見もの・読みもの日記

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苗字はなかった/女の氏名誕生(尾脇秀和)

2024-12-07 20:44:56 | 読んだもの(書籍)

〇尾脇秀和『女の氏名誕生:人名へのこだわりはいかにして生まれたか』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2024.9

 同じ著者の『氏名の誕生』がとても面白くて、知らなかったこと、あるいはぼんやり気になっていたことを気持ちよく理解できたので、姉妹編の本書も必ず読もうと思っていた。そして読んだらやっぱり面白かった。

 本書の分析の中心となるのは江戸時代の女性名だが、「女性名の変遷」を古代から外観した箇所もある(p154)。8世紀の戸籍に見える女性名は1~4音節に接尾語「売(め)」が付くのが標準形で、氏姓は父系血統を表示した。9世紀初頭、嵯峨天皇が内親王に与えた漢字1字+「子」という女性名(ただし臣籍降下させた娘は〇姫)が、9世紀中には定型化し、11世紀までに貴族女性名は何子一色になった。貴族女性は裳着(成人)や女官として出仕する際、位階を得る時に何子という名を設定したが、日常的には使用されなかったらしい。

 11世紀末から13世紀の庶民は、生まれ順+子(太子/おおいこ、姉子/あねのこ)や貴族女性の童名のような形(女・子・御前などが付く)が見られた。16世紀には平仮名2文字(つる、かめ、はつ)が多くなり、頭に「お」が付くものも増える。17世紀には接尾語「女」が廃れ、18世紀には女性名の符号は接頭語「お」が定型となる。

 というわけで冒頭に戻ると、著者は各地に残る宗門人別帳をひもとき、江戸時代後期の女性名は、二音節が標準的であり、日常の口語では「お」付きで使用されていたこと、「お」を接頭語と見るか名前の一部と見るかは意見が分かれること、などを解説する(歌舞伎や文楽になじんでいると、だいたい感覚的に首肯できる)。同時に、日本の女性名と一括りにすると、町や村ごとの文化や慣習が抜け落ちてしまうという指摘も、もっともだと思った。

 江戸時代、人は「家」に属し「村」に属して生きていた。社会の矢面に立つのは戸主だけだから、それ以外は、識字の必要を感じずに暮らしていた人々も数多く存在した。明治初年の調査によれば「自己ノ姓名ヲ自記シ得ルモノ」(自署率)は男女差が大きい(地域差も大きい)。江戸時代の識字率は非常に高かったという説もあるけど、まあ日本全体ではこんなものだろうなと思う。つまり多くの女性は、自分の名前を音声でしか認識していなかったということだ。

 また江戸時代の女性名は基本的に単独で用いられ、男性名のように苗字を冠することはなかった。これは非常に驚いたところ。夫婦別姓問題に関して「日本は伝統的に夫婦同姓」というのは明確な間違いだが「伝統的に夫婦別姓」というのも、この「姓」を苗字の意味で解すると、あやしいのである。宗門人別帳を見ると、男性戸主は苗字と名前で記載するが、女性は「妻」「母」「後家」(名前なし)だったり、男性家族は苗字(戸主の苗字の繰り返し)+名前で記すのに、女性家族は名前だけという例が見られる。

 「女性名に苗字は付けない」慣習は、明治初期の戸籍にも持ち込まれる。しかし政府も困惑を感じていたようで、明治6年、内務卿・伊藤博文が「一般婦女姓氏ヲ冒シ候儀ニ付伺」を提出した。「氏ヲ冒シ」とは、女性が他家(婚家)の姓を名乗っても問題ないか?という問いである。審議の結果、明治国家は「家」を社会の基礎単位とするのだから、妻は夫の身分に従い、夫の姓を名乗るべきという指令を出そうとしたが、これは廃案になってしまったというからびっくり。復古主義者が、古代の「姓氏」のありかたを苗字にあてはめて反対したのである。明治9年には「婦女、人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユベキ事」という指令が発せられる(!)が、現場の混乱は止まず、問題の決着は、近代日本の「家」制度を明文化した明治民法の制定(明治29年)を待たなければならなかった。私は、学校制度とか暦とか、明治初年の混乱の話を聞くのが大好きなのだが、女性名にもこんな忘れられた歴史があったとは知らなかった。

 その後の女性名については、戸籍名「何子」の流行、姓名判断の流行、名前への愛着、そして平成から令和の特徴である、読めない名前の増加などが語られる。本書としては脇道の話題になると思うが、江戸時代に遡る実印(女性も用いた)の歴史も興味深く、現代人がくずし字(筆写体)を忘れた結果、活字体だけを正しいと考える、倒錯的な字形への執着などの指摘にも、苦笑いしながら考えさせられた。


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