〇土田宏成『災害の日本近代史:大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書) 中央公論新社 2023.7
20世紀初頭は、世界的に大規模な自然災害が相次いだ時期だった。災害は他国にも報道され、国境を超えた義援、救援、調査研究などが整備されていった。本書は、まず序章で1902年のプレー山噴火(カリブ海フランス領)を簡単に紹介する。約3万人の死者を出した大災害で、フランス公使の本野一郎から、主要国はフランス政府に弔辞と義援金を送っているので我が国も送るべき、という連絡が入り、外相の小村寿太郎は天皇に意見を具申した。こうやって日本は文明国の外交を実地に一歩ずつ学んでいったわけである。
本書に取り上げられている国内外の災害は以下のとおり(◆=日本)
◆1905年秋、日本の東北地方で大凶作
◇1906年4月、アメリカのサンフランシスコ地震
◇1906~07年、中国の中部で水害と飢饉
◇1908年、中国の広東地方で水害
◇1908年12月、イタリアのメッシーナ地震
◇1910年1月、フランスのパリで大洪水
◆1910年8月、日本の関東地方で大水害
◆1914年1月、日本の桜島大噴火
◆1917年9~10月、日本の東京湾岸を中心に高潮被害
◆1923年9月、日本で関東大震災
日本人と日本政府は、他国に義援を行ったり、義援を受け入れたりする経験を積んでいく。中国への義援金は、日本製品ボイコットを鎮静化するための「人心緩和剤」でもあったが、期待した効果は得られなかった。一方、パリの大洪水では、天皇の義援金が当地の各新聞に掲載され、良好な感動をフランスの人々に与えたと評価された。
国内の災害に関して、私が特に興味深く読んだのは、東京下町を襲った、1910年の水害と、1917年の高潮災害である。1910年8月、東京は8日から豪雨が続き、10日から河川の氾濫や土砂被害が起きた。錦糸町駅付近で搾乳業(牛飼い)を営んでいた伊藤佐千夫の文章、亀戸付近の写真が惨禍の凄まじさを伝える。このとき、閣僚は夏季休暇中で東京を離れている者も多く、初動の遅れにつながったという。災害対応の軽視は、日本政府の伝統なのかね。
それでも桂太郎首相は、この水害を契機として、近代日本初の治水長期計画を立案し、1911年から荒川放水路の開削事業をスタートさせる。放水路が1930年に完成し、荒川の本流となることで、東京東部の水害リスクは大幅に低減された。江戸川区生まれで、今は江東区に住む者としては本当に感慨深い。
また関東大水害では、応急復旧工事費を調達するための地方債を、郵便貯金を原資とする大蔵省預金部が引き受ける仕組みが作られ、その後の災害にも適用された。こういう仕組み、いまの制度ではどうなっているのか、よく分かっていないので気になる。
1917年9月30日から10月1日の東京湾台風では、防風と高潮によって、現在の江東区・江戸川区などに大きな被害が出た。東京府知事の井上友一は、救援・復旧につとめた。まずは被災者の収容、物資の無料配布、落ち着いてきたら、生活必需品の廉価販売と職業の紹介、資金の貸付けなど。また、災害時には軍隊が出動し、食料の配給や各種工事・作業に従事していたこと、青年団や在郷軍人会に協力が呼び掛けられている点は、関東大震災との関連でも興味深い。
そして1923年9月1日の関東大震災。東大地震学教室の今村明恒助教授は、大学に出勤していて地震に遭うが、なんだかのんびりした対応が手記に綴られている。天井の抜けた(落ちた)東大図書館の写真は初めて見た。著者は「戒厳令」の適用が、かえって人々に不安と混乱を引き起こしたのではないかと推測する。この是非はよく分からない。
国内外からは多くの義援金が寄せられた。民間で義援活動の中心になったひとりが渋沢栄一である。実は、関東大震災以前も、東京で何か災害があると、必ず登場するのは渋沢で、毀誉褒貶はあるけど、この点ではやっぱりえらい人だなと再認識した。
日本のように自然災害の多い国では、災害の記憶は「上書き」されてしまうという。戦前の日本については、関東大震災の存在が大き過ぎて、それ以外の災害について語られる機会は非常に少ない。けれども、少なくとも自分の居住する地域については、小規模・中規模の災害の記憶も気にかけていきたいと思う。