見もの・読みもの日記

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2024年7月関西旅行:和歌山県立博物館、和歌山市立博物館

2024-07-21 21:04:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

 前日は大阪・堺駅前のホテルに宿泊。朝イチに南海電車で和歌山へ。

和歌山県立博物館 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」登録20周年記念特別展『聖地巡礼-熊野と高野-. 第I期:那智山・那智瀧の神仏-熊野那智大社と青岸渡寺-』(2024年6月15日〜7月21日)

 同館は、2004年7月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録されてから、20周年の節目を迎えることを記念し、今年は5期にわたって熊野・高野の文化財をテーマとした展示を行う。第1期は、熊野三山のうち今なお神仏習合の景観を留める那智山、熊野那智大社と青岸渡寺を取り上げる。5期全部見たいなあ…と思いながら、とりあえず第1期を見に来た。展示規模は小さめ(全43件、企画展示室のみ)だが、熊野那智大社に伝来する最古の神像=女神坐像(平安時代)など、興味深いものを見ることができた。この女神坐像、髪は唐風に結い上げているが、きっちり膝を揃えて正座(大和座り)している。ただし膝の部分は別材なので、後補だったりしないかしら?と思ったが、よく分からない。同じくらいの大きさの男神坐像もあった。

 時代が下るが、桃山時代の熊野十二所権現古神像は全15躯。1躯だけ、剣を立てて構える童子形の立像(黄泉津事解男神像)で、あとは髭をたくわえ、尺を持つ束帯姿の男神坐像。なのだが、神名を見ていくと、天照大神坐像も男神の姿で作られている。伝承の混乱があるようで面白かった。

 那智瀧の経塚から見つかった銅仏の数々も展示されていたが、その中には、昭和5年(1930)に参道入口の枯池(からいけ)から見つかった、中国・唐時代の銅製の観音菩薩立像もあった。どうやって日本に伝来し、誰が何を願って埋納したのか、想像を誘われた。

 ちょうどこの前日(7月14日)、那智大社では「那智の扇祭り」という祭礼が行われていたらしい。大和舞や田楽が奉納されるのだそうだ。展示には、お田植式で使われる牛頭(牛役がかぶるお面)の古いものが出ていた。

和歌山市立博物館 陸奥宗光伯生誕180周年記念企画展『陸奥宗光と和歌山-宗光を支えた紀州の賢人-』(2024年7月6日~9月8日)

 続いてもう1ヶ所。近代モノだが、陸奥宗光は、以前から気になる人物だったので見ていくことにした。陸奥宗光(1844-1897)は、紀州藩・徳川治宝の側近だった伊達宗広(千広)の子どもとして生まれる。宗広は治宝の死によって失脚、一家は和歌山城下を追われ、一時期は高野山のふもとで暮らしたらしい。やがて江戸へ出て、坂本龍馬らと交友。明治に入ると和歌山で藩政改革に取り組み、藩が廃止されると新政府に出仕する。しかし土佐立志社の政府転覆計画に関わったことで、山形監獄→宮城監獄に収容される。獄中では学問に励み、出獄後は海外にも留学し、外務大臣として不平等条約改正に尽力した。

 思ったよりも苦労人で、明治になってから投獄経験があるというのを知らなかったので、びっくりした。高野山の奥の院に行くと、なぜか陸奥宗光の供養塔が弘法大師御廟の近く(御廟の橋を渡った先)にあるのが不思議だったが、窮乏時代に高野山の世話になっていたというのを知って、ちょっと納得した。陸奥の墓は鎌倉の寿福寺にあるのだな。今度、お参りしてこよう。


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