオーラルヒストリー調査」という研究プロジェクトに関わったが、2010年代後半には、まだ多くの政権関係者が生存しており、その証言や回想が揺らいでいた。しかし2021年秋に盧泰愚と全斗煥が相次いで病死したことで、著者は本書の執筆を思い立ったという。盧泰愚と全斗煥が2021年に病死したというのは、全く自分の記憶になくて、少し驚いた。両人とももっと古い時代の政治家だと思っていたので。
全斗煥(1931-2021)は慶尚南道の貧しい農村に生まれ、陸軍士官学校に進む。学業は芳しくなかったが、スポーツを通じて同輩の人望を得、高級将校の人脈を掴み、アメリカにも留学。1961年、朴正熙が軍事クーデタで政権を掌握すると、クーデタ勢力の一員となることに成功し、権力の階段を駆け上がっていく。
1979年10月の朴正熙暗殺事件、12月の粛軍クーデタの記述は、映画『KCIA 南山の部長たち』や『ソウルの春』を思い出しながら読んだ。映画と史実には異なる点も多いのだが、小さな史実が取り入れられている点もあって面白かった。
さらに興味深く思ったのは、粛軍クーデタ~光州事件におけるアメリカのジレンマと、全斗煥による自己正当化の理屈である。冷戦期のアメリカは「自らの側に立つ発展途上国の権威主義政権を、その非民主主義的な性格を度外視してまで、支援してきた」(本書)。しかし、これらの権威主義政権は、現地の人々の反感を買い、民主化運動が反米運動と結びつく状況が生まれてしまう。だからアメリカは、韓国の情勢にも強い懸念を示した。全斗煥は、光州の学生運動には「北朝鮮の介入」が認められるという「極秘情報」を挙げて、その鎮圧行為を正当化した。これは、昨今、沖縄について言われる「中国の介入」と同じ理屈で暗い気持ちになった。
そして政権樹立と新憲法制定。ちなみに本書の副題は、大統領任期を7年に定めたときの全斗煥の発言である。なお、朴正熙は、あらゆる問題について閣僚から詳細な報告を求め、具体的な指示を下す指導者だったが、全斗煥はこれと見込んだ人物を抜擢し、職務を長く任せるスタイルを好んだという。1980年、アメリカに保守派レーガン政権が誕生したことは全斗煥の追い風となる。中曽根政権の日本とも関係が改善。そうか、昭和天皇との晩餐会に出席したのも全斗煥だった。
国内では、カラーテレビ放送が解禁され、プロスポーツが始まり、ソウル五輪誘致に成功する。全斗煥は、大衆受けの良い文化政策を行う事により、民衆の関心を政治から娯楽へと誘導し、政権への不満をそらそうとしたと本書は解説するが、日本人にとって韓国イメージが明るく親しみやすいものになっていくのは、おそらくこの時代が始まりだと思う。
しかし再び政権批判と民主化の機運が高まり、学生運動や野党の活動が活発になる(金泳三の民主山岳会、おもしろすぎる)。全斗煥は、盟友・盧泰愚を後継者に指名し、引退後も背後から政治を操縦することを考えていたと思われるが、盧泰愚は「民主化宣言」を発表することで一気に脚光を浴び、野党勢力を抑えて大統領に当選する。国民から全斗煥政権への不満が噴出する中で、盧泰愚は全斗煥カラーの払拭に迫られ、全斗煥は盧泰愚への不信を募らせた。盧泰愚は全斗煥に海外亡命を提案したが拒否、全斗煥は江原道の山中の百潭寺でしばらく謹慎生活を送る。
1992年の大統領選挙に勝利した金泳三は、盧泰愚を収賄容疑で逮捕、さらに粛軍クーデタと光州虐殺を罪状として全斗煥を逮捕する。無期懲役が確定したのは1997年、しかし恩赦によって自邸に戻った全斗煥は、長い晩年を過ごすことになる。この間、本格的な政治活動こそ行わなかったものの、宗教活動など様々な活動に関わったという。知らなかった。
2000年代、ドラマ『第五共和国』で全斗煥を再発見したファンたちが全斗煥の生家を訪問するというエピソードがあった。映画『ソウルの春』は、決して全斗煥に肩入れさせない描き方をしているというが、やっぱり少し離れて眺めるこのひとには、どこか魅力がある。そして盧泰愚とはついに和解しなかったのだと知ると、あの映画に描かれた両者の親密さも、違った味わいが感じられる。